フリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」

フリッパーズ・ギターの2作目のアルバム「カメラ・トーク」は、1990年6月6日に発売され、オリコン週間アルバムランキングで最高6位を記録した。テレビドラマ「予備校ブギ」の主題歌であり、オリコン週間シングルランキングで最高17位を記録した「恋とマシンガン」も収録していたとはいえ、このアルバムが当時ここまで売れたのはわりと驚異的だったように思える。なぜなら、この「カメラ・トーク」というアルバムに収録されている音楽は、当時の日本のメインストリームのポップ・ミュージックとはかなり異なっていて、どちらかというと輸入盤をメインに扱っているCDショップで買物をしがちな人たちに受けがちな内容だったからである。

当時、フリッパーズ・ギターはネオアコのバンドとして紹介されがちだったのだが、ネオアコとはアズテック・カメラやエヴリシング・バット・ザ・ガールなど、80年代前半のイギリスで人気があったポスト・パンクの一種であり、文字通りネオでアコースティックなのが特徴であった。といっても、ちょっと何をいっているのかよく分からないし、そもそも日本の一部の音楽ファンの間でのみ通用しがちなサブジャンルだともいわれる。アズテック・カメラやエヴリシング・バット・ザ・ガールぐらいならば、「ミュージック・マガジン」を読んでいたタイプの音楽ファンの間でもわりとよく知られていたのだが、たとえばスコットランドのポストカード・レーベルだとか、マイク・オールウェイという人がやっていたエル・レーベルとなると、より一部の人たちの間で愛好されていたような印象がある。

日本で当時そういった音楽を好んで聴いていた人たちがたとえば全員CDを買ったとしたところで、オリコン週間アルバムランキングの6位にはランクインできなかったのではないかと思われる。つまり、フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」を買った人たちの必ずしも全員がそういう人たちだったわけではなく、というか、そういった人たちはむしろ一部に過ぎず、J-POPの一種として買っていた人たちも少なくはなかったと思われる。J-POPという言葉をポピュラーにしたのは、1988年に開局したFM放送局のJ-WAVEだったといわれたりもするが、その定義ははっきりしていなかったものの、たとえば邦楽や日本のロック&ポップスという分類とはどこか違っていたような気がする。

1990年の日本はバブル景気の真っ只中で、テレビでは豊かな若者たちの恋愛を描いたトレンディードラマが流行していた。ポップ・ミュージックにおいては1980年代後半のBOØWYやザ・ブルーハーツの人気の延長線上でもあるバンドブームがひじょうに盛り上がっていて、それに拍車をかけたのが1989年から放送を開始したコンテスト番組「イカ天」こと「三宅裕司のいかすバンド天国」だといわれていた。このバンドブームは主に中高生などの低年齢層によって支えられていた印象があるが、大人もわりとおもしろがってはいたような気がする。「ミュージック・マガジン」を読んでいるようなタイプの大人の音楽ファンにとって、ロックはすでに刺激的な音楽ではなく、ヒップホップやワールド・ミュージックなどが高く評価されがちな一方、ローリング・ストーンズやポール・マッカートニーといったベテラン・アーティストの来日公演にはかなり盛り上がっていた。イギリスではザ・ストーン・ローゼズやハッピー・マンデーズなどを中心とするマッドチェスター・ムーヴメントが盛り上がり、日本でもいわゆるUKロック・ファンは支持していたものの、大人の音楽ファン全般にはそれほど響いていないようでもあった。

日本でもロックはポピュラーな音楽になっていたが、海外のそれとは異なったベクトルというか、あくまで別ものとして発展しているような印象もあった。どちらも聴いている音楽ファンももちろんたくさんいたわけなのだが、意識の上では完全に分けていたように思える。日本のポップ・ミュージックの場合、ほとんどが日本語の歌詞で歌われているので、そこが海外のそれらとは区別しやすかった。そして、フリッパーズ・ギターのデビュー・アルバム「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」は1989年8月25日に発売されていたのだが、歌詞はすべて英語で歌われていた。この時点でメインストリームの日本のポップ・ミュージックとはかなりの差別化が行われていたと思われる。当時、J-POPとしてこのアルバムを聴いていた人はそれほどいないように思われるのだが、一方でJ-POPをあまり好んで聴かず、海外のインディー・ポップを愛好しているようなタイプの人たちが自分たちに近いテイストの音楽として支持をしていたような気がする。

そして、1990年5月5日にリリースされたシングル「恋とマシンガン」において、フリッパーズ・ギターは初めて日本語の歌詞を歌う。しかし、いわゆる普通のJ-POPと比べても、その言語感覚はかなり独特であった。意味がそれほど分かりやすくはないのだが、それでもなんとなく気分は伝わり、これはカッコよくて好きだと感じられる。そして、音楽性は日本のポップ・ミュージックよりも海外のインディー・ポップやニュー・ウェイヴの方により近かったりもする。こういう日本語のポップ・ミュージックは、実はそれまでありそうでなかった。そこがとても新しかったのだが、さらにそこそこ売れてしまったというのが、とにかくすごい。そして、フリッパーズ・ギターの音楽のコアにあるインディー・ポップやその他、マニアックな音楽に興味を持つリスナーも増えていく。

フリッパーズ・ギターはデビュー当初には5人組バンドだったのだが、「カメラ・トーク」の頃には小山田圭吾と小沢健二の2人組になっていた。そのルックスやファッション、雑誌のインタヴューや連載における言動などが生意気でキュートで、ひじょうに魅力的に感じられた。そのバックボーンには経済的な豊かさや育ちの良さのようなものもあったように思えるが、それらを大らかに受け入れ、憧れの対象とするような気分が、当時の日本にはまだ溢れていたような気がする。

「カメラ・トーク」はネオアコのアルバムとして紹介されることも少なくはなかったが、実際にはジャズやボサノバ、サーフ・ロックやハウス・ミュージックなど、様々な要素が入った新感覚の日本語ポップスとなっていて、そこがひじょうに魅力的でもある。文学的な歌詞であったり、青春の葛藤のようなものをスタイリッシュに切り取っているようなところも特徴であり、スタイルとコンテンツが絶妙なバランスを保っている素晴らしい作品だともいうことができる。表面的にひじょうに聴きやすく、晴れた休日の昼間などに窓を開けて聴くのに相応しいポップ・アルバムである一方で、一人の夜にヘッドフォンで聴いてたまらない気分になった記憶なども思い起こされる。

フリッパーズ・ギターとその作品はあまりにも衝撃的だったこともあって、とても独特で根強いファンダムを形成しているのだが、個人的にはそれらとはまったく関係がなく、分かりあえやしないってことぐらいしか分かりあえないような気しかしないのだが、この「カメラ・トーク」というアルバムはただ単純に好きである。フリッパーズ・ギターの最高傑作といえば、「カメラ・トーク」の翌年に発売され、最後のアルバムとなった「ヘッド博士の世界塔」ということになりがちで、それはひじょうに正しくも感じられる。あのすさまじい情報量とすべてを出し切った感というのは、名盤と呼ぶに相応しいものであろう。とはいえ、いきなり「ヘッド博士の世界塔」から聴きはじめるよりは、「カメラ・トーク」があっての「ヘッド博士の世界塔」というように聴きすすめていく方がわりと分かりやすいのではないか、とは感じたりもする。しかし、「カメラ・トーク」を聴いたことがない状態で「ヘッド博士の世界塔」を聴いたことがないので、いきなり「ヘッド博士の世界塔」から聴いてみるのも、それはそれで乙なものなのかもしれない。