ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」

ブルース・スプリングスティーンの8作目のアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は1984年6月4日にリリースされ、全米アルバム・チャートで1位に輝いたのみならず、収録された12曲中7曲がシングル・カットされ、そのすべてが全米シングル・チャートで10位以内にランクインした。最後にシングル・カットされた「マイ・ホームタウン」は、アルバムが発売されてから実に1年5ヶ月以上後になる1985年11月25日にシングルがリリースされ、全米シングル・チャートで最高6位を記録している。この間、アルバムはずっと売れ続けていたわけだが、発売された翌年にあたる1985年の年間アルバム・チャートで1位に輝いている。とはいえ、全米アルバム・チャートで1位だった期間は計7週と、意外にも短い。これはプリンス「パープル・レイン」が1984年8月から翌年の1月まで約5ヶ月間にわたり、24週連続1位という驚異的な大ヒットを継続していたことなどによるものである。

1973年にアルバム「アズベリー・パークからの挨拶」でレコード・デビューした頃にはボブ・ディラン・フォロワー的な売り出し方をされたようだがセールスは芳しくなく、次のアルバム「青春の叫び」で評価を高めていった。当時のライブを見た音楽評論家、ジョン・ランドーによる「私はロックンロールの未来を見た。その名はブルース・スプリングスティーン」という言葉がひじょうに有名だが、そのジョン・ランドーがプロデュースした次のアルバム「明日なき暴走」がヒットして、さらに注目されるようになっていく。著作権をめぐる裁判などによってレコードが出せない期間を経て、1978年にリリースしたアルバム「闇に吠える街」がまた高評価を得た。1980年の2枚組アルバム「ザ・リバー」は全米アルバム・チャートで初の1位、シングル・カットされた「ハングリー・ハート」もトップ10ヒットを記録した。

1982年にはアルバム「ネブラスカ」をリリースするのだが、これは4トラックのレコーダーで録音されたアコースティックなサウンドとシリアスな内容が特徴的であった。翌年に全米シングル・チャートではデュラン・デュラン、カルチャー・クラブなどの第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢やアルバム「スリラー」とそこからのシングルを次々とヒットさせたマイケル・ジャクソンなどが大活躍し、新しい時代の到来を感じさせた。プリンスが「リトル・レッド・コルヴェット」で初のトップ10入りを果たし、翌年の「パープル・レイン」での大ブレイクに向けて助走をつけた印象もある。そして、ブルース・スプリングスティーンが「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」をリリースする。

その前に、先行シングルの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」である。個人的には当時、高校生で全米シングル・チャートをチェックしていたので、この曲が初登場した頃のこともなんとなく覚えている。中学生で洋楽を主体的に聴きはじめた頃、「ハングリー・ハート」がヒットしていて、ラジオでもよくかかっていた。それから読んでいた片岡義男のエッセイでもブルース・スプリングスティーンのことが取り上げられていて、少し気になった。その後、全米チャートをチェックするようになるのだが、「ネブラスカ」はひじょうに地味なサウンドであるにもかかわらず、アルバム・チャートで最高3位を記録しているのが印象的であった。「ベストヒットUSA」ではMTV時代の派手なミュージック・ビデオがよく流れていたのだが、「ネブラスカ」からイギリスでのみシングル・カットされた「アトランティック・シティ」のビデオはモノクロでひじょうに渋かった記憶がある。

全米シングル・チャートに入っている曲はNHK-FMの「リクエストコーナー」というまったく何のひねりもないタイトルの番組でチェックしていたのだが、「ダンシング・イン・ザ・ダーク」ももちろんかかった。ブルース・スプリングスティーンといえばストレートなロックンロールのイメージが強く、MTV時代のシンセ・ポップやニュー・ウェイヴとは逆行するような印象もあったのだが、この曲についてはシンセサイザーの導入のされ方など、時代のトレンドに寄せている感もある。実際にブルース・スプリングスティーンがレコーディングした80曲ぐらいの中からアルバムに収録する何曲かを選んだ後でシングル向けの曲をつくるようにといわれ、ブチ切れたりもしたようなのだが、それで最後に短時間でつくられたのがこの曲だったという。あらかじめシングル向けにつくられた曲だったということである。

ブルース・スプリングスティーンのちゃんとしたファンからは実はあまり評判がよくないのではないか、などと思ったりもするのだが、全米シングル・チャートでの最高位は2位と、最も高い記録を残している。ちなみに1位を阻んだのは、デュラン・デュラン「ザ・リフレックス」とプリンス「ビートに抱かれて」である。時代のトレンドに寄せたようなサウンドでもありながら、曲の内容は大人の男性の葛藤のようなものであり、いかにもブルース・スプリングらしいともいえる。個人的にはこの曲がひじょうに好きなのだが、やはりブルース・スプリングスティーンの曲としては正当的ではないのだろうな、とは思う。アーサー・ベイカーによるダンス・リミックス的な12インチ・シングルも発売されていたが、これも札幌のタワーレコードで買った。ちなみに「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は旭川のイトーヨーカドーの地下にあった玉光堂で買ったような気がする。

ブルース・スプリングスティーンを聴いていると、なんだか通ぶれるような気もしたことと、当時、大好きだった佐野元春がブルース・スプリングスティーンの影響を受けているなどといわれてもいたのだが、実はレコードを1枚も持っていなく、これは良い機会だと思って、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のレコードは買った。プリンス「パープル・レイン」は当麻町から汽車で通っていた友人が買って、お互いに貸し借りをして聴いていたのだった。その友人の家にはドラムセットやピアノなどがあったため、バンドの練習場所としてよく使われていたのだが、個人的にはバンドのメンバーでもないのに遊びにいっていることがまあまああった。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」を彼に貸すために持っていった日も、別の部屋ではバンドが練習をしていた。それで、その時には練習がなかったデュラン・デュランのコピーバンドでボーカルをやっていた友人と2人だけでステレオがある部屋にいて、「ボーン・イン・ザ・U.S.A,」をかけていた。

おそらく洋楽を主体的に聴きはじめた頃がディスコ、AOR、産業ロック、ニュー・ウェイヴからのシンセ・ポップがメインストリームであり、こういうストレートなロックンロールのようなものはあまりちゃんと聴いていなかったように思える。ローリング・ストーンズの「刺青の男」は大好きだったのだが、あれはあれでまた別ジャンルという感じであった。この頃はザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」などをとても気に入っていたのだが、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のような音楽もやはりカッコいいなと感じた。友人と一緒に、スピーカーから次の曲が流れる度に大いに盛り上がっていた。

1曲目の「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」はアンセミックでとても分かりやすい曲だが、大いに誤解されてもいる。キャップを後ろのポケットに入れたブルージーンズと白いTシャツ、アメリカ国旗が印象的なジャケットでタイトルが「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、ロナルド・レーガン大統領の頃の愛国的なムードに準じた作品だと勘違いされかねないが、ベトナム戦争から帰還した元兵士の不遇をテーマに、プロテスト的な意味をも込めた曲だということは、少しちゃんと聴けば分かる。言語の壁があるので、日本のリスナーがすぐには分からないとしても仕方がないと思いきや、アメリカにおいてもこの曲は愛国的なアメリカ賛歌ではないかと誤解されることが多いようで、選挙活動などで間違えた使われ方をしては指摘されている。この曲そのものは日本でもひじょうによく知られていて、竹中直人がお笑い芸人時代にやっていた、英語の曲を直訳気味の日本語の歌詞で歌うというネタでも、「ア~メリカ生まれさ~」などと歌われていた。

尾崎豊はこの前の年、1983年12月1日にアルバム「十七歳の地図」とシングル「15の夜」でデビューし、若者の代弁者的な存在へと担ぎ上げられていくわけだが、やはりブルース・スプリングスティーン・フォロワーのようなところもあった。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」がリリースされた翌々月、1984年8月4日に日比谷野外音楽堂で行われたライブイベント、アトミックカフェにおいて、照明台から飛び降りて足を骨折した件によって、知名度をかなり上げていたような気もする。

その後、USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加や長時間のライブが評判になるなど、ブルース・スプリングスティーンの人気はどんどん上がっていくようになる。最も優れたアルバムはどれかということになった場合、「明日なき暴走」などが挙げられがちであり、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は最もヒットはしたものの、やや軽すぎるところもあるなどと見なされているように思える。とはいえ、こういったタイプのハートランド・ロックなどとも呼ばれた音楽が、80年代のメインストリームのポップ・ミュージックとしてマイケル・ジャクソン、マドンナ、プリンスなどの音楽と共にあったというのはなかなかすごいことでもあって、それを可能にしたのはこのアルバムでしかなかったのではないか、とも思えるのであった。

このアルバムとプリンス「パープル・レイン」をお互いに貸し借りしていた友人とは、高校を卒業後に東京に出て、シンセ・ポップにユニットをやろうとかインディー・レーベルを立ち上げようとか夢を語り合ったりもしていたのだが、彼は卒業後に自衛隊に入隊した。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は発売から35年以上が経った現在でも時々は聴いてみて、やはりとても良いなと感じたりもするのだが、当麻町の友人の部屋で聴いたあの感覚が、いつも思い出されたりはする。