ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」

ビーチ・ボーイズの11作目のアルバム「ペット・サウンズ」は、1966年5月16日に発売された。ジャネット・ジャクソンが生まれたのとまったく同じ日である。それはそうとして、ポップ・ミュージック史上最も優れたアルバムなのではないか、などといわれたりいわれなかったり、あまりにも評価が確立しすぎているので、実はそれほど良くないのではないか、などという逆張り的な意見も出てきたりと、いずれにしてもどうやら重要なアルバムである。

1966年5月16日の時点で、ひじょうにイノヴェイティヴかつユニークきわまりない作品であったことには間違いがないとは思えるのだが、何せこの頃にはまだ生まれてすらいないので、当時の人びとの反応というのを想像することしかできない。ビーチ・ボーイズといえば最初のヒット曲が1962年にリリースした「サーフィン・サファリ」で、それ以降、サーフィンや車やティーンエイジャーのロマンスなどをテーマにしたポップでキャッチーな音楽をやっていたイメージである。

中心メンバーのブライアン・ウィルソンが1965年あたりから他のメンバーと一緒にツアーに出るのをやめて、スタジオにこもって曲づくりに集中することになり、その結果できたのが「ペット・サウンズ」だともいわれている。その間にもビーチ・ボーイズの音楽はリリースされていたのだが、少しずつ変わっていく感じはあったものの、「ペット・サウンズ」でその傾向が一気に強まったようである。

当時の全米アルバム・チャートでは最高10位で、一般的にはじゅうぶんにヒットしたといえるのだが、ビーチ・ボーイズとしてはかなり売れていない方で、ファンやリスナーの間でも動揺があったのだろうか。一言でいうと、凝ったアレンジで曲の内容が内省的になっているといったところなのだが、ビーチ・ボーイズの他のメンバーも参加してはいいるものの、ベーシックなところはほとんどブライアン・ウィルソンによってつくられ、ソロ・アルバムだといっても問題がないようなところもあるのだという。

「駄目な僕」という邦題の曲が収録されているのだが、これがアルバム全体の感じをあらわしてもいるようであり、ブライアン・ウィルソンの内面にあるものを作詞家のピーター・アッシャーがうまくすくい上げたという感じである。この前の年にビートルズの「ラバー・ソウル」がリリースされ、アルバムというのがシングル曲と捨て曲的な曲も入った寄せあつめのようなものではなく、1つのアートフォームのようなものとして成立しうるという可能性が広がっていたのではないかと思われる。ブライアン・ウィルソンには明確に史上最も優れたアルバムをつくろうという野心があったらしく、完璧主義的なレコーディングに費用は莫大にかかったともいわれている。フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドと呼ばれる、ダビングを重ねてサウンドに壁のような厚みを出すことによって臨場感を高める手法も用いられている。

アメリカでビーチ・ボーイズにしてはあまり売れなかったのには、プロモーション段階において、いつものビーチ・ボーイズとは変わらないイメージが保たれていたため、アルバムの内容とのギャップがはげしかったという理由もあるのではないか、といわれたりもしているようだ。一方、イギリスでは全英アルバム・チャートで最高2位と好調だったのだが、こちらではこれまでのビーチ・ボーイズのアルバムとは違っていることや、とてつもない傑作であることがすでに強調されていたということである。ビーチ・ボーイズの他のメンバーも、当初はこの変化に戸惑いを感じていたという。

脆弱さや繊細さのようなものを良しとしたというか、美しいものとして表現しているところが特徴であり、これは後のインディー・ポップにも通じる精神性のように思える。これには、当時のブライアン・ウィルソンの実生活におけるが人間関係が影響していたともいわれる。そして、音楽制作によってはドラッグによる意識の拡張が作用しているところもあるようだ。クラシック音楽の教育を受けたスタジオ・ミュージシャンたちを起用したり、様々な楽器だけではなく、自転車のベルやコカ・コーラの瓶までをも用いることによって、ユニークなサウンドを実現している。後にバロック・ポップなどとも呼ばれるようになるが、こういったタイプの音楽としてはやはり金字塔的なアルバムだといえるだろう。「神のみぞ知る」などは、少なくともあるベクトルにおいては最も美しいラヴソングだといっても過言ではない。

個人的な記憶をたどると、主体的に洋楽のレコードを買うようになった80年代の初めには中学生だったのだが、高校受験にプレッシャーから逃れるために、片岡義男のサーフィン小説などをよく読んだりもしていた。校則により頭髪が五分刈りであったにもかかわらず、「夏は単なる季節ではない。それは心の状態だ」などと呟くひじょうに薄気味の悪いタイプであった。サーフィンといえば、ビーチ・ボーイズである。1982年は高校に入学した年だが、山下達郎「FOR YOU」、佐野元春「SOMEDAY」などがヒットして、中森明菜、小泉今日子など「花の82年組」と呼ばれる女性アイドルが次々とデビューした。個人的には松本伊代と早見優が好きだったのだが、特に早見優はハワイ育ちでバイリンガルであるところなどが特に良かった。ハワイに住んでいた頃にビーチ・ボーイズやカラパナの音楽が好きでよく聴いていた、などともいっていた。そして、山下達郎ももちろんビーチ・ボーイズから影響を受けている。そんなわけで、ビーチ・ボーイズの存在がひじょうにポジティヴなものとしてピックアップされていたのだが、NHK-FMの「朝のポップス」というストレートなタイトルの番組で「サーフィン・U.S.A.」を聴いて、なんだこのご機嫌な音楽はとはげしく盛り上がったわけである。

それで、旭川のミュージックショップ国原でビーチ・ボーイズのレコードを買おうということになるのだが、できるだけ有名な曲がたくさん入っていた方が良いというわけで、「サマー・プレゼント」という日本で編集した2枚組のベスト・アルバムを買った。「サーフィン・U.S.A.」はもちろん「アイ・ゲット・アラウンド」や「ファン・ファン・ファン」や「カリフォルニア・ガール」など、良い曲がたくさん入っていた。「グッド・ヴァイブレーション」には少し暗さのようなものが感じられもするが、なかなか凝っていて楽しいところもある。しかし、「神のみぞ知る」「英雄と悪漢」あたりになると、どうも暗さの方が強く感じられ、当時はあまり好きではなかった。

高校を卒業した少し後にCDが一般的にもアナログレコードに取って代わっていき、それと同時に過去の名盤の再発も活発になっていった。ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」が名盤だということは、おそらく音楽雑誌からの知識でなんとなく知っていたため、町田にあったCDショップで国内盤を買った。ずっとあれはディスクユニオンだったとばかり思っていたのだが、数年前にその頃に町田にはまだディスクユニオンはなく、どうやらレコファンだったらしいということを知った。それはそうとして、聴いてみてあーなるほどこういうやつか、とひとしきり納得はした。おそらくとても良いアルバムなのだろうということはなんとなく分かったのだが、お金が足りない時に渋谷のレコファンで売った。そして、また別のCDを買った。そんなことの繰り返しであった。

そして、1991年に六本木WAVEで何かCDを買いたかったのだが、特にどうしてもいまこれがほしいというのもなく、適当に売り場を見ながら、とりあえずビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」とクリーム「カラフル・クリーム」を買った。その少し後にフリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」がリリースされ、周りの人たちの多くは大騒ぎしていたのだが、1曲目の「ドルフィン・ソング」がいきなり「ペット・サウンズ」にインスパイアされた、というかほぼそのままのところもあって、良いものだなと感じた。バブル景気は崩壊したといわれていたが、その実感もまだそれほどないまま、不景気なので安くておいしくてヘルシーなところが受けてブームになっているというモツ鍋を食べに、仕事終わりに中目黒に行った。港区のディスコで遊んでいそうなワンレングスのお姉さんなども、髪をかきあげながらモツ鍋をつまんでいてなかなか楽しかった。その後、六本木WAVEで働いていた男子の家に遊びにいって、ジャズファンク的な音楽がサントラとして使われている70年代あたりの抽象的な映画をレンタルビデオで見た。ボンゴのような打楽器があり、一緒にいたうちの一人がそれを叩きだしたりしていた。

真夜中か明け方が近かったのかよく覚えていないのだが、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を聴こうということになって、スピーカーから「素敵じゃないか」が聴こえてきた。音があまり分離されていない初期のCDの音がとても好きだ、などと言っていたような気がする。大人になって結婚したりすると素敵じゃないか、というようなことが確か歌われている曲なのだが、間接照明だけが灯り、何人かはすでに寝ているその部屋で、こんな曲を聴いていると結婚するのも悪くないと思えてくるよな、というようなしょうもないことを語り合っていた。その後、始発で帰るかどうかしたとは思うのだが、それについてはよく覚えてはいなく、それでもあの時に「素敵じゃないか」が聴こえていた部屋の感じだけは記憶に残っている。

それからさらに数年後にアルバイト先の客であった女子大生と付き合うことになるのだが、東京でありふれたデートを繰り返していたので、そのうち上野動物園にも行くことになる。動物とのふれあいコーナー的なところもあって、まるで「ペット・サウンズ」のジャケットのようだと愉快な気分になった。このような普通に楽しげな時間が訪れることなど、想像もできなかった頃もあったからである。