竹内まりや「SEPTEMBER」

「SEPTEMBER」は竹内まりやの3枚目のシングルとして1979年8月21日に発売され、オリコン週間シングルランキングで最高39位を記録した。初期の代表曲として知られ、当時もラジオからよく流れていた記憶があるため、この順位には意外にも低いなという印象がある。

しかも1つ前のシングルである「ドリーム・オブ・ユー〜レモンライムの青い風〜」の最高30位よりも順位もセールスも落としているのである。この曲はキリンレモンのCMソングだったため、キリンがスポンサーの1つであった「ザ・ベストテン」放送時のCMでもお茶の間に流れていた。

当時はニューミュージックの全盛期であり、歌謡ポップスを歌う新人アイドルにはブレイクするのが難しい時代であった。それでもフレッシュアイドル的な存在は求められるものであり、竹内まりやもまたそのような役割を担っていたような気がする。

中村雅俊が教師役を演じていた学園ドラマ「ゆうひが丘の総理大臣」では男子生徒たちがある学生の部屋にあつまり、ステレオで竹内まりやのレコードを聴きながらジャケット写真を眺め、竹内まりやちゃん可愛いよなァ〜、というようなことを言うシーンがあった。

講談社が発行していた少女向け漫画雑誌「月刊ミミ」の昭和54年8月号には、アン・ルイスと楳図かずおの対談やサザンオールスターズ、岸田智史、レイフ・ギャレットのカラー記事などと共に、「ゆうひが丘の総理大臣」のスタジオ最終ルポが5ページと竹内まりやについての記事が2ページ掲載されていた。

竹内まりやは島根県は出雲大社のすぐそばにある老舗旅館に三女・第6子として生まれ、高校生の頃にはアメリカ留学を体験したりした後に、慶應義塾に進学した。音楽サークルのリアルマッコイズに入ると、先輩でリーダーの杉真理のバックでキーボードやコーラスを担当するようになり、結果的にそれがきっかけで後にデビューを果たすことになる。

デビュー当時まだ慶應義塾大学に在学中であり、音楽的にはアメリカンポップスからの影響が強く感じられたため、キャンパスポップス的なイメージで受け入れられるのだが、アルバムが予想していたよりも売れたことなどにより、レーベルからは賞レースを狙っていくようにという司令が出たようである。

それで制作されたのが「SEPTEMBER」なのだが、作詞は松本隆、作曲・編曲は林哲司にオファーすることになった。賞レースに間に合わせるために発売日は8月21日、当時、現役の大学生でありキャンパスポップス的なイメージもあった竹内まりやに、学生にとっては何かと特別な月である9月を当てはめた。ザ・ハプニングス「シー・ユー・イン・セプテンバー」、レターメン「涙のくちづけ」といった楽曲がイメージされてもいたようである。

失恋ソングなのに明るい、そしてイントロが流れた瞬間に気分を変えてしまうような瞬発力がある。夏が大好きな人たちにとって、夏の終わりと秋の訪れというのはひじょうに寂しく、テンションがナチュラルに落ちる案件なのだが、この曲のイントロを聴くと激しめな夏からもっと過ごしやすく心地よい空きへのポジティブな移ろいのようなものが感じられ、これも意外と悪くはないのではないか、というような気分にさせられるのである。

歌詞は「からし色のシャツ追いながら 飛び乗った電車のドア」というフレーズからはじまる。「からし色」とは唐辛子の赤ではなく、マスタードのような鈍い黄色のことであり、この色のシャツにはなんとなく秋っぽい感じがある。松本隆の歌詞では松田聖子「赤いスイートピー」が「春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ」、「瞳はダイアモンド」が「愛してたって言わないで…」の後に「映画色の街美しい日々が切れ切れに映る」といずれも実際には存在しないがイメージさせるタイプの色ではじまるのだが、「SEPTEMBER」の「からし色」は実際に存在する色である。

ちなみに松田聖子がオリコン週間シングルランキングで最初に1位を記録したシングルは「風は秋色/Eighteen」でタイトルに実際には存在しないがイメージさせるタイプの色が入っているのだが、作詞はまだ松本隆ではなく三浦徳子である。

竹内まりや「SEPTEMBER」を個人的には旭川の中学生としてリアルタイムで聴いていたのだが、今日ではシティポップにカテゴライズされるであろうこの楽曲は、当時、松山千春やアリスなどと同じニューミュージックとして認識されていた。そもそも当時、歌謡曲と演歌を除いたすべての日本のポップミュージックがニューミュージックと呼ばれていたような気もする。

通っていた中学校にレコードコンサートというイベントがあり、1つの教室にステレオを持ち込み、暗幕で暗くした状況で生徒がリクエストしたレコードを次々と演奏していくというものである。教室は洋楽と邦楽に分けられていたのだが、洋楽はポップス、邦楽はフォークと名付けられていた。たとえば松山千春、中島みゆき、さだまさしなどはフォークでありながらニューミュージックだったのだが、ゴダイゴやツイストなどは明らかにフォークとはいえなかったはずである。

邦楽よりも洋楽を聴いている方がなんとなく高級で大人であるというような風潮は確実にあり、同じ「SEPTEMBER」というタイトルの楽曲でも、竹内まりやよりもアース・ウィンド・アンド・ファイアーの方を聴いているのがより偉いというような気分もなんとなく漂っていた。

つまり、竹内まりや「SEPTEMBER」は「ザ・ベストテン」にランクインするレベルの大ヒット曲ではなかったのだが、ある程度ラジオを聴いたりしている人たちであれば誰でも知っているぐらいにはポピュラーだったような気がする。

それで、「第21回日本レコード大賞」では新人賞に選ばれることになった。とはいえ、その中から最優秀新人賞に選ばれたのは、同じくニューミュージック枠ともいえる桑江知子「私のハートはストップモーション」であった。その他に新人賞を受賞したのはアイドルの井上望美「好きだから」、倉田まり子「HOW!ワンダフル」、演歌の松原のぶえ「おんなの出船」であった。

竹内まりやはこの翌年にリリースした次のシングル「不思議なピーチパイ」が資生堂のCMソングだったこともあり、オリコン週間シングルランキングで最高3位の大ヒットを記録し、「ザ・ベストテン」にも初登場した。

「SEPTEMBER」のシングルB面には竹内まりや自身が作詞・作曲した「涙のワンサイデッド・ラヴ」が収録され、編曲を後に夫となる山下達郎が手がけている。竹内まりやはすでに楽曲を自作していたのだが、シングルのA面にはまだ採用されていなかった。

当時の竹内まりやはメディアからアイドル扱いされていたようなところもあったため、音楽とまったく関係のない仕事も少なくはなく、本人はそれがとても嫌だったようであある。それで、そういった悩みを山下達郎に打ち明けているうちにどんどん親密になっていった、というようなことがよく語られてはいるようである。

それはそうとして、「SEPTEMBER」のコーラスにはデビュー前のEPOも参加しているのみならず、コーラスアレンジにもクレジットされている。しかし、実際にこの曲のコーラスは牧村憲一と共にプロデュースを手がけ、コーラスでも参加している宮田茂樹のヘッドアレンジであり、クレジットは翌年にEPOをアーティストとしてデビューさせるための社内世論を形成するためのものだったという。

EPOは実際にこの翌年、山下達郎が大貫妙子らとかつて組んでいたバンド、シュガー・ベイブの名曲「DOWN TOWN」のカバーバージョンでデビューし、そのさらに翌年から放送開始されたフジテレビ系のバラエティ番組「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマ曲として使用されることによって、さらに有名になった。

「SEPTEMBER」の歌詞で特に印象に残るのが「借りていたディクショナリー 明日返すわ ラブという言葉だけ切り抜いた跡 それがグッド・バイ」というところである。

まず、ディクショナリー、つまり辞書を恋人から借りるという行為、さらにはそれのラブの部分だけを切り抜いて返すというくだりが多分にフィクショナルであり、現実味を欠いているようにも感じられるのだが、センチメンタルな気分は伝わる。

そして、竹内まりやはこの「借りていたディクショナリー」というところを普通はこんなことは言わないだろうというような理由で、レコーディング時に歌いたくないなどと言い出し、作詞をした松本隆を一瞬、凍りつかせたりもしていたようである。

80年代の後半ぐらいだったと思うのだが、土曜の深夜に「オールナイトフジ」を見ていると、この曲をテーマにしたミニドラマのようなものをやっていて、男性役をB21スペシャルのミスターちん、女性役をオールナイターズの確か新関捺実が演じていて、借りていたディクショナリーからラブという言葉だけ切り抜いて返すくだりも再現していたような気がする。

とはいえ、これをあなたが愛してくれた思い出だけは取っておくわ、というような意味なのではないかと深読みするとしたならば、これもまた味わい深いものである。