邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1980, Part.1
TOKIO/沢田研二(1980)
沢田研二の29作目のシングルでオリコン週間シングルランキングで最高8位、「ザ・ベストテン」では最高2位を記録した。
電飾がついた派手な衣装でパラシュートを背負って歌うビジュアル的なイメージと共に、日本の首都である東京をスーパーシティー「TOKIO」として歌った歌詞にも大きなインパクトがあった。
作詞はコピーライターとして注目をあつめていた糸井重里である。
1980年1月1日発売ということで80年代の幕開けを告げるのに相応しいポップソングだということができるのだが、実はアルバム収録曲としては1979年のうちにすでにリリースされていた。
衣装は翌年から放送がはじまるフジテレビ系のバラエティー番組「オレたちひょうきん族」でビートたけしが扮したタケちゃんマンに引用され、1990年にはカブキロックスに「お江戸-O・EDO」としてカバーされ、オリコン週間シングルランキングで最高12位を記録した。
沢田研二のバックバンドとして長年活動してきた井上堯之バンドは、この曲の路線に違和感を感じたことを原因にやがて解散することになった。
雨あがりの夜空に/RCサクセション(1980)
RCサクセションの9作目のシングルで日本のロックを代表する名曲の1つとされがちだが、当時のオリコン週間シングルランキングにはランクインしていない。
1968年に結成され70年代にはフォークソング的な「ぼくの好きな先生」のヒットもあったが、マネージャーの独立騒動に巻き込まれたことが原因で干されていた時期などを経てメンバーチェンジもあり、音楽的にもよりロック的になっていった。
忌野清志郎の化粧と派手な衣装、ステージアクションなどが話題となり、ライブでの動員が増えるのと共にサブカルチャー的なポップアイコンとしても知られていくようになるのだが、そのきっかけをつくった楽曲でもある。
忌野清志郎の愛車が雨で故障してしまったという実話がベースになっているということだが、「こんな夜におまえに乗れないなんて こんな夜に発車できないなんて」と、性愛とのダブルミーニングにもなっている歌詞も大いに受けて、ライブでは定番曲となっていた。
シングルバージョンはアレンジが整理されすぎているとして、ライブアルバム「RHAPSODY」に収録されたバージョンの方がファンからは好まれがちな傾向がある。
COPY/プラスチックス(1980)
プラスチックスのデビューアルバム「ウェルカム・プラスチックス」収録曲だが、イギリスではラフ・トレード・レコードから1979年にシングルとしてリリースされていた。
ピコピコサウンドと形容されたりもしたテクノポップ的なサウンドと英語と日本語が入り混じった歌詞が特徴であり、メンバー全員がファッションやマスコミ業界などで本職を持ちながらやっているバンドというような軽快なイメージも当時の気分に会っていたような気がする。
P-MODEL、ヒカシューと共にテクノ御三家と呼ばれたりもしていたが、これらのバンドがすべて出演したNHK総合テレビの青少年向け情報番組「600こちら情報部」の「’80春 テクノ・ポップって何?」の回は伝説となっている。
個人的には中学生の頃に初めて夢中になったバンドであり、レコードを買って歌詞を暗記したりするのみならず、文房具や教室の机をはじめあらゆるところにプラスチックスのロゴを落書きしたりもしていたことが懐かしく思い出される。
不思議なピーチパイ/竹内まりや(1980)
竹内まりやの4作目のシングルで、オリコン週間シングルランキング、「ザ・ベストテン」共に最高3位のヒットを記録した。作詞は安井かずみ、作曲は加藤和彦である。
資生堂化粧品のCMソングとしてテレビからお茶の間に流れまくっていたことがヒットの要因となったが、広告が本格的にヒットチャートにも影響を及ぼし、コピーライターという職業も注目されはじめた。
ランナウェイ/シャネルズ(1980)
シャネルズのデビューシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングでは4位の大ヒットを記録した。
ドゥーワップを取り入れた日本語ポップスというのがとても新鮮で大いに受けたのだが、ボーカルメンバー4名が顔を黒く塗っていることも話題となった。
もちろんブラックミュージックに対するリスペクトから行っていたことであり、これが人種差別にあたる行為だという認識を当時の日本人のほとんどは持ち合わせていなかったと思われる。
ノット・サティスファイド/アナーキー(1980)
アナーキーのデビューシングルで、アルバム「アナーキー」にも収録されていた。漢字表記では「亜無亜危異」となる。
バンド名をセックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・UK」から取っているように、音楽的にはパンクロックで、国鉄の作業服のようなものを着ているのも特徴であった。
若者の不満をぶちまけるタイプの楽曲であり、当時はビジュアル的なインパクトや目新しさで注目されていたが、ポップミュージックとしてもひじょうに優れていたということができる。
私はピアノ/サザンオールスターズ(1980)
サザンオールスターズの3作目のアルバム「タイニイ・バブルス」収録曲で、原由子がリードボーカルをとっていることが話題となった。高田みづえによるカバーバージョンがヒットしている。
デビューからヒット曲が続き多忙をきわめていたサザンオールスターズは1980年から音楽制作に集中するために、意図的にテレビなどへの露出を控えていくのだが、それによってシングルのセールスは減少していった。
一方でアルバムは売れ続けていて、音楽性が純粋に評価されるようになっていた。特に高田みづえのカバーバージョンがヒットしたことにより、桑田佳祐のソングライターとしての才能もより注目されるようになった。
DOWN TOWN/EPO(1980)
EPOのデビューシングルで、後にフジテレビ系のバラエティー番組「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマとしても知られるようになる。それ以前からラジオでよく耳にした記憶はあるのだが、オリコン週間シングルランキングにはランクインしていない。
シュガー・ベイブをオリジナルとするカバーバージョンだが、こちらはより80年代的なキラキラ感のようなものが感じられもする。
アンジェリーナ/佐野元春(1980)
佐野元春のデビューシングルにして初期の代表曲だが、オリコン週間シングルランキングにはランクインしていない。
「シャンデリアの街で眠れずに トランジスターラジオでブガルー」といったまったく新しい感覚の日本語の歌詞が次から次へと飛び出してきて、メロディーへの乗せ方も当時としては実にユニークである。
かと思えば「今晩誰かの車が来るまで闇にくるまっているだけ」というような駄洒落感覚の身も蓋のなさにもグッときた。
ライブハウスで若者に人気と評判にはなったものの、大きなムーブメントにはまだなりえていなかった。しかし、おそらく日本のポップミュージック史における地殻変動的な何かを起こしていたであろうことには間違いがない。
昴/谷村新司(1980)
谷村新司のソロアーティストとしては2作目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。
映画「天平の甍」のためにつくった壮大な楽曲だが完成が遅れたため間に合わず、ニッカウヰスキーのCMソングとして起用された。