邦楽ポップス名曲のあゆみ 第14回(1980・前編)

COPY/プラスチックス (1980)

プラスチックスのデビュー・アルバム「ウェルカム・プラスチックス」がリリースされたのは1980年1月25日で、日本では「TOP SECRET MAN」がシングル・カットされたのだが、イギリスでは1979年の時点でラフ・トレードから「COPY」のシングルがリリースされていた。ここでは発売日をベースにして年度を振り分けているので、1979年の回に入れるべきなのかもしれないが、日本で発売された年ということで1980年の方に入れた。

P-MODEL、ヒカシューと共にテクノ御三家とされるプラスチックスだが、テクノポップブームで社会現象的ともいえるほど圧倒的に人気があったのはやはりYMOことイエロー・マジック・オーケストラである。しかし、当時、テクノポップを表現する際に用いられたピコピコサウンドという形容により相応しいのはプラスチックスの方だったのではないかというような気もする。

「ATCH MO KOTCH MO COPY DARAKE ORIGINALITY 99」、つまり、あっちもこっちもコピーだらけでありオリジナリティが無いというような批評的なことも歌いながら、「COPY」という単語が何度も連呼されるとやがてピコピコとも聴こえてくるのであった。メンバー全員がミュージシャン以外にもクリエイティヴ系の肩書きを持っているという軽さも、時代の気分にマッチしていたような気がする。

雨あがりの夜空に/RCサクセション (1980)

70年代にフォークグループとしてブレイクしたRCサクセションだが、マネージャーの事務所独立騒動に巻き込まれるなどして、不遇の時代を経験することになった。メンバーチェンジを経てロックバンド編成となってからは少しずつ話題になっていき、再ブレイクを果たしていくのだが、ライブの定番でもあったこの曲はターニングポイント的な印象もひじょうに強い。

忌野清志郎の愛車が雨にやられて故障してしまったという実話をベースに、性的なダブルミーニングをも含んだラヴソングとなっている。オリコン週間シングルランキングにはランクインしていないが、日本のロックを代表する名曲の1つとして知られているような気がする。

不思議なピーチパイ/竹内まりや (1980)

竹内まりやの4枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録した。資生堂化粧品のCMソングに起用された、春らしくポップな楽曲である。作詞は安井かずみだが、タイトルの決定には糸井重里もかかわっている。この頃、化粧品のCMがヒットチャートに及ぼす影響というのはひじょうに大きかったことが思い出される。

DOWN TOWN/EPO (1980)

EPOのデビュー・シングルで、シュガー・ベイブの曲のカバーである。この翌年に放送を開始したバラエティ番組「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマ曲として知られるようになるが、リリース時からラジオなどではよくかかっていた。EPOはこの曲がアーティストとしてのデビューとなるが、大学在籍時から竹内まりや「SEPTEMBER」にコーラスで参加するなど、プロとして音楽活動を行っていた。デビュー当時は雑誌のグラビアやレコード会社対抗運動会への出場など、アイドル的な仕事もいろいろやらされていた。

ランナウェイ/シャネルズ (1980)

シャネルズのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。パイオニアのラジカセ、ランナウェイのCMソングとしてオールディーズ的なこの曲がレコーディングされたのだが、当初はレコード化するつもりではなかったようだ。ドゥー・ワップというわりとマニアックな音楽を取り入れ、日本のメインストリームで大ヒットさせたインパクトは大きかった。

裸足の季節/松田聖子 (1980)

ニューミュージック全盛の70年代、歌謡ポップスの世界でも大御所のスターたちにかなり人気があり、フレッシュアイドルにとっては受難の時代であった。山口百恵がこの年の秋での引退を表明していたため、ポスト百恵は一体誰なのかということが話題になったりはしていた。80年代に入ってから、YMOなどのテクノポップや漫才ブームなど時代がよりライトでポップな感覚を求めはじめているようなムードもあった。そこにデビューしたのが松田聖子であり、デビュー・シングル「裸足の季節」はオリコン週間シングルランキングで最高12位を記録した。資生堂エクボ洗顔フォームのCMにも使われていて、「えくぼの秘密あげたいわ」というところが流れていたのだが、実際にテレビに映っていたのは山田由紀子であった。松田聖子にはえくぼができなかったため、出演できなかったとのことである。伸びのあるボーカルと、フュージョン的な気分も感じられるサウンドは、アイドル歌謡としても新感覚であり、やがて時代を席巻していくことになる。

恋のバッド・チューニング/沢田研二 (1980)

元旦にシングル・カットされヒットした「TOKIO」に続いて、糸井重里が作詞した曲で、テレビ出演時にはカラーコンタクトを付けてのパフォーマンスが話題になった。オリコン週間シングルランキングでは最高13位、「ザ・ベストテン」では最高5位を記録している。ちょっとズレている恋人同士のいわゆるバッド・チューニング感覚については、糸井重里のエッセイでも取り上げられていたような気がする。

ノット・サティスファイド/アナーキー (1980)

パンクロックバンド、アナーキーのデビュー・シングルで、アルバム「アナーキー」にも収録されていた。国鉄の作業服を着て、若者の行き場のない苛立ちやフラストレーションのようなものを性急なパンクロックサウンドによって歌うスタイルで、一部の中高生などから熱烈な支持を得ていた。

ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ (1980)

オリコン週間シングルランキングで10週連続1位、この年の年間1位にも輝いた大ヒット曲である。ソロ・アーティストとして活動していたがいま一つうまくいっていなかったボーカリスト、もんたよしのりが新たに結成したバンド、もんた&ブラザーズで最初にリリースしたこのシングルが有線放送から火がつき、結果的に大ヒットとなった。ハスキーなボーカルとどことなく母性本能をくすぐりがちなところなども、人気の秘訣だったような気もする。

RIDE ON TIME/山下達郎 (1980)

本人が出演したマクセルカセットテープのCMでお茶の間にも流れ、そのシティ・ポップ的な音楽性が時代とマッチしていたようにも思える。とはいえ、当時、このような音楽をシティ・ポップと呼んでいたかというと、あまり呼んでいなかったような気もする。ニューミュージックの中でも特に新感覚の音楽、という感じだっただろうか。「ザ・ベストテン」などにはランクインしていなかったが、オリコン週間シングルランキングでは最高3位、この曲も収録したアルバム「RIDE ON TIME」が1位に輝き、いよいよ人気アーティストとして誰もが知る存在となっていった。

ロックンロール・ウィドウ/山口百恵 (1980)

すでに三浦友和の結婚、引退を表明していた山口百恵が、ロックンロールの未亡人という曲を歌うというのがまた味わい深くもあるのだが、阿木燿子・宇崎竜童コンビのこのロックチューンは見事に歌い上げられている。オリコン週間シングルランキングで最高3位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。

いなせなロコモーション/サザンオールスターズ (1980)

デビューシングル「勝手にシンドバッド」から「C調言葉に御用心」まで5曲連続トップ10ヒットを記録していたサザンオールスターズだが、1980年からは音楽制作に集中するためにメディア露出を控えるようになっていた。その影響もあり、「涙のアベニューが」最高16位、「恋するマンスリー・デイ」が最高23位とシングルのセールスが落ちていき、その次のこの曲も最高16位であった。オールディーズ調のポップで軽快な楽曲である。

ジェニーはご機嫌ななめ/ジューシィ・フルーツ (1980)

ジューシィ・フルーツのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した。前身は近田春夫のバックバンドを務めていたBEEFであり、テクノ/ニュー・ウェイヴ系のバンドとして認識されていた。テクノポップを代表する楽曲として知られ、後にPerfumeなど多くのアーティストによってカバーされることになる。

順子/長渕剛 (1980)

長渕剛の5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝いた。1979年のアルバム「逆流」に収録されていた曲だが、有線放送などでひじょうに人気が高まり、シングルカットの要望も強かったのだが、長渕剛自身にそのつもりがなく、リリースが遅れたという。それでもこの大ヒットであり、1980年の夏にはいろいろなシチュエーションでこの曲を耳にした記憶がある。

哀愁でいと/田原俊彦 (1980)

テレビドラマ「3年B組金八先生」に生徒役で出演していた田原俊彦、近藤真彦、野村義男に特に人気があつまって、たのきんトリオなどと呼ばれるようになっていたのだが、まずは田原俊彦がこの曲でデビューした。歌唱力についてどうこういわれたりもしたが、「ザ・ベストテン」に初登場した時の鮮烈な印象というか、その独特な軽さには新しい時代の到来を感じさせられた。レイフ・ギャレット「ニューヨーク・シティ・ナイト」の日本語カバーであり、代々木公園で踊っていた竹の子族のラジカセから流れることもあったという。

Yes-No/オフコース (1980)

80年代に入るとニューミュージックは暗いとかダサいとかいわれるようにもなっていき、確かにクラスで聴いていたのは地味な人たちが多かったような気はするのだが、そのような偏見を捨ててみたところ、オフコースが当時やっていた音楽はとてもカッコいいという結論にかなり後になってから到達した。この曲などはシティ・ポップ的なところもある上に、当時、ニューミュージックファンにはアイドル的な人気をほこってもいた小田和正が「君を抱いていいの」などと歌ってもいる。オリコン週間シングルランキングでは最高8位を記録した。

いまのキミはピカピカに光って/斉藤哲夫 (1980)

女子大生だった頃の宮崎美子が木陰でジーンズを脱ぐミノルタカメラのテレビCMは当時、大ヒットして、CMソングとしてレコーディングされていたこの曲もレコード化されることになった。作詞はCMのコピーを書いていた糸井重里、作曲・編曲はムーンライダーズの鈴木慶一である。オリコン週間シングルランキングで最高9位のヒットを記録した。

ドゥ・ユー・リメンバー・ミー/YUKI (1980)

70年代にテレビドラマ「おくさまは18歳」などで人気者になったアイドル、岡崎友紀がYUKI名義でリリースした楽曲で、オリコン週間シングルランキングで最高18位を記録した。加藤和彦がザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」を意識してつくったともいわれ、オールディーズの80年代的解釈とでもいうようなトレンドにも乗っていたような気がする。