邦楽ポップ・ソングス・オール・タイム・ベスト500:460-451

460. 裏切りの街角/甲斐バンド(1975)

甲斐バンドの2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高7位のヒットを記録した。地元の福岡でかなり人気があり、海援隊やチューリップも輩出した博多は天神の照和というライブもできる喫茶店に出演していたようだ。「九州最後のスーパースター」のキャッチコピーでデビューして、最初のシングル「バス通り」はオリコン週間シングルランキングで最高65位、次にリリースしたこの曲でブレイクした。細川たかし、岩崎宏美、太田裕美などと共にこの年の日本有線大賞で優秀新人賞を受賞している。ザ・キンクスなどのブリティッシュ・ロックからの影響が感じられるが、適度に歌謡ポップス的でもあるところがとても良い。

ニューミュージックがひじょうに盛り上がっていた1979年には腕時計のテレビCMで使われた「HERO(ヒーローになる時、それは今)」がオリコン週間シングルランキングで1位に輝いて、新しい世代のファンをも獲得した。個人的には1980年半ばに東京の予備校で知り合った男子が甲斐バンドの大ファンであり、過去の作品を含めて強制的にいろいろ聴かされたことが思い出される。「アップルパイ」という脱力系の曲がわりと気に入っていた。ボブ・クリアマウンテンがミックスしたアルバム「ラヴ・マイナス・ゼロ」は六本木WAVEで自主的に買っていた記憶がある。大学受験が終わった後、お花茶屋で草野球をしている時に、甲斐バンドがメンバーの耳の不調が原因で解散するということを知らされ、彼はかなり落ち込んでいた。

459. 異邦人/久保田早紀(1979)

久保田早紀のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングや「ザ・ベストテン」で1位に輝く大ヒットとなった。収録アルバムの「夢がたり」もよく売れて、1980年のオリコン年間アルバムランキングでは、松山千春「起承転結」、イエロー・マジック・オーケストラ「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」、ABBA「グレイテスト・ヒッツVol.2」に次ぐ4位を記録している(この曲は同じ年のオリコン年間シングルランキングで、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」に次ぐ2位であった)。

三洋電機のカラーテレビ、くっきりタテ7のテレビCMで使用されたことにより、多くの人々の耳にふれることになったのだが、異国情緒あふれる映像に「ちょっとふり向いてみただけの異邦人」というフレーズがうまくハマり、人気を得ることになった。久保田早紀がテレビに出演してピアノを弾きながらこの曲を歌う機会が増えると、その美しいルックスにも注目があつまっていった記憶がある。

元々は「白い朝」という曲で、久保田早紀の出身地でもある東京の国立をイメージして書かれた曲だったが、プロデューサーの意向によってシルクロードをテーマにした歌詞に書き直しをさせられ、タイトルも「異邦人」に変更されたという。とはいえ、久保田早紀はイランに赴任していた父から現地の音楽のカセットテープを買ってきてもらってよく聴いていたこともあり、異国情緒のようなものは潜在的に備わっていたところもあり、それは後に発表する作品にも反映していた。1984年には商業音楽の世界から引退し、本名の久米小百合で教会音楽家として活動をしていくことになる。

458. 君は1000%/1986オメガトライブ(1986)

1983年にリリースされた杉山清貴&オメガトライブのデビュー・シングル「SUMMER SUSPICION」は当時、流行していたシティ・ポップ的な音楽の中でも、特にメジャーにヒットした楽曲であり、オリコン週間シングルランキングでは最高9位を記録していた。

オメガトライブとは音楽プロデューサーの藤田浩一によるプロジェクトという意味合いが強く、作曲家の林哲司による楽曲を主に演奏していた。アイドル歌手であるにもかかわらず、その音楽性にはシティ・ポップやフュージョン的な要素が感じられた菊池桃子もまた、藤田浩一がオーナーのトライアングルプロダクションに所属していた。

杉山清貴&オメガトライブは1985年に解散し、杉山清貴はソロ・アーティストとして活動していくようになるのだが、その翌年には日系ブラジル人歌手のカルロス・トシキをボーカルに据えた1986オメガトライブが始動して、この曲はそのデビューシングルにあたる。タイトルは藤田浩一とカルロス・トシキとの会話から生まれた。

林哲司ではなく和泉常寛が作曲、新川博が編曲をしているのだが、音楽的にはやはりシティ・ポップ的であり、カルロス・トシキの甘いボーカルも良い感じにマッチしている。2010年代以降のシティ・ポップ・リバイバルにおいても、わりと順当に再評価されがちだが、それ以前にお笑い芸人のレイザーラモンRGが「あるある」を言う前に歌う曲として、ワム!「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」などと同様に取り上げられていた。

457. Funny Bunny/the pillows(1999)

the pillowsのアルバム「HAPPY BIVOUAC」に収録されていた曲で、シングルでリリースされたりはしていないのだが、後にOVA「フリクリ」に挿入歌として使用されたり、Base Ball Bearやアイドルネッサンスなどにカバーされたりしているうちに、バンドにとっての代表曲の1つのような感じにもなっていった。

「キミの夢が叶うのは誰かのおかげじゃないぜ」というフレーズが特に印象的であり、様々なシチュエーションにおいて、それぞれの理由でいろいろな人たちの心に刺さっているように感じられる。こういうのは、実に健全なのではないかと思ってしまうわけである。

456. 楓/スピッツ(1998)

スピッツの草野マサムネがやっているFM TOKYOの「SPITZ 草野マサムネのロック大陸漫遊記」という番組を個人的には毎週、ひじょうに楽しみに聴いているわけだが、スピッツといえば海外のインディー・ポップなどを主に聴いているタイプの音楽リスナーをも納得させるような音楽性でJ-POPのど真ん中においてトップアーティストであり続けていると、この時点ですでにあまりにも特殊すぎるのだが、元々はアースシェイカーのファンであり、ザ・ブルーハーツに触発されているというところもとても良い。

つまり、いわゆる良質なギター・ロックをやっているイメージが強いのだが、そのルーツにはポップ・ミュージック全般に対する造詣があり、それが軽やかでありながら深みも感じられる音楽性につながってもいるのではないかというような気もする。

それはそうとして、この曲は「スピカ」との両A面シングルとして1998年の夏にリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録したのだが、レパートリーの中でもひじょうに人気が高く、松任谷由実や椎名林檎をはじめ、様々なアーティストによってカバーもされている。特に派手なギミックや仕掛けのようなものはまったくないのだが、ただただとても良くてずっと聴き続けられる曲というのをとにかく量産し続けているスピッツの名曲のうちの1つである。

455. 心の旅/チューリップ(1973)

チューリップの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝く大ヒットとなった。とにかく地元の福岡ではこれ以前からとてつもない人気があったようなのだが、上京してからすぐにはそれほど売れずに、この曲でついにブレイクしたという感じだったようだ。

アルバムなどを聴くとよりビートルズなどからの影響が感じられ、もっと評価されるべきなのではないか、ともいわれがちなのだが、この曲はもう少しメインストリームに寄せたのではないかというか、別れと列車というモチーフが分かりやすくてとても良い。

この曲のリードボーカルは財津和夫ではなく、姫野達也である。チューリップはニューミュージック全盛の1979年に「虹とスニーカーの頃」をヒットさせ、新しい世代のファンをも獲得するのだが、個人的に高校生の頃に、実際にはRCサクセションなどを好むマブい女子となるべく親しくしたかったのだが、交流があったのはオフコースやチューリップなどを好むタイプであり、「姫野さんに似てる」などと言われてイラついていたことが思い出される。

1980年代の半ばに有頂天のケラがこの曲のカバーをしたバージョンを収録したピクチャーディスクを、西武系のWAVEに対抗してダイエーが渋谷の道玄坂に出店したCSVというCDショップで購入した記憶がある。

454. シーズン・イン・ザ・サン/TUBE(1986)

TUBEの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高6位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いている。これ以前にビールのテレビCMに使われてもいた「ベストセラー・サマー」がヒットしていたのだが、当時のバンド名はThe TUBEであり、TUBEに改名してからはこのシングルが最初だったようだ。

夏の風物詩的なバンドとして知られるが、ポップ・ミュージック批評的には正当に評価されていなさすぎるのではないか、と個人的には思ったりもしている。とはいえ、個人的にそれほど熱心に聴いているかといえば、特にそういうわけでもなくて、一体どないやねんという話ではあるのだが、この曲はいろいろとても良いと思うのである。

いわゆる典型的なTUBEサウンドとでもいうべきものが、まだ完全には確立しきっていなく、その辺りのマイルドに自由な感じと、いかにも80年代的なサックスも最高である。

453. ただいまの魔法/Kaede(2018)

新潟を拠点として活動するアイドルグループ、Negiccoはメンバーがそれぞれソロ・アーティストとしても活動しているのだが、かえぽことKaedeはスモーキーなボーカルがかなり良く、自身もインディー・ロック的な音楽を好んだりしているので好感が持てる(あと、個人的にはうちの猫と同じ名前の犬を飼っているところもポイントが高い)。

この曲はKaedeがファンであることを公言しているTRICERATOPSの和田唱による提供曲で、そのボーカルの魅力がフルに発揮されているのみならず、永遠とはけしておとぎ話ではなく、愛を知った時に心に宿るのだろう、というとても良いことが歌われている。

相模湖の近くで撮影されたミュージックビデオもとても良く、特定して聖地巡礼した夏の終わりが懐かしく思い出されたりもする。

452. Oh Baby/GREAT3(1995)

GREAT3のデビュー・アルバム「Richmond High」からの先行シングルで、オリコン週間シングルランキングにはランクインしていないのだが、とても良い曲である。当時の日本のロックバンドの中でも特にロックやポップスやソウル・ミュージックなど、いわゆる洋楽からの影響が感じられる音楽性であり、一般的な知名度のわりに熱心なファンがひじょうに多く、個人的な知り合いの範囲内でも、邦楽ではGREAT3だけはCDを全部買っているという者が2名ほどいた。GREAT3の曲が充実しているUGAの機材が置かれているカラオケボックスをわざわざ探して行って、GREAT3の曲しか歌わないカラオケ大会を何度か開催したことなども思い出される。

とはいえ、それほど一部の人たちにしか伝わらないマニアックな音楽をやっていたかといえば、そういうわけでもなく、じゅうぶんにポップで共感しやすい内容を扱ってもいた。いわゆる恋愛におけるしんどい感情なのだが、それがあまりにもナイーヴでディープすぎるために、時には狂気スレスレで致死量レベルの切なさが充填されているように感じられることはあったが。

この曲はいわゆる失恋ソングのようなものであり、「君が離れてゆくのに 何ができる? 教えてくれないか」というようなことが歌われているのだが、「昔の恋も チョコレートでも 君が好きなものはみんな嫌いだ」というレベルにまで振り切れているので、ある種のカタルシスが得られたり心が浄化されたりすることもあったりはする。

451. 夏のお嬢さん/榊原郁恵(1978)

榊原郁恵の7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高11位、「ザ・ベストテン」では最高5位を記録した。1970年代後半はニューミュージックが全盛で、アイドルポップスが何だか時代遅れなようにも感じられた上に、歌謡ポップス界では大物のスーパースターたちが大活躍してもいたため、いわゆるフレッシュアイドルたちにとってはなかなか厳しい時代でもあった。

とはいえ、榊原郁恵は石野真子や大場久美子と共にとても人気があった方で、特に水着グラビアが好評であった。この曲で歌われている「夏のお嬢さん ビキニがとっても似合うよ 刺激的さ クラクラしちゃ」というのは、まるで榊原郁恵自身のことのようにも感じられたし、個人的にも当時、小学生でありながら、「明星」か「平凡」あたりから切り抜いた榊原郁恵の水着グラビアを部屋の壁に貼っていたものである。

当時、出演していたテレビドラマ「ナッキーはつむじ風」でもそうだったのだが、一切の翳りが感じられないというか、とにかく陽気で明るいキャラクターがたまらなく魅力的であり、この曲にはそれがフルに生かされている。というか、歌声そのものがもうそれを表している。この曲そのものもとても良いのだが、他の誰が歌ったとしても同じレベルでのポップ・ソングとしての強度を実現することは、おそらく不可能であろう。