The 500 Greatest Songs of All Time : 500-491

ポップ・ミュージックの輝ける歴史を彩った数々の名曲からこれは特に素晴らしいのではないかと思える500曲を厳選し、さらにそれらを現時点の気分でランク付けしたのが「The 500 Greatest Songs of All Time」である。昨年のゴールデンウィークに同様の企画を行った際には500曲のランキングを早く発表しようということに気持ちが急かされ、ただただ楽曲を並べるのみとなってしまった。それぞれについて簡単な説明や個人的な思い出なども付け加えようかと思ったのだが、最初の数曲しかできなかったのが実際のところである。さらに当時は1日に必ず1つの記事を上げるという課題を自らに課していたため、いわゆる普通の会社員にとってはそれが限界であった。しかし、その後もやはりこの「The 500 Greatest Songs of All Time」を一旦ちゃんとやっておかなければ次には進めないだろうという気分はずっとあって、数ヶ月前に毎日記事を上げるのをやめて、これを完成させる準備に集中することにした。そして、それからいろいろ忙しくなったりもして、やっとこさ500曲のリストが完成したので、これから少しずつカウントダウンしていきたい。今回は1曲ごとに簡単な解説や個人的な思い出なども加えていきたい。

ところでこういった企画は様々なメディアや個人が行い発表しているわけで、それらを見たり読んだりするのはとても楽しいことである。時々、音楽を聴くことそのものよりも楽しんでいるのではないかと感じていることすらある。もちろん個人的な感覚とは一致していたり異なっていたり様々なのだが、まずはそういったランキングを作成して楽しませてくれたことそのものに対するリスペクトがある。そして、自分なりにやるとどうなるかという思いもあるにはあるのだが、それにかなりの労力を要すのではないかという予感もうっすらとある。しかし、やはりこれはやっておかなければいけないのではないかと思ってやってみた結果がこれである。いろいろなメディアなどで発表されているこのようなリストは数多くのプロによる投票によって出来上がっていることが多いとは思うのだが、今回のこれはたった1人の素人の記憶や印象のみによるものである。しかもおそらくまた別の機会にやればその時の気分や体調、天候や気温などによって内容がじゅうぶんに変わりうる程度のものであり、究極的ではまったくない。しかしそのような適当さも含めポップ・ミュージックは素晴らしいものだと感じられるわけで、それはそれで良いのではないかというような気もする。それではさっそくはじめていきたい。

500. New Year’s Day – U2 (1983)

映画「クリエイション・ストーリーズ~世界の音楽シーンを塗り替えた男~」を見ていると、イギリスの歴史的なインディー・レーベル、クリエイション・レコーズの創始者、アラン・マッギーが「U2よりもビッグ」という言い回しをするシーンが何度か出てくる。それぐらい当時のU2というのは重要な存在だったということなのだろう。アイルランドで結成され、1980年にはデビュー・アルバム「ボーイ」をリリースしていたが、世界的に大きく注目を集めたのは3作目のアルバム「闘(WAR)」からの先行シングルとして発表された「ニュー・イヤーズ・デイ」からであった。この曲は全英シングル・チャートで最高10位と初のトップ10入りを果たしている。全米シングル・チャートにもこの曲で初めてランクインしたが、最高位は53位とトップ40入りには至っていない。

ボノのボーカルとジ・エッジのギターに特徴があり、熱血漢で生真面目そうな雰囲気も印象的であった。雪景色の中で撮影されたミュージック・ビデオも当時、日本でも増えはじめていた洋楽のビデオを流すテレビ番組でよくオンエアされがちであった。歌詞はポーランドの独立自主管理労働組合をテーマにしているらしく政治的な内容を持つのだが、ラヴソングとして聴くこともできなくはない。軽薄で浮かれた感じの洋楽が流行していた時代において、硬派なイメージと音楽性が特徴的ではあったのだが、この曲などひじょうにキャッチーでもあり、日本の洋楽ファンからも注目されていた。また、元旦をタイトル及びテーマにした曲もなかなかありそうで無かったりもするので、そういった側面からも便利に使われがちである。

499. Kinky Afro – Happy Mondays (1990)

1990年の秋、六本木WAVEの1階でも3階でもわりと猛プッシュ気味にディスプレイされ、年末には「NME」が選ぶ年間ベスト・アルバムの1位に輝いたりしていたのがハッピー・マンデーズの「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」である。「キンキー・アフロ」はアルバムの1曲目に収録され、シングルとしても全英シングル・チャートで最高5位のヒットを記録した。

インディー・ロックとダンス・ミュージックの融合が特徴であったマッドチェスター・ムーヴメントを代表する御三家といえばストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツだが、ストーン・ローゼズのデビュー・アルバムはもちろん歴史的名盤だが、ダンス・ミュージック的な要素はそれほど強くもない。ハッピー・マンデーズ「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」こそがこのムーヴメントを一般的な音楽リスナーにも分かりやすく提示したような印象もある。

ショーン・ライダーの粗野でありながら味わい深いボーカルとグルーヴィーなサウンド、1970年代の全米NO.1ヒット、ラベル「レディ・マーマレード」からの引用などもとても良い。ハッピー・マンデーズといえば、歌うわけでも楽器を演奏するわけでもなく、ただずっと踊っているベズというメンバーがとても良い味を出していて、この曲のミュージック・ビデオでもその存在感を確認することができる。

498. 1979 – Smashing Pumpkins (1995)

スマッシング・パンプキンズの「メロンコリーそして終りのない悲しみ」といえば、浜崎あゆみが「ロッキング・オンJAPAN」の2万字インタヴューにおいて、お気に入りのアルバムとして挙げていた印象がある。90年代にアメリカのオルタナティヴ・ロックがメインストリーム化する過程でメジャーにブレイクしたバンドの1つがスマッシング・パンプキンズだが、終りのない悲しみをイメージさせる陰鬱さが特徴のようなところもある。

しかし、全米シングル・チャートで最高12位のヒットとなったこの曲はわりとライトでポップでありながら、ノスタルジックな感じもとても良い。2枚組アルバム収録曲の中でも最後の方に完成したようだが、レパートリーの中でも間口が広く、より多くの音楽リスナーにアピールしたような印象がある。90年代半ばから後半に差しかかるあたりのある感じを喚起させてくれるという意味では、個人的に真心ブラザーズ「サマーヌード」あたりと同じカテゴリーに入れることもあったり無かったりする。

497. Xanadu – Olivia Newton-John & Electric Light Orchestra (1980)

オリヴィア・ニュートン・ジョンが主演し、ジーン・ケリーと共演した映画「ザナドドゥ」の主題歌で、ELOことエレクトリック・ライト・オーケストラとの共演曲である。オリヴィア・ニュートン・ジョンは当時おそらく日本でも最も人気のある女性洋楽シンガーだったと思われ、それには1978年に公開された主演映画「グリース」の大ヒットも影響していた。「ザナドゥ」の映画は当時、酷評されがちだったが、サウンドトラックはヒットした。そして、長い年月を経て見てみると、この映画もそれほど悪くはない、というかかなり良いと感じられるところも少なくはない。

オリヴィア・ニュートン・ジョンの正統派ポップ・シンガー的なボーカルとエレクトリック・ライト・オーケストラのポケット・オーケストラル・ポップ的なサウンドが化学反応を起こしたかのような良さがある。この曲がヒットしたのは1980年代の幕開けから数ヶ月経った頃であり、新しさと普遍的なサムシングとの程よいバランスといった意味では、シーナ&ザ・ロケット「ユー・メイ・ドリーム」、YUKI(岡崎友紀)「ドゥ・ユー・リメンバー・ミー」と同じ時期のヒット曲として記憶されている。

496. Le Freak – Chic (1978)

「M-1グランプリ2005」におけるチュートリアルのバーベキューのネタはとても面白かったのだが、徳井義実が1980年代についてディスコブームが到来しているなどと言っていたくだりに関してだけは、それは1970年代後半だろうという気がしていた。具体的には1978年にジョン・トラヴォルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットしたあたりで、ディスコという概念がごく一般大衆のレベルにまで浸透していったという印象が強い。当時、小学6年の同じクラスで秘かに好意を寄せていた焼肉屋さんの娘、ミカちゃんも「ディスコでフィーバー」なるフレーズを口走っていた。ディスコブームはおそらく確実に到来していたのだろう。

シック「おしゃれフリーク」はその代表曲だということができ、当時、旭川の平和通買物公園などでもこの曲を何度となく耳にした記憶がある。シックのヨーロピアンでエレガントなイメージというのは、ロキシー・ミュージックにインスパイアされたものらしく、そう言われてみればなるほど確かにと思えなくもない。実際にこの曲は有名なディスコ、「54」に入れてもらうことができなかったシックのメンバーが「ファック・オフ!」と悪態をつくような曲だったのが「フリーク・アウト!」に転じたのだという。そういった意味でも、逆境や屈辱というのも人生においてはなかなか大切なものだなと感じたりはするのである。

495. I Love Rock’n Roll – Joan Jett & The Blackhearts (1981)

1982年の春、全米シングル・チャートでJ・ガイルズ・バンド「堕ちた天使」を抜いてからバンゲリス「炎のランナー」に抜かれるまで、7週連続1位に輝いたジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツの大ヒット曲である。個人的には中学校を卒業してから高校に入学するまでの間にアメリカでものすごく売れていた曲として記憶されている。高校受験合格に際して自分へのご褒美的に初めて訪れたタワーレコード札幌店で輸入盤を購入したレコードのうちの1枚がこの曲を収録したアルバム「アイ・ラヴ・ロックンロール」でもあった。

ジョーン・ジェットはメンバー全員が女性の人気ロックバンド、ザ・ランナウェイズ(日本でも「チェリー・ボンブ」がオリコン週間シングルランキングで最高10位を記録するなど人気があったようである)の元メンバーということで話題にもなっていた。そして、当時は知らなかったのだが、この「アイ・ラヴ・ロックンロール」はイギリスのロックバンド、アロウズのカバーであった。アロウズの中心メンバーでこの曲の作者でもあるアラン・メリルは日本で音楽活動をしていたこともあり、近田春夫とも親しかったようである。近田春夫が1986年にPRESIDENT BPM名義で当時の日本ではまだ珍しかったヒップホップのレコード「MASS COMMUNICATION BREAKDOWN」をリリースした時、カップリング曲として収録されたTINNIE PUNX「I LUV GOT THE GROOVE」では「アイ・ラヴ・ロックンロール」が引用されてもいた。

494. Will You Love Me Tomorrow – The Shirelles (1960)

シレルズと表記されていたこともあったような気もするのだが、最近ではシュレルズで統一されているのだろうか、いずれにしてもガールズ・ポップ・グループである。曲はジェリー・ゴフィンとキャロル・キングによるもので、後にキャロル・キングの歴史的名盤アルバム「つづれおり」にもセルフ・カバー・バージョンが収録された。

恋人との関係性について、これはひと時の快楽にすぎないのか、それとも永続性のある宝物なのか、というような悩みは古今東西にかかわらず深刻かつ共感されやすいテーマである。しかし、当時のラジオではセクシーすぎるという理由で放送禁止になるケースも一部ではあったようだ。全米シングル・チャートでは1961年1月30日付から2週連続で1位に輝いている。

493. The Boy Is Mine – Brandy & Monica (1998)

R&Bシンガーのブランディーとモニカのデュエットによる恋の鞘当てソングであり、マイケル・ジャクソン「スリラー」からの実は最初のシングルだったポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」におそらくはインスパイアされている。全米シングル・チャートでは実に13週にわたって1位に輝き、この年の年間チャートでもネクスト「トゥー・クロース」に次ぐ2位であった。

90年代後半R&B的な都会的でスムーズなサウンドとボーカルが大衆音楽として最も良い感じでスパークしたような、よく分からないのだがなんとなくモテそうな雰囲気もある。いつどのような状況で聴いてもある程度の満足度は最低限保障してくれて、なおかつマイルドにセクシーでクールな気分にさせてくれる曲なのでおそらくは間違いがないように思える。

492. Another One Bites the Dust – Queen (1980)

邦題は「地獄に道づれ」で、全米シングル・チャートでは「愛という名の欲望」に続いて1位だったが、全英シングル・チャートでは最高7位であった。シック「グッド・タイムス」のベースラインを引用しているように思えるが、90年代には「ダウンタウンのごっつええ感じ」で松本人志が演じるMr.BATERがコーヒーのキリマンジャロとちりめんじゃこを間違えるくだりでなんとなく思い出されたり、2023年現在では「千原ジュニアの座王」で芸人がモノボケの準備をする際のBGMとして使われていたりもする。

あとは個人的に中学生の頃に全米シングル・チャートで1位なのだから良いに決まっているだろうと思い、旭川のミュージックショップ国原かどこかでシングルを買ったは良いものの、実は当初は良さがよく分からず、それでもせっかく買ったので何度も繰り返し聴いているうちにだんだん良くなっていったというようなぼんやりとした記憶のようなものはある。「地獄へ道づれ」のB面には「自殺志願」という曲が収録されていて、地方の中学生男子としてはなんだか悪いロックを聴いているかのような気分に酔いしれていた。

ベーシストのジョン・ディーコンによってつくられたこの曲についてはクイーンにしてはディスコ的すぎるのではないかとメンバーの間でも軽視されがちだったのだが、マイケル・ジャクソンのアドバイスによりレコーディングし、リリースしたところ大ヒットしたという経緯があるようだ。

491. Disco 2000 – Pulp (1995)

ブリットポップ4大バンドといえばオアシス、ブラー、スウェード、パルプのことらしいのだが、この中では1970年代後半から活動しているパルプだけが極端にキャリアが長かった。それだけ不遇の時代が続いていたというかカルト的な存在のようでもあったということなのだが、六本木WAVEの1階で働いていた年上の女性と一度だけ渋谷の喫茶店に行った時に、いかにパルプというかジャーヴィス・コッカーのことが好きかという話をメンソールの煙草の煙ごしに聞かせていただいたことがある。

「ディスコ2000」は一般的にも大ブレイクした1995年のアルバム「コモン・ピープル」からシングルカットされ、全英シングル・チャートで最高7位のヒットを記録した。インディー・ロック的な音楽をやっていてそれほど有名ではないのだがポップスター然としたパフォーマンスを見せるところがとても良かったジャーヴィス・コッカーが、この頃には本物のポップスターになっていた。そのリバウンドとして後の「ディス・イズ・ハードコア」があったりはするのだが、この頃には悪い予感のかけらもなかった。

1982年に全米シングル・チャートで最高2位を記録したローラ・ブラニガン「グロリア」を思わせもするキャッチーなメロディーと、多くの人々が共感しうるであろう同窓会的かつノスタルジックな内容もとても良い。歌詞に登場するデボラという女性は、実在するジャーヴィス・コッカーの幼なじみがモデルになっているということである。