邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1980, Part.3

順子/長渕剛(1980)

長渕剛の5作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングで5位、「ザ・ベストテン」では最高2位を記録した。

1979年のアルバム「逆流」の収録曲としてまずはリリースされたのだが、有線放送のチャートで上位にランクインするなど人気に火がつき、アルバムのリリースから半年後にしてシングルカットされた。

自分を振った女性に対しての未練を歌った失恋ソングであり、そこが共感を呼んで人気が出たところもあるのだが、長渕剛は当初この曲のイメージが付いてしまうことを嫌い、シングルカットを拒んでいたという。

そして、やはり自身初の大ヒットとなったこの曲によって付いたイメージに、長渕剛はしばらく悩まされることにもなったようである。

いまのキミはピカピカに光って/斉藤哲夫(1980)

斉藤哲夫の10枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高9位を記録した。

宮崎美子が出演したカメラのCMソングとしてヒットしたのだが、元々はレコードとしてリリースする予定もなく、CMで流すための数十秒間だけの楽曲だったようだ。

当時、熊本大学の学生だった宮崎美子が木陰でジーンズを脱ぎ、水着姿になるCMは社会現象的ともいえるブームを巻き起こした。

作詞は糸井重里、作曲・編曲は鈴木慶一である。

Yes-No/オフコース(1980)

オフコースの19作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高8位を記録した。

当時のイメージからフォーク/ニューミュージック的な印象が強いオフコースだが実は洋楽的な音楽性をも持ち合わせたバンドであり、この曲などは特にシティポップ/和製AOR的だったりもする。

また、当時の小田和正といえば女性ファンからのアイドル的ともいえる人気も高く、楽曲の最も盛り上がるところで「君を抱いていいの 好きになってもいいの」などと歌っているところもとても良い。

ライディーン/イエロー・マジック・オーケストラ(1980)

イエロー・マジック・オーケストラのアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」からシングルカットされ、オリコン週間シングルランキングで最高15位を記録した。

アルバムの発売が1979年の秋でシングルカットされたのが1980年6月21日、この間に社会現象的ともいえるテクノブームが巻き起こっていて、YMOことイエロー・マジック・オーケストラはその中心的存在であった。

特に6月2日に放送されたフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」にイエロー・マジック・オーケストラが出演し、「テクノポリス」「ライディーン」を披露した回はテクノブームの大衆化に拍車をかけたように思える。

当時の中学生ぐらいの人たちが「ライディーン」というタイトルを聞いてまず思い出すのが小学生の頃に放送されていたロボットアニメ「勇者ライディーン」だったのだが、シングルのジャケットにもそれを想起させるようなイラストが描かれていた。

実際のところこの曲のモチーフとなったのは江戸時代の力士、雷電だったということなのだが、この頃に「勇者ライディーン」がアメリカでも人気があるらしいという話もあって「ライディーン」になったようである。とはいえ、その「勇者ライディーン」も元々は力士の雷電に由来しているということである。

あなただけI LOVE YOU/須藤薫(1980)

須藤薫のアルバム「Chef’s Special」収録曲で、後にシングルカットもされた。

作詞・作曲・編曲は大瀧詠一で、後に「君は天然色」「A LONG VACATION」が誕生するきっかけになったことでも知られる楽曲である。

テレビの音楽番組用に「夢で逢えたら」のようなタイプの曲をというオファーに応えてつくった「愛は行方不明」という楽曲が結局は不採用となるのだが、それに当時の須藤薫のディレクターが目をつけ、いろいろ変更も加え「あなただけI LOVE YOU」として生まれ変わった。

当時、特にヒットしたわけではないのだがそのクオリティーに満足したディレクターが大瀧詠一に第2弾をオファーする。しかしどうもこの曲は男性シンガー向きなのではないかということで不採用となり、それが後に「君は天然色」となっていったとのこと。

「A LONG VACATION」がヒットしてからシングルカットされたのだが、実はこの曲の方が世に出たのは早かった。アメリカンオールディーズ的な感覚は当時の日本ではトレンドでもあったのだが、このシングルのジャケットアートワークはそんな気分を思い出させてくれるところもありとても良い。

福の種/チャクラ(1980)

チャクラのデビューシングルで、特に大きくヒットしたわけではないのだが、当時のテクノ/ニューウェイブブームを象徴する楽曲の1つとして、リアルタイマーの人たちにはカジュアルに記憶されているような気がする。

というのも、テレビにわりとよく出ていた記憶があるし、無国籍風のサウンドに小川美潮が歌う「福の種をまこう 幸せの種を」というフレーズがユニークでありながらキャッチーで、とても強い印象を残したからである。

哀愁でいと/田原俊彦(1980)

田原俊彦のデビューシングルでオリコン週間シングルランキングで最高2位、年間シングルランキングで10位、「ザ・ベストテン」では1位を記録した。

1979年秋から放送が開始され、大ヒットしたテレビドラマ「3年B組金八先生」に生徒役で出演していた人たちの中でも特に人気があった田原俊彦、近藤真彦、野村義男はたのきんトリオと呼ばれ、順番にレコードデビューも果たすことになるのだが、その第1弾がこのシングルであった。

レイフ・ギャレット「ニューヨーク・シティ・ナイト」の日本語カバーである。レイフ・ギャレットは日本でもシングル「ダンスに夢中」がヒットしたり、ナビスコアイダホポテトスティックのテレビCMに出演したりとアイドル的な人気があった。

「ザ・ベストテン」に赤い衣装で初登場した時には鮮烈な印象を残し、ライトでポップな新時代の到来を強く認識させた。ニューミュージック全盛で歌謡ポップス界の大御所たちも人気絶頂だった70年代後半はフレッシュアイドルにとってブレイクすることがなかなか難しい時代だったのだが、80年代に入った途端に田原俊彦と松田聖子が新人アイドル歌手としてレコードデビューして、ヒットチャートの上位にランクインするようになる。こ

れをきっかけに80年代はアイドルの時代にもなるのだが、そのはじまりには同時にテクノポップ、シティポップ、若者文化としての漫才(というかMANZAI)などが大衆的なブームとなっていき、ライトでポップな感覚が急速にトレンド化していったような印象もある。

青い珊瑚礁/松田聖子(1980)

松田聖子の2作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では初のランクイン曲にして1位に輝いた。初期の代表曲であり、トップアイドルとしての地位を確立した楽曲という印象が強い。

山口百恵がこの年の秋に引退することが決まっていたことも含め、新しいアイドルが求められていたようなところはおそらくあったのだが、いわゆるポスト百恵候補といえば、山口百恵の少し影があるような感じをもトレースしている場合が多かったような気がする。

そこへいくと松田聖子はポップでキャッチーすぎて、影の部分が希薄すぎるようにも感じられた。しかし、そこがライトでポップな感覚を求める時代のニーズともマッチしていたのかもしれない。

パープルタウン/八神純子(1980)

八神純子の9作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高2位、「ザ・ベストテン」では1位に輝いた。

この年の4月から54日間、ホームステイしていたアメリカ、特にニューヨークのイメージを楽曲化したもので、日本航空のCMソングにも起用された。

当時の日本におけるアメリカ信奉的な気分をポップミュージック化したかのような、カジュアルでトレンディーなのだが聴きごたえもわりとあるような感じがとても良い。

SHADOW CITY/寺尾聰(1980)

寺尾聰の4作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高3位、「ザ・ベストテン」では最高4位を記録した。とはいえ、ヒットしたのはこの翌年、次々作シングル「ルビーの指環」が大ヒットしてからである。その間にリリースされた「出航 SASURAI」と3曲同時ランクインというようなこともあったような気がする。

とはいえ、それ以前からこの曲を深夜のラジオで聴く機会はあり、「トゥットゥッルトゥーン、トゥットゥットゥトゥールーン」などと歌われるところがやたらと長く、なかなか歌詞が出てこないなという印象はあった。

都会の大人の哀愁とでもいうようなものを醸し出すボーカルと、シティポップ的なサウンドとの組み合わせがとても良い。