邦楽ポップス名曲のあゆみ 第13回(1979・後編)

セクシャル・バイオレットNo.1/桑名正博 (1979)

桑名正博のソロデビューシングル「哀愁トゥナイト」はラジオでよくかかっていてわりと気に入っていたのだが、実はオリコン週間シングルランキングで最高99位とそれほど売れていなかったことを後に知る。それから「サード・レディー」「スコーピオン」をはさんで4枚目のシングルとしてリリースされたこの曲がオリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも1位に輝く大ヒットとなった。作詞・作曲は「哀愁トゥナイト」からずっと松本隆・筒美京平の黄金コンビである。ヒットの要因としては、カネボウ化粧品のCMに使われていたことがやはりひじょうに大きい。

「ザ・ベストテン」が人気番組になったことにより、日本テレビ系の「紅白歌のベストテン」も「ザ・トップテン」にリニューアルし、二番煎じ的な内容でありながらもわりとよく見られていた。そして、1979年の秋からはフジテレビ系でやはり同じような番組「ビッグベストテン」がはじまるのだが、これがまたいろいろナメていて最高であった。結論からいうと次第に出演するアーティストが少なくなっていって数ヶ月で終わるのだが、その第1回目の1位だったのがこの曲であった。記念すべき番組開始1曲目の1位だったにもかかわらず、交通渋滞に巻き込まれ、スタジオに到着するのが遅れたために歌うことができないという、不安な先行きを暗示するような状態になっていた。

思い過ごしも恋のうち/サザンオールスターズ (1979)

「勝手にシンドバッド」でデビューした頃にはコミックバンドのように見られていたようなところもあったのだが、3枚目のシングル「いとしのエリー」がまさかのバラードで大ヒットしたことにより、完全に一般大衆的に見られ方が変わった。アルバム「10ナンバーズ・からっと」はオリコン週間シングルランキングで最高2位とかなり売れるのだが、そこからシングル・カットされたこの曲までもがオリコン週間シングルランキングで7位、「ザ・ベストテン」で4位と、いよいよ本格的に国民的人気バンド化しつつあった。片想いの切なさを歌った歌詞も、当時の中高生などの共感を呼んだ。

SEPTEMBER/竹内まりや (1979)

ニューミュージック全盛の1970年代後半、歌謡ポップス界ではビッグスターたちの人気もまだひじょうに高く、フレッシュアイドルには受難の時代であった。そんな中、ニューミュージック的な音楽をやっているのだがアイドル的な売り出され方やメディアでの取り上げられ方をするアーティストというのも結構出てきて、竹内まりやについてもそんな印象がある。中村雅俊が教師役を演じたテレビドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」では、不良少年たちが部屋で竹内まりやのレコードをかけながらジャケットを眺め、可愛いなぁ~などと言っているシーンがあったような気がする。それはそうとして、3枚目のシングルであるこの曲はオリコン週間シングルランキングで最高39位という記録以上には、体感的に一般大衆に知られていたような気もする。作曲・編曲はシティ・ポップ的な音楽をお茶の間に広めた功績はひじょうに大きいと思える林哲司、コーラスアレンジをデビュー前のEPOが手がけている。作詞は松本隆で、「からし色のシャツ」という最初のワードのインパクトや借りていた辞書のLOVEの文字のところだけを切り抜いて返し、それを別れのメッセージとするくだりなども味わい深い。イントロが流れた瞬間にこの曲がヒットしていた頃の空気感がよみがえる、そういったタイプの曲でもある。

テクノポリス/イエロー・マジック・オーケストラ (1979)

イエロー・マジック・オーケストラの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は1980年のオリコン年間アルバムランキングで1位になったアルバムであり、テクノブームが社会現象化したのもやはり80年代に入ってからである。しかし、発売は1979年9月25日、「テクノポリス」がシングルカットされたのは10月25日であった。テクノブームはいつの間にかはじまっていたのだが、とにかくシンセサイザーのインストゥルメンタル曲で、加工された声で東京のことが「TOKIO」と発音されていることなどが特徴であった。坂本龍一は当初から売れる曲を書こうとしてこの曲をつくったのだが、その際にピンク・レディーのヒット曲を研究しつくしたともいわれている。

ライディーン/イエロー・マジック・オーケストラ (1979)

イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」に収録されていた「ライディーン」は1980年6月21日、アルバムが発売されてから9ヶ月後にシングルカットされたのだ。アルバムが売れまくっていたにもかかわらず、オリコン週間シングルランキングでの最高位は15位、「テクノポリス」は最高9位であった。シングルのジャケットには70年代の子供向けロボットアニメ「勇者ライディーン」に似ていなくもないイラストが描かれていた。90年代後半に携帯電話が一般庶民レベルにまで本格的に普及した頃、この曲を着メロに設定する30代ぐらいの人たちがやたらと多かった記憶がある。いわゆる優等生的な人たちにも好まれながら、代々木公園で踊っている竹の子族のラジカセからも流れていたというのがすごい。

異邦人/久保田早紀 (1979)

久保田早紀のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。三洋電機のテレビCMに使用されたのがヒットの要因ではあるのだが、どこかオリエンタルなフィーリングも感じられながら壮大なところがとても魅力的であった。

20世紀の終りに/ヒカシュー (1979)

P-MODEL、プラスチックスと共にテクノ御三家と呼ばれるようになる、ヒカシューのデビュー・シングルである。サイコムというコンピュータゲーム的なもののテレビCMに使われ、お茶の間にも流れていた。テクノポップ的などこか不思議なサウンドと、巻上公一の芝居がかっているようにも聴こえるボーカルが特徴的である。

C調言葉に御用心/サザンオールスターズ (1979)

サザンオールスターズの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも最高2位を記録した。とにかく多忙をきわめていたこともあってか、このシングルを最後にサザンオールスターズはメディアへの出演を控え、音楽制作に集中するようになる。その影響はシングルのセールスに如実にあらわれ、1982年の「チャコの海岸物語」までトップ10入りしなくなるのだが、一方でアルバムはリリースすれば必ず1位という状態になっていった。

タイトルの「C調」は「調子いい」をひっくり返して業界用語的にしたものだと思われるのだが、カジュアルな下ネタと「純情ハートの俺であるがゆえ」的ないじらしさという、大御所化する以前のサザンオールスターズの良いところが凝縮されたようなとても良い曲である。

贈る言葉/海援隊 (1979)

テレビドラマ「3年B組金八先生」のテーマソングで、主演していた武田鉄矢がひきいる海援隊が歌ってオリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも1位に輝いた。それまでの海援隊にはコミックバンド的なイメージも強かったのだが、この曲は失恋の実体験をベースにした真面目な曲となっている。個人的には裏番組の「ビッグベストテン」を見ていたため、「3年B組金八先生」にはまったくといっていいほど思い入れがない。この番組に生徒役で出演していた田原俊彦、近藤真彦、野村義男がたのきんトリオとして人気者になる。三原順子(現・三原じゅん子)もこの番組の生徒役がきっかけでブレイクした。

イン・ザ・スペース/スペクトラム (1979)

ブラス・ロックバンド、スペクトラムの2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高64位を記録した。大所帯で派手なコスチューム、ブラスサウンドにハイトーンのボーカルと、当時の日本の音楽シーンにおいても異彩を放っていた記憶がある。テクニクスのコンポーネントステレオSPACE-7にも使われていた。その関係からか、ステレオの見学会に行くとスペクトラムのライブチケットがもらえるというのを当時やっていて、そのため個人的に初めて行ったライブは旭川市公会堂のスペクトラムである。

真夜中のドア~Stay With Me/松原みき (1979)

松原みきのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高28位を記録した。リリースから40年以上が経った2020年に海外の音楽リスナーからも注目され、ジャパニーズ・シティ・ポップの代表曲として広く知られるようになる。作曲・編曲はこの年に竹内まりや「SEPTEMBER」もヒットさせた林哲司である。隠れた名曲というような感じでもなく、当時から一般的にもわりと知られていたのだが、「ザ・ベストテン」にランクインするほど大ヒットはしていないという感じであった。

大都会/クリスタルキング (1979)

Apple Musicでは配信されているが、Spotifyでは配信されていない。Apple Musicのプレイヤーを貼ろうとすると曲単体で貼っているはずなのにアルバム全体が貼られる。それはそうとして、クリスタルキングのこの曲は世界歌謡祭でグランプリを獲得し、オリコン週間シングルランキングでも「ザ・ベストテン」でも1位に輝いた。ハイトーンとロートーンのツインボーカルと、地方出身者が夢を追って出てきた都会でのしんどさを歌う内容が印象的である。イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」などとほぼ同時期にこういった曲もヒットしていたという現状は確かにあって、けして一辺倒ではなかったということである。個人的には中学校の演芸大会的なものに同級生のお調子者3名と一緒に出て、この曲を人間カラオケ(演奏のパートも人間が歌う)で出演したことが思い出される。ロートーンの方のボーカル担当で、練習には日曜日なのにわざわざ音楽の先生が来てくれて音楽の教室を解放してくれていた。

TOKIO/沢田研二 (1979)

沢田研二「TOKIO」のシングルは1980年1月1日に発売されたので、80年代はこの曲ではじまったとは言いやすいのだが、それ以前にアルバム収録曲としてリリースされていた。とはいえ、シングル・バージョンとはやや異なっている。パラシュートを背負い、派手な衣装で歌っていたことが思い出されるが、その一部は後にビートたけしが「オレたちひょうきん族」で演じたタケちゃんマンのコスチュームにインスパイアをあたえる。東京のことをスーパーシティのTOKIOとあらわす歌詞を書いたのは、コピーライターの糸井重里である。

さよなら/オフコース (1979)

ニューミュージックはまだしばらく人気があるのだが、80年代になるとテクノポップやアイドル歌謡の方がトレンド的になっていき、シティ・ポップ的なフィーリングも大衆化していく。そして、ニューミュージックは暗くてダサいなどといわれるようにもなるのだが、オフコースは70年代の終わり近くにリリースしたこのシングルが大ヒットして、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録する。実はひじょうに洋楽的なセンスを持ったバンドであって、ニューミュージックから80年代的なシティ・ポップ感覚への架け橋としてわりと重要な役割を果たしたのではないかというような気もする。

ユー・メイ・ドリーム/シーナ&ザ・ロケッツ (1979)

オリコン週間シングルランキングで20位以内にランクインするのは発売から半年以上経った1980年の夏だったのだが、それは日本航空のCMに使われた影響であろう。シーナ&ザ・ロケッツは福岡出身のロックンロールバンドだが、2枚目のシングルとなるこの曲は細野晴臣がプロデュースしていて、レーベルもイエロー・マジック・オーケストラと同じアルファだったことから、テクノ/ニュー・ウェイヴのバンドではないかとも思われがちであった。ガールズ・ポップ的なメロディーにテクノポップ風味というのがとても良く、個人的には夏期講習の昼食代として親からもらったお金を節約して、旭川のミュージックショップ国原でシングルを買ったことが思い出される。

恋のブギウギ・トレイン/アン・ルイス (1979)

アン・ルイスの17枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高89位を記録した。つまりそれほど大きなヒット曲というわけでもないのだが、「RIDE ON TIME」で一般大衆的にも大ブレイクする約半年前の山下達郎が作曲・編曲をしていて、実際にとてもカッコいいディスコ・ポップとなっている。翌年には英語詞の「BOOGIE WOOGIE LOVE TRAIN」としてもリリースされ、こちらはオリコン週間シングルランキングで最高64位を記録している。