邦楽ポップス名曲のあゆみ 第1回 (1945-1964)

日本のポップ・ミュージック史において、特に大衆から大きな支持を得たり、当時はそうでもなかったのだが後に高く評価されたり、どちらにもあたらないかもしれないが、これはかなり良いのではないかと思われるものなどをあげていくシリーズの第1回である。1970年代前半に小さな子供だった頃、羽幌のサービスセンターにあったレコード売場で買ってもらったテレビまんが(当時はアニメーションとはまだあまり呼ばれていなかったような気がする)の主題歌をたくさんあつめたレコードのタイトルが「テレビまんが主題歌のあゆみ」で、かなりわくわくした記憶があるため、このシリーズのタイトルもそれにインスパイアされた「邦楽ポップス名曲のあゆみ」となっている。

リンゴの唄/並木路子&霧島昇(1945)

1945年にポツダム宣言を受諾したことにより、日本ではこの日が第二次世界大戦が終結した日として認識されている(アメリカをはじめ多くの国々では9月に入ってからという認識である)。そして、10月11日には戦後初の映画として「そよかぜ」が公開されているのだが、その主題歌でもあった「リンゴの唄」は当時、絶大な支持を得た流行歌として知られている。霧島昇の希望によって、映画に主演していた並木路子とのデュエットとなったのだが、後に並木路子のソロ曲としての印象の方が強くなっていく。少女の心情を歌った明るい歌声は、戦後に暮らす人々の生活に解放感と希望のようなものをあたえたといわれている。戦争や空襲によって両親を亡くしていた並木路子はひじょうに重苦しい心持ちではあったのだが、作曲をした万城目正によるレコーディング時の叱咤激励により、明るく歌うことができたという。

東京ブギウギ/笠置シヅ子(1948)

映画「春の饗宴」の劇中歌であったが、日劇での公演の挿入歌として歌われていたことがヒットのきっかけだったともいわれている。舞台でははげしく動き回りながら歌われたというこの曲は、都会のにぎやかさを明るく楽しく歌ったもので、敗戦に沈む当時の人びとに活力をあたえたともいわれている。とにかく底抜けな明るさが素晴らしく、後に多くのアーティストによってカバーもされている。

買物ブギー/笠置シヅ子(1950)

笠置シヅ子によるさらに陽気さを増したブギウギ歌謡であり、全編が関西弁で歌われている。上方落語の「無い物買い」がベースになっているらしく、「わてほんまによう云わんわ」のフレーズが印象的である。「東京ブギウギ」のフレーズも少し登場する。

東京キッド/美空ひばり(1950)

天才少女歌手として知られていた美空ひばりが13歳の頃に主演した映画「東京キッド」の主題歌であり、チューインガムやチョコレートといった舶来品が歌詞に出てくるのが特徴である。「金はひとつもなくっても」「もぐりたくなりゃ マンホール」というようなフレーズが当時の状況についての想像をかきたてる。

お祭りマンボ/美空ひばり(1952)

当時、流行していたというマンボのリズムに乗せて歌われる、祭りににぎやかさをテーマにした楽曲である。この曲もまた陽気なところが素晴らしいのだが、曲の終わりちかくでは家を焼かれたおじさんやヘソクリ盗られたおばさんについて悲しげに歌われ、「いくら泣いても あとの祭りよ」ときれいに落とされてもいる。

ハートブレーク・ホテル/小坂一也とワゴン・マスターズ(1956)

小坂一也はワゴン・マスターズのボーカリストとしてカントリー的な曲を歌って、アイドル的な人気を誇っていたというのだが、1956年にはエルヴィス・プレスリーのこの曲を早くもカバーし、和製プレスリーと最も早く呼ばれた歌手なのではないかともいわれている。この年の「NHK紅白歌合戦」でも、この曲を歌っていたようである。

チャンチキおけさ/三波春夫 (1957)

浪曲師から歌謡曲の歌手に転身した三波春夫が改名デビュー後、初めてリリースしたシングルであり、当時、220万枚を売り上げる大ヒットを記録したという。都会に出てきた若者が故郷に思いをはせ、寂しさを紛らわすように酒を飲んで騒ぐという内容であり、表面的な陽気さに潜む哀感のようなものが心に沁みる。

嵐を呼ぶ男/石原裕次郎(1958)

石原裕次郎が主演した映画「嵐を呼ぶ男」の主題歌で、ドラムを叩きながら相手を挑発し、バイオレンスなシーンが展開していく。ジャジーなサウンドもとてもカッコいい。後に渡哲也、近藤真彦によってリメイクもされた。

ダイアナ/山下敬二郎(1958)

ロカビリー歌手として活躍した山下敬二郎による、ポール・アンカのヒット曲のカバーで、当初はエディ・コクラン「バルコニーに座って」のカバーのB面としてリリースされた。両面ともにヒットしたようなのだが、特に「ダイアナ」の方が後にロカビリーブームを代表する曲として知られるようになる。サックスも最高である。

ズンドコ節/小林旭 (1960)

「ズンドコ節」はかなり以前からあった曲なのだが、そのルーツとしては「海軍小唄」とする説と田畑義夫「街の伊達男」とする説があるらしい。小林旭のこのバージョンは映画「海を渡る波止場の風」の挿入歌として制作され、シングル「鹿児島おはら節」のB面としてリリースされたようだ。チャチャチャのリズムを取り入れているのが特徴である。「アキラのズンドコ節」というタイトルでも知られ、後にドリフターズや氷川きよしによるバージョンもヒットしている。

スーダラ節/ハナ肇とクレージーキャッツ(1961)

ボーカリストの植木等、そして、ハナ肇とクレイジーキャッツが国民的な人気を得るきっかけとなった曲らしい。「わかっちゃいるけどやめられない」のフレースが印象的な歌詞は青島幸男によるもので、当時の世相をとらえたと思われる軽さがたまらなく良い。当初は「シャクだった」のB面のつもりだったのだが、こちらの方が人気になったということである。当の植木等は元来が真面目な性格であり、このような曲を歌い、しかも大ヒットしてしまうことに疑問を感じてもいたという。コミックバンドでありながら、その高い音楽性も評価された。所ジョージやスチャダラパーに多大なる影響をあたえたり、90年代にはリバイバルもしていた。

上を向いて歩こう/坂本九(1961)

日本のポップ・ミュージック史において、全米シングル・チャートで1位に輝いた唯一の曲で、曲の内容とは関係がない「スキヤキ」というタイトルが海外ではつけられていたことも話題にされがちである。作詞は永六輔であり、前向きで共感をえやすいこの曲の歌詞は、実は学生運動の挫折がテーマになっているともいわれる。坂本九は1985年に飛行機の墜落事故で亡くなるが、その前夜、所沢の西武ライオンズ球場でRCサクセションがこの曲を演奏していて、個人的にはそのライブに行っていたことが思い出される。

いつでも夢を/吉永小百合&橋幸夫 (1962)

当時すでに人気があった橋幸夫と吉永小百合によるデュエット曲で、発売されてすぐにヒットして、映画化もされることになった。明るく希望に溢れた歌詞でありメロディーは、高度成長期の日本を象徴するヒット曲として知られる。様々なアーティストによってカバーされたり、2013年にはNHK連続テレビ小説「あまちゃん」での使用により、また注目をあつめたりもした。

ヴァケーション/弘田三枝子(1962)

コニー・フランシスのヒット曲を日本語でカバーしたもので、他に伊東ゆかりもカバーしていた。元々は夏休みをテーマにした楽曲だが、このバージョンは11月の発売去ったこともあり、他の季節の休みについても歌われている。サザンオールスターズの1983年のアルバム「綺麗」に収録された「MICO」において、「人形の家に住まう前は Japanese Diana Ross」「お前がいなけりゃ 俺 今さら歌などない」と歌われていただけあって、ソウルフルで素晴らしいボーカルである。

恋のバカンス/ザ・ピーナッツ(1963)

ザ・ピーナッツは双子の女性デュオで、初期には洋楽のカバーを歌っていたのだが、この曲はオリジナルソングとしては「ふりむかないで」に続いてヒットを記録した。ジャジーでスウィンギーなリズムが特徴的で、バカンスという概念が日本でも定着することにも貢献したといわれている。