邦楽ポップス名曲のあゆみ 第3回(1968-1970)

伊勢佐木町ブルース/青江三奈 (1968)

横浜の伊勢佐木町のことを歌ったご当地ソング、というよりはセクシーなため息が印象的なお色気歌謡的な印象の方が強い。青江三奈は西武百貨店勤務をへてクラブ歌手になり、レコードデビューという経歴を持ち、7枚目のシングルとなるこの曲はオリコン週間シングルで最高5位のヒットを記録した。途中にスキャット的な歌いまわしがあるなど、ひじょうに聴きごたえがある。

神様お願い!/ザ・テンプターズ (1968)

ザ・スパイダースの弟分的なバンドとして売り出されたザ・テンプターズの2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。グループ・サウンズの中でも、ローリング・ストーンズやアニマルズといったブルースをベースにしたロックからの影響が強く感じられるバンドである。この曲はリーダーの松崎由治による作品で、リードボーカルはショーケンこと萩原健一である。

グッド・ナイト・ベイビー/ザ・キングトーンズ (1968)

ザ・キングトーンズのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。1958年にザ・ファイブ・トーンズとして結成以来、アメリカのR&B、ドゥー・ワップから影響を受けたスタイルで米軍キャンプなどで活動した後のレコード・デビューであり、当時のキャッチコピーは「30歳の新人グループ」であった。

恋の季節/ピンキーとキラーズ (1968)

ピンキーとキラーズのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングでは実に17週連続1位の大ヒットを記録している。リードボーカルのピンキーこと今陽子は当時まだ16歳だったが、山高帽にステッキというスタイルで、ヒゲ面の男性メンバーをしたがえてのパフォーマンスにはビジュアル的にもひじょうにインパクトがあった。この曲がきっかけで「夜明けのコーヒー」というフレーズが有名になったともいわれている。当時、流行していたグループ・サウンズ的な楽曲ではあるが、ピンキーとキラーズはボサノバのバンドであり、「セルジオ・メンデスを目指す新進気鋭のグループ」と紹介されてもいた。

山谷ブルース/岡林信康 (1968)

岡林信康のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高66位を記録した。山谷の日雇労働者をテーマにした、演歌調のフォークソングであり、アルバム「わたしを断罪せよ 岡林信康フォーク・アルバム第一集」には別バージョンが収録された。岡林信康は後に無名だった頃のはっぴいえんどをバックバンドとして起用して、フォーク・ロック的な音楽へと転向していく。

ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ (1968)

いしだあゆみの26枚目となる横浜のご当地ソングで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。レジェンド的な作曲家、筒美京平の初期の代表曲でもある。街の灯りと恋心というシティ・ポップ的ともいえる題材を扱った、昭和歌謡のマスターピース。

時には母のない子のように (1969)

後にロック・シンガーとして活躍するカルメン・マキのデビュー・シングルは、所属していた劇団、天井桟敷の主宰者であった寺山修司が作詞をした、どこか郷愁を誘う楽曲であった。オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録し、この年のNHK紅白歌合戦にも出場を果たした。

夜明けのスキャット/由紀さおり (1969)

由紀さおりが深夜のラジオ番組「夜のバラード」のオープニングテーマとしてレコーディングしたのは、歌詞のないスキャットのみの楽曲であり、当初はレコードとして発売する予定もなかった。しかし、リスナーからの反響があまりにも大きく、引退するつもりだった由紀さおりを説得し、2コーラス目以降に歌詞を付け加えて発売したところ、オリコン週間シングルランキングで9週連続1位、年間ランキングでも1位に輝く大ヒットとなった。2011年にはこの曲のニュー・バージョンも収録したピンク・マルティーニとのコラボレーション・アルバム「1969」が海外でもヒットした。

フランシーヌの場合/新谷のり子 (1969)

新谷のり子のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。ビアフラの飢餓に抗議してパリの路上で焼身自殺したフランス人女性、フランシーヌ・ルコントのことが歌われている。新谷のり子は北海道から上京し、クラブで歌手として活動していたが、学生運動にも身を投じるようになった。政治の季節を象徴する、プロテスト・フォーク的なヒット曲だといえる。

圭子の夢は夜ひらく/藤圭子 (1970)

藤圭子の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで10週連続1位を記録した。1966年に園まりなど何名かの歌手による競作でレコードが発売されていた曲のカバーであり、そのためタイトルに「圭子の」と付いている。演歌調の暗い楽曲がとてもブルージーに歌われているのだが、少年コミック誌の表紙を飾ったり、テレビアニメ主人公のモデルになるなど、アイドル的な存在でもあった。この曲のヒットから13年後の1983年に宇多田ヒカルを出産する。

愛は傷つきやすく/ヒデとロザンナ (1970)

ボサノバ・デュオ、ユキとヒデで活動していた出門英とイタリア人女性のロザンナ・ザンボンによるデュオ、ヒデとロザンナの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。静かにはじまるのだが、少しずつ盛り上がっていく展開や、かけ合いのボーカルなど聴きごたえがある。ロザンナは日本でヒデに会って一目で恋に落ち、ヒデとロザンナは後に夫婦デュオとなった。

京都の恋/渚ゆう子 (1970)

ザ・ベンチャーズはアメリカのインストゥルメンタル・ロック・バンドでありながら、60年代に若者の間でエレキブームを起こしたことなどから、日本でひじょうに根強い人気がある。1970年に大阪で開催された日本万国博覧会のためにつくられたこの曲に歌詞をつけ、ハワイアン歌手として活動していた渚ゆう子が歌うとオリコン週間シングルランキングで1位に輝き、ザ・ベンチャーズ歌謡を代表する楽曲の1つとなった。

今日までそして明日から/よしだたくろう (1970)

よしだたくろうとはもちろん吉田拓郎のことであり、この頃はアーティスト名がひらがな表記だったということである。広島フォーク村を立ち上げ、自主制作でレコードを発売した後に、エレックレコードからの誘いで上京し、1970年11月にはデビュー・アルバム「青春の詩」をリリースした。この曲はアルバム収録曲で、翌年になってからシングル・カットされ、オリコン週間シングルランキングでは最高59位であった。フォークソングではあるのだが、プロテスト・ソング的な要素やメッセージ性はあまり感じられる、あくまで身の回りのことなどを歌っているところが批判されたりもしたようなのだが、これが一般大衆的な支持を得て、ある世代の人たちにとってのカリスマ的な存在になるまではもう少しである。