邦楽ポップ・ソングス・オール・タイム・ベスト500:470-461

470. 江南宵唄/Negicco(2016)

新潟を拠点に活動するアイドルグループ、Negiccoのアルバム「ティー・フォー・スリー」収録曲で、ポストロック的なバンド、Spangle call Lilli lineによって提供されている。

アイドル戦国時代ともいわれた2010年代、全国各地の地元を拠点とするローカルアイドル、通称・ロコドルも多数活動していたわけだが、Negiccoは新潟名産のやわ肌ねぎをPRする目的で2003年に結成され、以降約20年近くにわたって活動を継続している。2011年にはタワーレコードのアイドル専門レーベル、T-Palette Recordsに移籍し、小西康陽や田島貴男といった「渋谷系」的なアーティストによって提供された楽曲を歌うなどして、アイドルにはそれほど興味がない音楽リスナーからも注目をあつめるようになっていった。

3枚目のスタジオアルバムとなる「ティー・フォー・スリー」は大人ポップスの名盤であり、シティ・ポップやソフトロックなどを高く評価しがちなメディアからも絶賛されていた記憶がある。バラエティーにがハイクオリティーなアルバムにあって、この曲は特にニュー・ウェイヴ的でもあり、ウィスパー気味のボーカルなどはグループにとっても新境地を切り拓いた感があった。

Negiccoの代表曲なのかというとけしてそうではないのだが、このグループの音楽性の高さを象徴するサンプルとしてはふさわしいような気もする。

469. きっと言える/荒井由実(1973)

ユーミンこと松任谷由実(松任谷正隆と結婚する以前は荒井由実)の記念すべきデビュー・シングルだが、当時はあまり売れなかったようだ。元々は作曲家志望であり、元ザ・タイガースの加橋かつみに「愛は突然に…」を提供するなどしていたが、アルファレコードを立ち上げた村井邦彦の勧めでアーティストとしてデビューすることになった。プロデュースを手がけているのはかまやつひろしである。

松任谷由実が1981年にリリースしたシングル「守ってあげたい」のキャッチコピーは「才能のきらめきは不思議世代を惑わすか」であり、明らかに新しい世代の音楽リスナーをターゲットにしたものであった。この曲はオリコン週間シングルランキングと「ザ・ベストテン」で最高2位のヒットを記録し、「不思議世代」こと当時の中高生たちにも大いに受けた。この「不思議世代」の人たちというのは少し後には「新人類」などと呼ばれた世代でもあるように思えるのだが、またその少し後にはバブル景気でトレンディーな消費に貢献したりもしていて、1987年に公開された映画「私をスキーに連れてって」では松任谷由実の「恋人がサンタクロース」「サーフ天国、スキー天国」「ロッヂで待つクリスマス」などが効果的に使われていた。

この年には村上春樹の小説「ノルウェイの森」が「100パーセントの恋愛小説」のキャッチコピーで出版され、大ベストセラーとなるわけだが、松任谷由実は「恋愛三部作」の1作目となるアルバム「ダイアモンドダストが消えぬまに」をリリースし、恋愛の教祖的なイメージを強固なものにしていった。当時のいわゆる「純愛」ブームの背景にはバブル景気によるイケイケなムードと好況がもちろんあったわけだが、ポップ・ミュージックにとっての動きとしては再生メディアの主流がアナログレコードからコンパクトディスクことCDに移行し、それにともない過去の名曲、名盤へのアクセスがより容易になっていった。

この頃、「YUMING SINGLES 1972-1976」というコンピレーションアルバムがリリースされ、実はアーティストの意向とは関係がなかったようなのだが、オリコン週間アルバムランキングでは最高45位を記録した。あまり売れずに廃盤になっていた「きっと言える」のシングル・バージョンが聴ける唯一のアルバムということで、話題にもなっていた。個人的に当時、大学生であり、アルバイトの給料などでいろいろな過去の名盤だとか有名なアーティストのベスト・アルバムなどを買いまくっていた頃で、このアルバムも相模原にあったすみやというCDショップでボブ・ディランや吉田拓郎のベスト盤と一緒に買ったような気がする。そして、そのクオリティーの高さに度肝を抜かれた。

468. スーダラ節/ハナ肇とクレージーキャッツ(1961)

ハナ肇とクレージーキャッツのデビュー・シングルであり、ボーカリストである植木等の代表曲でもある。コミックバンドとして知られているのだが、元々はジャズを演奏していたこともあり、音楽性も高く評価されている。日本テレビ系のバラエティー番組「シャボン玉ホリデー」への出演などによって、国民的な人気者になる。

とはいえ、当時はまだ子供すぎたり生まれてすらいなかったりして、それが果たしてどれだけすごかったのかをリアルタイムでは知らない人たちは、所ジョージや三宅裕司などに強い影響をあたえた人たちとして知っていったりもした。元々は「シャクだった」のB面のつもりだったのだが、この曲の方がヒットしてしまったようだ。「シャクだった」はスチャダラパーのデビュー・アルバム「スチャダラ大作戦」(1990年)に収録された「こりゃシャク」にもストレートに影響をあたえている。

「分かっちゃいるけど やめられねぇ」というフレーズがあまりにも有名な歌詞は青島幸男によるもので、時代を超えて多くの人々の共感を呼ぶものだが、1990年には植木等がこの曲を含むメドレー「スーダラ伝説」をリリースし、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録し、「NHK紅白歌合戦」にも23年ぶりの出場を果たした。植木等をはじめ、ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーの多くが亡くなった後もこの曲は聴かれ続け、2020年にはダウンタウンの浜田雅功が出前館のテレビCMで替え歌を歌っていたことも記憶に新しい。

467. 京都の恋/渚ゆう子(1970)

1960年代の日本では空前のエレキブームが巻き起こっていたということを、いろいろな文章や作品や「お笑いスター誕生!!」に出演していたエド山口(モト冬樹の実兄)の漫談などで知るわけだが、特に重要な役割を果たしたのがアメリカのインストゥルメンタル・ロック・バンド、ザ・ベンチャーズやフジテレビ系で放送されていた「勝ち抜きエレキ合戦」という番組で、特に「テケテケテケテケ」というふうに聴こえるギターの奏法は当時の若者たちがこぞって真似をした、などといわれる。

ザ・ベンチャーズの音楽はアメリカなどでもヒットしていたのだが、日本での人気は特に絶大で根強く、2022年にも来日60周年を記念するジャパン・ツアーが行われたりしている。その影響は当時の歌謡界にも及び、ベンチャーズ歌謡などと呼ばれるジャンルが存在するほどである。その代表的なものの1つが渚ゆう子「京都の恋」であり、オリコン週間シングルランキングでは1位に輝いている。より情緒的な次のシングル「京都慕情」もベンチャーズ歌謡で、これもまたオリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録している。

466. ペガサスの朝/五十嵐浩晃(1980)

北海道美唄市のシンガー・ソングライター、五十嵐浩晃の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高3位、「ザ・ベストテン」で最高5位のヒットを記録した。ニューミュージック的なシティ感覚がありながらも、素朴で大らかな感じがとても良かった。

この翌年にリリースされた大滝詠一のアルバム「A LONG VACATION」には、「FUN×4」で月に吠える男として参加していた。北海道ではラジオ番組のパーソナリティーやテレビ番組のMCとしても、わりと知られていたようである。

465. わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ(1973)

麻丘めぐみの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位に輝き、日本レコード大賞では大衆賞を受賞した曲である。

1970年代のアイドルブームを代表する1人で、伝説のミニコミ誌「よい子の歌謡曲」が1983年に出した単行本の「SINGLE 100」にもこの曲を含む4曲が選ばれていた。清楚なルックスとイメージが特徴的であり、典型的な清純派アイドルという感じなのだが、それでいて楽曲やボーカル、振り付けも含めてすべてがとても良い。

「左きき」というもしかするとコンプレックスにもなりかねない属性を、なんだかとても魅力的に感じさせた楽曲でもある。あとは「ブラックコーヒー」のカッコいいものとしての地位を向上させたような気もする。作曲は筒美京平である。

464. ラストショー/浜田省吾(1981)

浜田省吾はロックバンド、愛奴のメンバーとしてデビューした後、ソロ・アーティストとなり、1979年には日清カップヌードルのCMソングにもなった「風を感じて」がオリコン週間シングルランキングで最高25位のスマッシュヒットを記録する。とはいえ、本来のロック志向とは異なる、よりAOR的な音楽をレーベルからは求められ、そのジレンマにフラストレーションを抱えていたともいう。

しかし、1980年代に入るとよりロック的な音楽性にシフトしていき、1982年の日本武道館公演の成功によって大きく注目されるようになった。アルバム「愛の世代の前に」はその少し前にリリースされ、この曲はその先行シングルである。オリコン週間シングルランキングでの最高位は94位だったが、「風を感じて」以来のランクインとなった。

ハンバーガースタンドで待ち合わせ、カーラジオからボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」が流れたりする歌詞はアメリカへの憧れや過ぎ去った青春の日々へのノスタルジーを感じさせ、マイルドにシティ・ポップ的なテイストもまだ残るサウンドも含め、ドラマティックでとても良い。

463. ラブ・ステップ/越美晴(1978)

1970年代後半はニューミュージック全盛であり、従来のアイドルポップスがなんだか時代遅れにも感じられがちであった。ましてや歌謡ポップス界では大御所のビッグスターたちが健在であり、新人アイドルたちにとってはなかなかブレイクすることが難しい状況だったような気がする。

それで、ニューミュージック的な音楽をやっているアーティストなのだが、新人アイドルのような売り出し方もされがちな人たちもいて、テレビの歌番組や雑誌のグラビアなどで見かけることもあった。

越美晴もデビュー・シングルであるこの曲をピアノを弾きながらテレビ番組でよく歌っていたような記憶があり、その奔放気味なパフォーマンスと「そうよそうよ恋なんて 回る回る回転木馬 ひとときだけ楽しければそれでいい」というようなフレーズが印象的すぎて、旭川の長崎屋に入っていたレコード店でシングル盤を買った記憶がある。オリコン週間シングルランキングでは最高33位とそこそこ売れてはいたのだが、「ザ・ベストテン」にランクインするほどの大ヒット曲ではなく、当時の小学生としては自分自身の趣味や嗜好で選んで買ったレコードという印象がひじょうに強かった。

ニューミュージック的な作品をいくつか発表した後、1980年にはよりニュー・ウェイヴ的な音楽性にシフトしていき、後にコシミハルに改名したり、細野晴臣とのユニット、Swing Slowを結成したりすることになる。

462. みずいろの雨/八神純子(1978)

「ヤマハポピュラーソングコンテスト」は「ポプコン」の愛称でも親しまれ、人気アーティストの登竜門的なイメージもあった。ニューミュージック全盛の1970年代後半にもかなり注目されていた印象があるのだが、八神純子もまた、この「ポプコン」での入賞がきっかけで世に出たアーティストのうちの1人である。

とはいえ、デビューしてすぐに売れまくったわけではなく、一時期は引退も考えたりしていたところ、5枚目のシングルとしてリリースされたこの曲がオリコン週間シングルランキングや「ザ・ベストテン」で最高2位のヒットを記録した。ハイトーンのボーカルがひじょうに印象的であり、ライトな音楽リスナーにも強い印象をあたえた。

461. 長い夜/松山千春(1981)

北海道足寄郡足寄町出身の松山千春はSTVラジオのディレクター、竹田健二に見いだされ、1977年にシングル「旅立ち」でデビューするのだが、北海道内ではわりと早いうちから人気があったような記憶がある。個人的には当時、小学校の修学旅行で班ごとに歌う曲を決めるのだが、その際に松山千春の「旅立ち」「初恋」などがすでに候補に挙がっていた。オリコン週間シングルランキングにはランクインすらしていない「かざぐるま」やそのB面の「銀の雨」なども、当時ラジオでよくかかっていたような気がする。わりと高めの声で女言葉の歌詞なども歌っているのが特徴であり、パーソナリティーを務めていたSTVラジオの「アタックヤング」も中高生などに人気であった。

その後、全国的にも少しずつ知名度を上げていき、1978年にはシングル「季節の中で」がオリコン週間シングルランキングと「ザ・ベストテン」で1位に輝く。テレビ出演は拒否していたのだが、一度だけ「ザ・ベストテン」にライブ会場の旭川市民文化会館から出演し、なぜテレビに出たくないかということを語りすぎたために、生放送で後で歌う予定になっていた山口百恵の時間がなくなるということがあった。

次のシングル以降もヒットはし続けるもののテレビには出演していなかったのだが、軽快なロック調のこの曲がヒットした時には、やはりライブ会場からではあったが「ザ・ベストテン」に出演した。以前のギター弾き語り的なイメージとは打って変わって、アイドル並みの声援を浴びながらステージを歌い踊るその姿は、まさにスーパースターという感じであった。