ザ・クラッシュ「コンバット・ロック」

ザ・クラッシュの5作目のアルバム「コンバット・ロック」は、1982年5月14日にリリースされた。ザ・クラッシュのアルバムとしては、「白い暴動」「ロンドン・コーリング」「サンディニスタ!」などに比べ、軽視されているような印象もあるのだが、イギリスでもアメリカでもザ・クラッシュにとって最大のヒット曲を収録したアルバムである。イギリスではザ・クラッシュの存続中における全英シングル・チャートでの最高位は「ロンドン・コーリング」で記録した11位だったのだが、解散してからしばらくたった1991年にリーバイスのCMに使われリバイバルヒット、全米シングル・チャートで1位に輝いたのだった。ちなみに個人的には、この年に六本木にあったとあるCDショップの面接を受けたのだが、合否確認の電話をかける直前に、この曲を聴いて気合いを入れていたことが思い出される。

アメリカではそれまでアルバム「ロンドン・コーリング」からの「トレイン・イン・ヴェイン」が全米シングル・チャートで最高23位と、ザ・クラッシュにとって唯一のトップ40となっていたのだが、「コンバット・ロック」からシングル・カットされた「ロック・ザ・カスバ」が最高8位を記録し、過去最大のヒットとなっていた。ちなみにこれよりも先にシングル・カットされた「ステイ・オア・ゴー」は最高45位で、あとわずかというところでトップ40入りを逃がしている。「ロック・ザ・カスバ」はドラマーのトッパー・ヒードンが作曲にかかわった数少ない曲のうちの1つだが、これがアメリカでは最もヒットすることになった。アメリカのテキサス州で撮影されたミュージック・ビデオもひじょうにユニークであり、ヒットの要因の1つになっていたように思える。

これらのヒット曲、さらにはアルバムの1曲目に収録され、先行シングルとしてもリリースされていた「権利主張」の印象から、「コンバット・ロック」は前作の「サンディニスタ!」や前々作の「ロンドン・コーリング」と比べると、よりストレートなロックに回帰したアルバムのようにも思えるのだが、全体的にはバラエティーには様々なタイプの楽曲が収録されていて、特にベトナム戦争中にアメリカ兵との関係によってベトナム人女性が妊娠、出産した子供をテーマにした「ストレイト・トゥ・ヘル」は少しずつ評価が高まっていき、いまや代表曲の1つとされる場合もある。M.I.A.が2007年にリリースしたアルバム「カラ」からシングル・カットされ、全米シングル・チャートで4位を記録した「ペーパー・プレーンズ」でサンプリングされたことでも知られる。

「ロンドン・コーリング」が2枚組、「サンディニスタ!」が3枚組であったように、このアルバムも当初は複数のレコードにまたがる長時間のアルバムになる予定だったのだが、メンバー間での議論の末に、アルバム1枚で12曲、約46分21秒を収録したアルバムになっていたということである。ミック・ジョーンズはそれまでの作品の延長線上にある、よりダンサブルで長時間を収録したアルバムを希望していたのだが、他のメンバーはより凝縮された1枚ものにしたかったようである。ジョー・ストラマーとポール・シムノンはそもそも、「サンディニスタ!」の時点でバンドがプロフェッショナル的になりすぎたことについて不満を感じていて、初期のような原初的なエナジーのようなものをバンドに取り戻したいと感じていたようだ。一方で、トッパー・ヒードンはヘロインに依存していくようになり、これが原因で、後にバンドを追い出されることになる。また、方向性の違いなどもあって、中心メンバーの1人であったミック・ジョーンズも、このアルバムを最後にバンドを離れる。よって、「コンバット・ロック」は、ジョー・ストラマー、ミック・ジョーンズ、ポール・シムノン、トッパー・ヒードンというよく知られるメンバーによってレコーディングされた、最後のアルバムということになる。その後、ザ・クラッシュはアルバム「カット・ザ・クラップ」をリリースして解散するのだが、評価はそれほど高くはない。

「コンバット・ロック」のレコーディング・セッションは初期にはロンドンで行われていたが、その後、「サンディニスタ!」と同じくニューヨークのエレクトリック・レディ・スタジオに場所を移した。1982年の初めにはロンドンで過ごした後、日本、オーストラリア、ニュージーランド、香港、台湾と続くツアーに出ていた。レコーディングされた音源のミックスや編集が行われ、アルバムの方向性が固められていったのはその後であり、その時点では2枚組で18曲入り、約77分のアルバムという線で進行していたといわれる。結局、1枚もののアルバムとして発売された「コンバット・ロック」は全英アルバム・チャートで最高2位、全米アルバム・チャートでは最高7位と、いずれもザ・クラッシュのアルバムとしては最高位を記録することになった(全英アルバム・チャートでは2作目のアルバム「動乱(獣を野に放て)」と並んでいる」。

ザ・クラッシュのアルバムの中では「白い暴動」「ロンドン・コーリング」「サンディニスタ!」ほどエッセンシャルではないような気もするが、ニュー・ウェイヴ的でもあるロック・アルバムとしてはわりと良く、少なくとも「ストレイト・トゥ・ヘル」などは必聴だといえる。1998年に出版された「80sディスク・ガイド」という本には小山田圭吾と常盤響による「青春放談」と題した対談のようなものが掲載されているのだが、そこではお互いが80年代のベスト・アルバムを10枚選んでいる。手書きのメモのようなものが画像として載っているのだが、小山田圭吾は真っ先に「コンバット・ロック」を挙げている。ただし、「ロンドン・コーリング」と途中まで書きかけて、消している形跡が見られるので、本当は「ロンドン・コーリング」を挙げたかったのだが、実は1979年の末に発売されていたと気づいて、「コンバット・ロック」と書いた可能性がひじょうに高い。アメリカの「ローリング・ストーン」誌では、「ロンドン・コーリング」の発売がアメリカでは1980年になってからだったという理由で、「80年代のアルバム・ベスト100」で「ロンドン・コーリング」を1位にしていた。小山田圭吾のリストで気になるのは、最後の1枚をロバート・ワイアット「ナッシング・キャン・ストップ・アス」と書きかけたのを消して、ベン・ワット「ノース・マリン・ドライヴ」に買い直すのだが、その後でこれを消して、結局はロバート・ワイアット「ナッシング・キャン・ストップ・アス」にしている点である。プリンスでは「サイン・オブ・ザ・タイムス」を挙げている(常盤響は「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」)である。

この翌年にアズテック・カメラがデビュー・アルバム「ハイ・ランド、ハード・レイン」をリリースするのだが、かせきさいだぁ「冬へと走りだそう」にもザ・スタイル・カウンシル「シャウト・トゥ・ザ・トップ」、佐野元春「HAPPY MAN」、松田聖子「赤いスイートピー」などと共に引用されていた「ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター」では、ジョー・ストラマーのポスターは壁から剥がれ落ち、そこには何もない、というようなことが歌われていた。その数年後、高校生であった小山田圭吾は多摩テックカメラなるバンドを結成して、学園祭のライブに出演したといわれる。アズテック・カメラが1990年にリリースした「グッド・モーニング・ブリテン」にはミック・ジョーンズが参加していたが、アズテック・カメラのロディ・フレームは「NME」の1988年6月18日号において、ジョー・ストラマーとの2ショットで表紙をかざっている。