邦楽ポップ・ソングス・オール・タイム・ベスト500:400-391
400. 硝子の少年/Kinki Kids(1997)
Kinki Kidsのデビュー・シングルでオリコン週間シングルランキングで3週連続1位、年間シングルランキングでは安室奈美恵「CAN YOU CELEBLATE?」に次ぐ2位を記録した。作詞者の松本隆と作曲者の山下達郎にはオリコン週間シングルランキングで初登場1位とミリオンセールスという必達目標のようなものが課されていたということなのだが、いずれもクリアーすることができた。しかも、同時にシングル曲が一切、収録されていない「A album」もリリースされ、やはり1位に輝いていた。
ジャニーズ事務所のアイドルによるデビュー・シングルとしてはあまりにも暗くてマイナーすぎるのではないかという意見もあったようだが、結果的に大きな支持を得て、その後も聴かれ続けることになった。当時、社会問題化していた援助交際的なムードに対するアンチテーゼをも含んでいる。
399. 恋の極楽特急/小島麻由美(1995)
小島麻由美のデビュー・アルバム「セシルのブルース」に収録された曲で、後にシングルカットもされている。オールディーズ、ジャズ、昭和歌謡などの要素を取り入れた、懐かしいけど新しい、オーセンティックなようでいてサブカルチャー的でもあるような感じがわりと受けていた。
「心がここにない私にね 何言ってもムダだよ」というフレーズには、フリッパーズ・ギター「ラテンでレッツ・ラブ または1990サマービューティー計画」の「青と赤のシャツ着て駈け出す僕らには何を言ったってムダさ」を連想させられたりもする。
398. 哀愁でいと/田原俊彦(1980)
田原俊彦のデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。中学校で同じクラスだった男子たちには、歌がそれほど上手くもないのに女の子にキャーキャー言われているのが気に入らない的な感想を持たれていたようだが、個人的には「ザ・ベストテン」に初登場した時のポップ感覚にまずは感激し、それからは基本的にかなり好きであった。
レイフ・ギャレット「ニューヨーク・シティ・ナイト」を日本語カバーした楽曲であり、当時、原宿の竹下公園で踊っていた竹の子族のラジカセからも、ブロンディ「コール・ミー」、イエロー・マジック・オーケストラ「ライディーン」などと同様に流れることもあったといわれる。レイフ・ギャレットは「ダンスに夢中」がオリコン週間シングルランキングで最高12位のヒットを記録するなど、日本でもわりと人気があった。
1979年の秋から武田鉄矢が主演する学園テレビドラマ「3年B組金八先生」が放送を開始し、生徒役で出演していた田原俊彦、野村義男、近藤真彦が人気となる。個人的に当時通っていた中学校のクラスでもかなり話題にはなっていて、見ている同級生も多かったのだが、フジテレビ系で放送されていたTBSテレビ系「ザ・ベストテン」の完全な二番煎じですぐに終わった「ビッグベストテン」の方を見ていた。それで、テレビドラマで人気の若手俳優がレコードデビューする、ぐらいの認識しかなかった。
1970年代後半はニューミュージック全盛な上に、歌謡ポップス界の大御所も沢田研二や西城秀樹などをはじめ人気があったため、新人アイドルがブレイクするのはなかなか難しかった。そのような状況にもかかわらず田原俊彦「哀愁でいと」はいきなり「ザ・ベストテン」に初登場してきた。「3年B組金八先生」を見ていなかったので、個人的にはそれがはじめての田原俊彦であった。そのなんともいえない軽さがかなり衝撃的であり、新時代の到来を予感させた。沢田研二「TOKIO」、イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」、山下達郎「RIDE ON TIME」、松田聖子「青い珊瑚礁」などと共に、1980年代のはじまりを告げる超重要曲の1つだといえる。
397. ダンシング・オールナイト/もんた&ブラザーズ(1980)
1980年のオリコン年間アルバムランキングで1位は松山千春「起承転結」、2位がイエロー・マジック・オーケストラ「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」だったのだが、オリコン年間シングルランキングでは、久保田早紀「異邦人」、クリスタル・キング「大都会」、シャネルズ「ランナウェイ」、長渕剛「順子」などを抑え、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」が1位であった(田原俊彦「哀愁でいと」が10位、松田聖子は「風は秋色/Eighteen」が14位で「青い珊瑚礁」が15位、山下達郎「RIDE ON TIME」が25位で竹内まりや「不思議なピーチパイ」が30位、イエロー・マジック・オーケストラ「テクノポリス」は47位であった)。
もんたよしのりはソロ・アーティストとしてデビューするもののあまりうまくいかず、再起をかけてもんた&ブラザーズとしてリリースした最初のシングルがこの「ダンシング・オールナイト」で、有線放送からじわじわと火がついて大ヒットとなった。ハスキーボイスと独特のアクションが特徴的であり、当時、大人気だったザ・ぼんちの漫才でも、ぼんちおさむが何を歌ってもすべて橋幸夫の歌い方になってしまうというくだりでもよく歌われていた。
396. 翼の折れたエンジェル/中村あゆみ(1985)
中村あゆみの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位、「ザ・ベストテン」で最高5位のヒットを記録した。ハスキーボイスで歌われる「もし俺がヒーローだったら 悲しみを近づけやしないのに」というフレーズがひじょうに印象的であり、日清カップヌードルのCMで耳にして知った人たちも多かったのではないかと思われる。
作詞・作曲・編曲の高橋研は元々、シンガー・ソングライターとして活動していて、個人的には旭川のレコード店のご自由にお持ちくださいと書かれた箱に入っていたポスターを適当に持ち帰って、誰だかよく分かっていない状態で部屋にしばらく貼っていた記憶がある。「M-1グランプリ2017」でトップバッターを飾ったお笑いコンビ、ゆにばーすのネタで、やはりハスキーボイスのはらがシャワーで髪を洗うくだりでこの曲をわりと長めに歌うくだりは当時のお笑いファンの記憶に深く刻まれたはずである。
395. 調子悪くてあたりまえ/ビブラストーン(1991)
近田春夫は1970年代後半に「オールナイトニッポン」の2部を担当していて、個人的にはそれで初めて存在を知った。歌謡曲のレコードを次から次へとかけていって、好き勝手なことを言いまくるというスタイルである。その後、近田春夫&ビブラトーンズからヒップホップのPresident BPMを経て(イージーリスニング・ユニットのゲートボールというのもあったはずである)、人力ヒップホップバンドとでもいうべきビブラストーンを結成、1989年にはライブ・アルバム「Vibra is Back」をリリースした。バブル景気の真っ只中で、一億総中流的な認識がまかり通ってもいた当時において、「侘しさからの逃避は君の住んでる部屋じゃ無理だ」という真実を歌った「WABI-SABI」など、名曲揃いである。
そして、その翌々年の夏、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」よりも1週間早く発売されたのが初のスタジオアルバム「ENTROPY PRODUCTIONS」で、これもまた切れ味鋭くて最高であった。「パブリック・エネミー」「MIKKY-D」といった社会批評を含む楽曲にも日本語のポップ・ソングでここまでできるのかという驚きがあったが、この「調子悪くてあたりまえ」の汎用性は時代が進んでいくほどに、より深い意味を持って響くようになってきた。
394. ヴァケーション/弘田三枝子(1962)
弘田三枝子は1969年に「人形の家」がオリコン週間シングルランキングで1位に輝いて、それが代表曲とされがちではあるが、これは当時はカムバックという印象があり、元々はパンチのあるボーカルで洋楽ポップスをカバーしたりして、「ダイナマイト娘」と呼ばれていたらしい。
サザンオールスターズが1983年にリリースしたアルバム「綺麗」に「MICO」という曲が収録されていて、この曲は弘田三枝子に捧げられている(後に弘田三枝子は桑田佳祐に対するアンサーソングとして「O-KAY」をリリースする)。あの桑田佳祐に「お前がいなけりゃ俺 今さら歌などない」とまで歌わせるのだからかなりすごい人に違いない、と感じさせられた。「人形の家に住まう前は Japanese Diana Ross」「綺麗になってSoulを捨てて たしなみばかりが歌じゃない」などとも歌われていた。
それで、弘田三枝子のベスト・アルバムを聴いてみたところ、納得の素晴らしいボーカルパフォーマンスであった。コニー・フランシスのヒット曲として知られる「ヴァケーション」はオールディーズの名曲であり、「V-A-C-A-T-I-O-N」と単語のスペルも覚えられるのでとても良い。夏休みのイメージが強い楽曲だが、弘田三枝子のバージョンはシングル「リトル・ミス・ロンリー」のB面として他の歌手たちとの競作で1962年の秋にリリースされたらしく、「冬は楽しいスキーに行きましょう」などとも歌われている。
393. また逢う日まで/尾崎紀世彦(1971)
近田春夫のアルバムを原作として手塚眞が監督をした1985年公開の映画「星くず兄弟の伝説」に、尾崎紀世彦は「本物のスター」、アトミック南の役で出演し、その圧倒的な歌唱力を披露していた。その後、近田春夫がラッパー、Prdsident BPM名義でリリースした12インチ・シングル「Hoo! Ei! Ho!」は風俗営業等の既成及び業務の適正化等に関する法律、つまり風営法をテーマにしていたが、尾崎紀世彦の大ヒット曲「また逢う日まで」が引用されてもいた。President BPMの最初の12インチ・シングル「MASS COMMUNICATION BREAKDOWN」で平山美紀「真夏の出来事」のイントロのメロディーが引用されていたのに続く、1971年の筒美京平リスペクトである。
それはそうとして、この曲がヒットした頃には個人的には小学校低学年だったはずであるにもかかわらず、モミアゲが特徴的なシンガーがテレビで熱く歌っていたことは記憶に残っていた。お笑いコンビ、ジャルジャルの男子高校生がアルバイトで稼いだお金でカラオケボックスに1人で来て、自分が好きな曲を歌いまくろうとするのだが、歌い方が40代だからという理由で店員に止められるコントでもこの曲が歌われそうになっていた。
392. 東京キッド/美空ひばり(1950)
当時まだ13歳で、天才的な少女歌手として知られていた美空ひばりの主演映画「東京キッド」のテーマソングである。1950年のリリースということなので、個人的に当時をリアルタイムでは体験していないが、おそらく戦後のムードがまだわりと残っていたのではないかと思われる。
やはり歌唱力が圧倒的なのだが、チューインガム、フランス香水、スイングジャズといった、舶来のワードがちりばめられているのが特徴的である。それにしても、「空を見たけりゃビルの屋根」というのは分かるのだが、「もぐりたくなりゃマンホール」については、そういうものだったのか、と想像することしかできない。「いきでおしゃれで ほがらかで」という歌詞のフレーズを体現したかのような素晴らしい楽曲である。
391. 大都会/クリスタル・キング(1979)
80年代の到来と共に、日本の首都「東京」を「スーパーシティー」と表現したのが糸井重里と沢田研二のタッグで、「テクノポリス」としたのがYMOことイエロー・マジック・オーケストラであった。しかし、最もヒットしていた「東京」の歌といえば、「裏切りの街」と歌ったクリスタル・キング「大都会」なのではないかと、思いがちである。実際には長崎で結成されたクリスタル・キングにとっての、博多のことを歌った曲らしい。
とはいえ、当時、テレビで歌われる際には「東京」をイメージする演出もされがちであり、これは「東京」のことを歌った曲なのではないかと思っている人たちが多いような気もするし、実際にそのように聴くこともできる。2018年にアイドルのDJを目当てに恵比寿のBATICAというお店に行くと、小西康陽もDJとして出演していて、この曲をBATICAでかけるのが夢だった、などと言ってクリスタル・キング「大都会」をかけていたような気がする。
個人的には中学生の頃に校内の演芸大会的なイベントがあり、同じクラスのお調子者3人と一緒に、当時、流行していた人間カラオケ(歌だけではなく演奏のパートもすべて口でやるというもの)で「大都会」を歌ったことが思い出される。大いに受けていたのだが、優勝はテレビ時代劇「水戸黄門」の主題歌「ああ人生に涙あり」(「人生 楽ありゃ苦もあるさ」の歌いだしで知られるあの曲の、これが正式タイトルである)をアカペラで歌った上級生にさらわれ、惜しくも準優勝に終わった。日曜日にもかかわらず、音楽室を解放してくれたのみならず、練習につき合ってくれたY先生にはこの場を借りて感謝をしておきたい。