邦楽ポップス名曲のあゆみ 第4回(1971-1972)
また逢う日まで/尾崎紀世彦 (1971)
ホーンによるキャッチーなイントロとダイナミックな歌声が印象的な昭和歌謡の名曲で、オリコンしゅうかんシングルランキングで3週連続1位、日本レコード大賞や日本歌謡大賞も受賞した。元々は学生運動で挫折した若者の心境を歌った「ひとりの悲しみ」という曲だったが、別れをテーマにした新しい歌詞をつけて発売したところ、大ヒットとなった。尾崎紀世彦はハワイアンやカントリーなどのバンドで活動した後、これがソロ・アーティストとして2作目のシングルであった。後に近田春夫がラッパー、PRESIDENT BPMとしてリリースしたシングル「Hoo! Ei! Ho!」、ジャルジャルのコント「高校生なのに歌い方が40代の奴」などでも取り上げられている。
よこはま・たそがれ/五木ひろし (1971)
1965年に松山さとるとしてデビューした五木ひろしが苦節の末、4つ目の芸名でリリースした最初のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。片手で拳を握りしめながら歌う独特のパフォーマンスは後に多くのものまねタレントなどに真似されることにことになるが、これは当時の所属事務所がボクシングジムを経営していたことに由来するという。
あの素晴しい愛をもう一度/加藤和彦&北山修 (1971)
元ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦と北山修がシモンズに提供するつもりでつくったのだが、結局は自分たちで歌うことにした。カレッジ・フォーク的なサウンドに乗せて、愛の移ろいやすさなどについて歌われているこの曲はオリコン週間シングルランキングで最高10位のヒットを記録したのみならず、後に学校の合唱曲として取り上げられるほどのポピュラリティーを得ることになる。
わたしの城下町/小柳ルミ子 (1971)
小柳ルミ子のデビュー・シングルでオリコン週間シングルランキングで12週連続1位、年間シングルランキングでも1位に輝く大ヒットとなった。センチメンタルな旅情がただようこの曲のヒットには、国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンの流行も関係していたのではないかといわれる。
さらば恋人/堺正章 (1971)
元ザ・スパイダースの堺正章によるソロ・デビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングでは4週連続2位のヒットを記録した。当時、主演していたテレビドラマ「時間ですよ」が大人気になるなど、マルチな才能を発揮していたが、レコードもしっかり売れていた。70年代前半の子供たちにとって、堺正章とはまずはテレビでおもしろいことをやっている大人として認識されるケースが多かったように思える。
真夏の出来事/平山三紀 (1971)
この回で取り上げた「また逢う日まで」「さらば恋人」に続いて、この曲もまた筒美京平によって作曲されている。歌声にひじょうに特徴があってとても良い平山三紀の2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高5位を記録した。80年代に廃盤ブームなどとして70年代のヒット歌謡を見直そうという動きがあったが、その代表的な楽曲という印象もある。夏の定番ソングの1つとしても知られる。
17才/南沙織 (1971)
そして、この曲もまた筒美京平である。沖縄出身のアイドル、南沙織のデビュー曲で、オリコン週間シングルランキングでは最高2位を記録した。南沙織がデビュー前から好きだったというリン・アンダーソン「ローズ・ガーデン」をベースに、筒美京平がつくったとされている。1989年には森高千里によるユーロビート的なカバー・バージョンもヒットした。
雨の御堂筋/欧陽菲菲 (1971)
台湾出身の歌手、欧陽菲菲のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで9週連続1位の大ヒットを記録した。ザ・ベンチャーズのインストゥルメンタル曲に歌詞をつけたもので、本町、梅田新道、心斎橋といった地名も歌詞に出てくる大阪のご当地ソングである。
教訓Ⅰ/加川良 (1971)
フォークシンガー、加川良の代表曲で、1970年の中津川ジャンボリーに飛び入りして歌われたことによって有名になった。ユーモラスに風刺がきいた反戦ソングであり、後にカバーやパロディーソングも生まれた。
カレーライス/遠藤賢司 (1971)
エンケンこと遠藤賢司のアルバム「満足できるかな」に収録され、後に別バージョンがシングルでもリリースされた。「君」と「僕」と「猫」がいる日常をテーマにしたフォークソングで、歌詞では三島由紀夫の割腹自殺についても、淡々と歌われている。
風をあつめて/はっぴいえんど (1971)
当時の日本の一般大衆にとって、どれだけ知られていたかについては想像することしかできないのだが、80年代の若者にはYMOの細野晴臣と「A LONG VACATION」の大滝詠一と松田聖子や近藤真彦の歌詞を書いている松本隆などが一緒にやっていた伝説のバンドとして知られるようになり、渋谷陽一のラジオ番組あたりで聴いて衝撃を受ける。すでに失われてしまったまぼろしの都会が立ちあらわれてくるような、なんとも不思議な魅力をもった音楽である。「です・ます」調の歌詞にも特徴がある。
結婚しようよ/よしだたくろう (1971)
当時はアーティスト名がひらがな表記だった吉田拓郎のアルバム「人間なんて」に収録された曲で、翌年にシングル・カットされ、オリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録した。アンダーグラウンドな印象もあったフォークソングが市民権を得たというか、男性の髪が恋人である女性と同じ長さになるまで伸びたら結婚しようという内容の歌詞が、いろいろなことを象徴していたともいわれるわけだが、吉田拓郎はこの曲をはっきりヒットすることを意識してつくったという。この後、シングル「旅の宿」、アルバム「元気です。」がいずれもオリコンで1位に輝き、空前の拓郎ブームが訪れることになる。49歳(!)年下のシンガー・ソングライター、あいみょんに強い影響をあたえたことでも知られる。
ぼくの好きな先生/RCサクセション (1972)
RCサクセションの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高70位を記録している。当時のRCサクセションは3人組のフォーク編成で、この曲においてはカズーなども用いられている。忌野清志郎が通っていた高校の担任で美術教師のことが歌われている。RCサクセションはこの曲のヒットでブレイクはするものの、まもなく暗黒期を迎えることになる。
学生街の喫茶店/ガロ (1972)
フォークロックグループ、ガロの3枚目のシングルで、リリースの翌週にオリコン週間シングルランキングで9週連続1位となる大ヒットを記録した。元々は「美しすぎて」のB面という扱いだったのだが、ラジオ番組で取り上げられるなどしてヒットしていったという。過ぎ去った時代を懐かしむような内容のこの曲は当時、ラジオでもよくかかっていて、この曲の歌詞で初めてボブ・ディランの名前を知った子供なども少なくはなかったのではないかと思われる。
春夏秋冬/泉谷しげる (1972)
泉谷しげるの2枚目のシングルとしてライブ・バージョンがリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高46位を記録した。メディアなどで見せる破天荒的なイメージとは裏腹の、内省的な楽曲が心に沁みる。SION、福山雅治、松山千春をはじめ数多くのアーティストによってカバーされているが、1988年に仲井戸麗市、下山淳、吉田建、村上秀一をメンバーとするLOSERをバックに歌ったセルフ・カバー・バージョンも素晴らしい(オリコン週間シングルランキングでの最高位は25位で実はこちらの方が高い)。
どうにもとまらない/山本リンダ (1972)
山本リンダの20枚目のシングルで、1966年のデビュー曲「こまっちゃうナ」以来のヒットとなるオリコン週間シングルランキング最高3位を記録した。ヘソだしルックで情熱的に歌い踊るその姿にはひじょうにインパクトがあり、「うわさを信じちゃいけないよ 私の心はうぶなのさ」と幼稚園の子供たちでさえ歌詞の意味もよく分からないまま真似をしては大人たちから眉をひそめられていた。
男の子女の子/郷ひろみ (1972)
郷ひろみのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高8位を記録した。フォーリーブスの弟分としてデビューして、その中性的なルックスや歌声でたちまちお茶の間の人気者になった。
み空/金延幸子 (1972)
関西のアングラ・フォーク・シーン出身のシンガー・ソングライター、金延幸子のデビュー・アルバム「み空」のタイトル曲である。細野晴臣のプロデュースで、当時は日本のジョニ・ミッチェルなどとも呼ばれていたようだ。90年代に小沢健二が取り上げたことにより、「渋谷系」的な人たちによって再発見された。
喝采/ちあきなおみ (1972)
ちあきなおみの13枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは12週にわたって2位を記録したものの、宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」を抜いて1位になることはできなかった。とはいえ、年末には発売からわず3ヶ月にしてレコード大賞を受賞するという、史上最短記録を保持している。亡くなった恋人を思いながらステージで歌う歌手をテーマにしたドラマティックな楽曲だが、吉田旺によって書かれた歌詞が偶然にもちあきなおみの実体験と重なるところもあり、パフォーマンスによりリアリティーをあたえたともいえる。
少女/五輪真弓 (1972)
五輪真弓のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高30位を記録している。ロサンゼルスでレコーディングされたデビュー・アルバム「五輪真弓/少女」はオリコン週間アルバムランキングで6位を記録し、日本のキャロル・キングなどとも呼ばれ、注目をあつめるようになった。
指切り/大瀧詠一 (1972)
大滝詠一(当時のアーティスト名表記は大瀧詠一)がはっぴいえんどのメンバーとして活動中にリリースしたソロ・デビュー・アルバム「大瀧詠一」の収録曲である。アル・グリーン「レッツ・ステイ・トゥゲザー」の線を狙ってつくられたようだが、それほどソウルフルには歌えなかったことが逆にとても良い感じになったともいわれている。野宮真貴が加入する前のピチカート・ファイヴがカバーしたことによって、「渋谷系」的な人たちの間でもより広く知られるようになった。