邦楽ポップス名曲のあゆみ 第12回(1979・前編)

君は薔薇より美しい/布施明 (1979)

布施明の42枚目のシングルで、オリコン週間シングルらキングで最高8位を記録した。カネボウ化粧品のCMソングだったことも手伝い、布施明にとって約3年ぶりのトップ10ヒットとなった。ゴダイゴのミッキー吉野が作曲・編曲を手がけ、浅野孝巳、スティーヴ・フォックス、トミー・スナイダーと共に演奏でも参加している。

カサブランカ・ダンディ/沢田研二 (1979)

沢田研二の26枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高5位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。ウィスキーを小瓶から飲んで口から噴き出すというクセが強めのアクションがあり、これを子供が水で真似して親に怒られたりしていた。映画「カサブランカ」に主演していたボギーことハンフリー・ボガードに憧れ、「男がピカピカの気障でいられた」ので「あんたの時代はよかった」と歌われる。

YOUNG MAN (Y.M.C.A.)/西城秀樹 (1979)

西城秀樹の28枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは5週連続、「ザ・ベストテン」では9週連続1位の大ヒットを記録した。アメリカでヒットしていたヴィレッジ・ピープルのディスコソング「Y.M.C.A.」に日本語の歌詞をつけてカバーしたものである。「Y.M.C.A.」の文字を手を使ってあらわす振り付けが大いに受けて、40年以上経った現在でも知らない人はいないのではないかというぐらい定着することになる。

魅せられて/ジュディ・オング (1979)

台湾出身の歌手、女優、ジュディ・オングのシングルで、オリコン週間シングルランキングで9週連続1位、日本レコード大賞では大賞を受賞した。「女は海 好きな男の腕の中でもちがう男の夢を見る」という大人な歌詞と、白く扇のように広がる衣装がひじょうに印象的であった。下着メーカー、ワコールのCMソンとして使われていた。

美・サイレント/山口百恵 (1979)

山口百恵の25枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。阿木燿子・宇崎竜童コンビによる楽曲で、曲の一部を意図的に歌わない、サイレント状態にするという仕掛けが話題になった。「あなたの〇〇〇〇が欲しいのです」「燃えてる××××が好きだから」となかなか意味深でもあったことから、様々な妄想や憶測が飛び交ったが、「ザ・ベストテン」で行われた答え合わによると「情熱」や「ときめき」など、わりと無難なワードだったことが思い出される。

きみの朝/岸田智史 (1979)

岸田智史も出演していたテレビドラマ「愛と喝采と」の挿入歌であり、オリコン週間シングルランキングで1位に輝く大ヒットを記録した。この頃はニューミュージックが大人気であり、次々と新しいスターがブレイクしていたのだが、岸田智史も8枚目のシングルにしてこの曲が初の大ヒット曲であった。この頃、テレビドラマ「3年B組金八先生」の主演を打診されるが、アーティスト活動が忙しくなったため断った結果、同じ事務所の武田鉄矢がこれを受けることになった。岸田智史は後に「1年B組新八先生」で主演を務めることになる。

いとしのエリー/サザンオールスターズ (1979)

「勝手にシンドバッド」でのデビューで衝撃をあたえたサザンオールスターズだが、あまりにも新しすぎたこともあり、どう評価すればいいかあまりよく分からず、コミックバンド扱いやイロモノ視もされがちであった。二番煎じ的なシングル「気分しだいで責めないで」も余波でヒットはしたもののパワーダウンは否めなかった。このままフェイドアウトしてまうのではないかという見方をする向きもあったのだが、3枚目のシングル「いとしのエリー」がまさかのバラードで、これがオリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」で7週連続1位の大ヒットを記録することによって、世間の見る目が明らかに変わった。

YELLOW MAGIC CARNIVAL/MANNA (1979)

MANNAは高校生の頃に佐野元春とバンドをやっていたりもした女性シンガーなのだが、ティン・パン・アレーの曲をカバーした「YELLOW MAGIC CARNIVAL」で注目をあつめることになった。当時、大きなヒットにはなっていないが、ラジオではわりとかかっていた記憶がある。作詞・作曲は細野晴臣で、当初はMANNAのボーカルで何かユニットをと考えていたのが流れたりもして、その時のアイデアがイエロー・マジック・オーケストラにつながっていったという話もある。

マラッカ/PANTA & HAL (1979)

過激な歌詞が問題視され、アルバムが発売禁止になったことなどで知られる伝説のロックバンド、頭脳警察の中心メンバーであったPANTAが映画「2001年宇宙の旅」に登場するコンピューターの名前に由来するバンド、HALを率いてリリースしたアルバム「マラッカ」の1曲目にしてタイトル曲である。サンバのリズムを取り入れたアグレッシヴかつユニークでありながら、パンク/ニュー・ウェイヴ的なフィーリングも感じられるサウンドがとても良い。

ビューティフル・ネーム/ゴダイゴ (1979)

ゴダイゴの9枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録した。国際児童年の協賛歌としてNHKでもよく流れていた。ニューミュージックブームの中でも、子供たちも含め特に人気が高かったのがゴダイゴであり、タケカワユキヒデのクセが強めなボーカルスタイルもよく真似されたりしていたような気がする。

燃えろいい女/ツイスト (1979)

デビュー当時は世良公則&ツイストというバンド名だったが、この頃にはシンプルにツイストとなっていた。資生堂のキャンペーンソングに起用され、オリコン週間シングルランキングで最高3位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。「ナツコ」という固有名詞が登場するのが印象的だが、これは資生堂のCMキャッチコピーが「ナツコの夏」だったことによるものである。

カリフォルニア・コネクション/水谷豊 (1979)

水谷豊の5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位、「ザ・ベストテン」では4週連続1位を記録した。主演していたテレビドラマ「熱中時代・刑事編」のオープニングテーマ曲であり、「言葉をこえた愛もあるはず」と歌詞にあるように、後にこの番組で共演したミッキー・マッケンジーと国際結婚することになる。

モンロー・ウォーク/南佳孝 (1979)

南佳孝の6枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高38位を記録した。郷ひろみが「セクシー・ユー(モンロー・ウォーク)」のタイトルでカバーして、オリコン週間シングルランキングで最高11位、「ザ・ベストテン」で最高4位のヒットを記録するが、作詞の来生えつこがタイトルを勝手に変えられたことに激怒したらしい。

アメリカン・フィーリング/サーカス (1979)

サーカスの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。日本航空のキャンペーンソングとして、テレビCMでもよく流れていた。この頃の日本ではアメリカに対する憧れがひじょうに強く、それは流行歌にもあらわれていたような気がする。坂本龍一がこの曲のアレンジで、日本レコード大賞の編曲賞を受賞している。

銀河鉄道999/ゴダイゴ (1979)

現在でいうところのアニメはかつてテレビまんがと呼ばれ、主に子供だけが見るものだったのだが、1970年代後半の「宇宙戦艦ヤマト」ブームあたりから様子が変わっていき、中学生以上が見ていても平気な感じになっていったような気がする。「宇宙戦艦ヤマト」と同じく松本零士によるアニメーション作品「銀河鉄道999」も大ヒットするのだが、劇場版の主題歌としてリリースされたのがゴダイゴの11枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。後にいろいろなアーティストによってカバーされたり、プロ野球の登場曲に使われるなど、長きにわたって親しまれることになる。

風を感じて/浜田省吾 (1979)

浜田省吾の7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高25位と初のランクインを果たした。日清カップヌードルのCMソングとしてお茶の間でも広く知られ、「It’s so easy 走り出せよ」「自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ」といったフレーズに感じられるライト感覚が受けていたようにも思える。三浦徳子が歌詞を書いたがほとんどが浜田省吾によって手直しされたため、作詞のクレジットは浜田省吾・三浦徳子となっている。

虹とスニーカーの頃/チューリップ (1979)

チューリップの16枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高6位、「ザ・ベストテン」で最高4位を記録した。これもまたニューミュージックブームを象徴するヒット曲であり、チューリップにとってトップ10入りは1973年の「心の旅」以来であった。「わがままは男の罪 それを許さないのは女の罪」というところがとてもキャッチーで、当時の中学生などにもコーラス込みでよく歌われがちであった。

関白宣言/さだまさし (1979)

さだまさしのソロ・アーティストとしては8枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、「ザ・ベストテン」で最高2位の大ヒットを記録した。「俺より先に寝てはいけない 俺より後に起きてもいけない」というようなフレーズや、浮気はするかもしれないがそれは大目に見てほしいとも取れなくはない歌詞などが、女性蔑視的で時代錯誤であると当時ですらはげしく批判されたりもしていたのだが、まあまあコミカルでマイルドに感動的でもある曲として、一般大衆レベルでは支持されていたような気がする。