イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」【CLASSIC SONGS】
YMOことイエロー・マジック・オーケストラのシングル「テクノポリス」は、1979年10月25日にリリースされた。この曲はすでに発売されていたアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」からのシングルカットだが、内容は少し異なっている。「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」は1980年のオリコン年間アルバムランキングにおいて、松山千春「起承転結」に次ぐ2位、これ以外にもイエロー・マジック・オーケストラのアルバムは9位に「増殖」、10位に「パブリック・プレッシャー」、30位に「イエロー・マジック・オーケストラ」がランクインしている。「テクノポリス」のオリコン週間シングルランキングにおける最高位は9位だが、これを達成したのは発売から約7ヶ月後の1980年6月23日付のランキングであった。6月2日にイエロー・マジック・オーケストラはフジテレビ系の人気テレビ番組「夜のヒットスタジオ」に出演し、「テクノポリス」「ライディーン」を演奏している。これを見て「テクノポリス」のシングルを買った人たちが多かったのではないかと想像できる。
1980年6月5日にはイエロー・マジック・オーケストラの新曲と小林克也と伊武雅刀によるスネークマン・ショーのコントを収録したミニアルバム「増殖」が発売されるのだが、これはジャケットアートワークがレコード店でもひじょうに目を引いたうえに、10インチというユニークな形態、価格もわりと買いやすかったような気がする。これがオリコン週間アルバムランキングで1位に輝くのだが、「テクノポリス」「ライディーン」は収録されていない。それで、一緒に「テクノポリス」のシングルを買った人たちも多かったのではないだろうか。「ライディーン」もまた「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」収録曲だったのだが、シングルカットされるのはこの少し後の6月21日である。タイトルは江戸時代の力士、雷電に由来しているということだったが、この曲がヒットしていた当時に中学生ぐらいだった人たちにとっては、テレビアニメ「勇者ライディーン」がイメージされる。そして、シングルのジャケットにもそれに近いロボットのようなイラストが載っていた。当時、「勇者ライディーン」がアメリカでヒットしているという話があったらしく、細野晴臣の発案でこの曲のタイトルも「ライディーン」になったということである。オリコン週間シングルランキングでは最高15位を記録していた。
いわゆるテクノブームが一般大衆レベルにまで本格的に広まりきったのは、これぐらいの時期だったような気がする。旭川の公立中学校では、地味なタイプの男子が主にイエロー・マジック・オーケストラのレコードを聴いていたような気がする。個人的にはやや遅れを取ってしまったような気分があったことと、イエロー・マジック・オーケストラのレコードを持っている人たちが周りにわりといたことなどから、テクノポップバンドでもプラスチックスを好んで聴いていた。シンセサイザーを使用したインストゥルメンタル中心の音楽というのは、日本のポップミュージック、ましてや流行歌としては明らかに異質だったわけではあるのだが、これが一般大衆的にも大ヒットしていたのだ。
「テクノポリス」では機械的に加工されたボーカルで「TOKIO」というフレーズが繰り返されるわけだが、もちろん日本の首都である「東京」のことである。英語では「TOKYO」と表記されるのだが、非英語圏のいくつかの国々では「TOKIO」となるようである。1980年の元旦に沢田研二がシングル「TOKIO」をリリースするのだが、落下傘を背負った派手な衣装も含め、80年代の幕開けにふさわしいポップ感覚が印象的であった。この曲を作詞していたのがコピーライターの糸井重里であり、西武百貨店の広告などをヒットさせ時代の寵児としてもてはやされることになる。ニューミュージックが全盛だった70年代後半は深刻で本格的なものに価値があるとされていたような気がするのだが、80年代になった途端に時代がライトでポップな感覚を求めはじめたようなところがあった。この年には松田聖子や田原俊彦がデビューし、フレッシュアイドルが久しぶりに本格的にブレイクした。また、それまでは中高年の娯楽というイメージが強かった漫才がB&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜介などによって、若者のポップカルチャーとしてブームになった。フジテレビ系で放送されていた「THE MANZAI」の視聴率が一気に跳ね上がったのが、1980年7月1日に放送された第3回であった。後にイエロー・マジック・オーケストラはこの「THE MANZAI」にトリオ・ザ・テクノとして出演もしている。「THE MANZAI」とほぼ同じスタッフによって1981年にはバラエティ番組「オレたちひょうきん族」が開始されるのだが、ビートたけしが扮するタケちゃんマンのコスチュームは、沢田研二「TOKIO」の衣装にインスパイアされたものであった。
細野晴臣は大滝詠一、松本隆、鈴木茂とのロックバンド、はっぴいえんどを1973年に解散すると、ソロアーティストとしての活動と並行して、鈴木茂、林立夫、松任谷正隆とキャラメル・ママを結成し、後にティン・パン・アレーに改名する。1975年11月25日に発売されたアルバム「キャラメル・ママ」には、細野晴臣による「イエロー・マジック・カーニバル」という曲が収録されていた。「イエロー・マジック」は細野晴臣によって提唱されたコンセプトであり、白魔術とも黒魔術とも異なった黄色魔術、つまり黄色人種独自のポップミュージックを志向していたと思われる。細野晴臣は林立夫、女性シンガーのマナと共に「イエロー・マジック・カーニバル」のカバーを構想するのだが実現せず、後にマナのソロシングルとしてリリースされた。1978年のアルバム「はらいそ」は細野晴臣&イエロー・マジック・バンドの名義でリリースされることになり、これには元サディスティック・ミカ・バンドの高橋幸宏やスタジオミュージシャンやアレンジャー、プロデューサーなどとして活躍していた坂本龍一も参加していた。
その後、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一によってイエロー・マジック・オーケストラが結成され、1978年11月25日にはデビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」がリリースされる。翌年にはリミックスされたバージョンがアメリカでリリースされ、ロサンゼルスでニュー・ウェイヴ・バンド、チューブスのオープニングアクトを務めたりもする。それから帰国した後に「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」がリリースされ、「テクノポリス」がシングルカットされるのだが、社会的現象ともいえるブームが一般大衆レベルで盛り上がるまでには数ヶ月を要していたはずである。
「テクノポリス」は作曲者の坂本龍一がピンク・レディーの楽曲を研究し尽くし、あえて売れる曲を意識して作ったという。コンピューターミュージックというと一般的にはプログラミングによる受動演奏のイメージが強いのだが、当時のコンピューターは容量がそれほど大きくはなかったためトラック数が足りず、「テクノポリス」の7割ぐらいは手弾によってレコーディングされているようである。
原宿の竹下公園でラジカセで音楽を流しながら派手な服装で踊る竹の子族が話題になっていたが、そこでもイエロー・マジック・オーケストラの音楽はアラベスク「ハロー・ミスター・モンキー」、ブロンディ「コール・ミー」などと共に人気があったという。見た目が暗く地味な若者たちからツッパリ的な人たちまで、様々なタイプのリスナーにイエロー・マジック・オーケストラの音楽は支持されていた。また、当時その人気は小学生にまで及んでいて、駄菓子屋などで売られているブロマイドがランダムで引けるタイプの商品にも、人気アニメや特撮に混じってイエロー・マジック・オーケストラのものがあったという。
テクノブームが起こる少し前にはテレビゲーム「スペースインベーダー」が全国的に大流行していて、ゲームセンターはインベーダーハウスと呼ばれていたりもした。旭川の公立中学校ではインベーダーゲームをやることが禁止されていたのだが、もちろんやりたいに決まっているので放課後に旭川の須貝ビルでやっていたところ補導員に見つかり涙目になったことも良い思い出である。「スペースインベーダー」以外にもテレビゲームはいろいろ流行りはじめていて、ゲームセンターや喫茶店だけではなく、駄菓子屋などにも設置されるようになっていた。そして、そこで耳にするコンピューターサウンドのようなものに親しみはじめたタイミングでイエロー・マジック・オーケストラの音楽に出会ったことも、当時の中学生あたりには大きかったのではないかと思える。
当時、イエロー・マジック・オーケストラのメンバーがやっていたもみあげや襟足を刈り上げるタイプの髪型がテクノカットと呼ばれ、都会では流行しているといわれていた。「お笑いスター誕生!!」を見ていると、ザ・ちゃらんぽらんという漫才コンビがネタで「サザエさん」のワカメちゃんはめちゃくちゃテクノカットやんけ、というようなことを言っていた。ジャケットアートワークやライブ衣装などで知られる赤い人民服のようなものにもインパクトがあったが、元々は明治時代のスキー服をイメージしたものだという。音楽だけではなくこのようにファッションやヴィジュアル的なイメージも含め、イエロー・マジック・オーケストラ的なものはいま新しくてカッコいいものとして、認識されていたような気がする。
そして、やはり「東京」である。日本が経済的にも力をつけてきて、アメリカなどにとっても脅威になり、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などという本がベストセラーになっていたりもした。「東京」はこれから世界に名だたる国際都市になっていくのだというような勢いが感じられた頃の気分にこの曲はマッチしていたように思える。それは、地方でこの曲を聴いていた人たちにとっても、「東京」の理想的なイメージを強化するものであった(実際に当時この曲よりもヒットしていたのはクリスタル・キング「大都会」だったとしてもである)。
レコードを持っていなくても当時さんざん耳にすることができた「テクノポリス」だが、個人的には1981年のお年玉で「BEST ONE」というカセットテープでしか発売されていなかったベストアルバムを冬休みの間にこっそり買っていたことが思い出される。