邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1969-1970
風/はしだのりひことシューベルツ(1969)
はしだのりひことシューベルツのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位のヒットを記録した。
ザ・フォーククルセダーズのメンバーであったはしだのりひこが解散のタイミングで杉田二郎らと結成したグループである。
作詞は北山修で作曲が端田宣彦、「何かをもとめて振りかえっても そこにはただ風が吹いているだけ」というフレーズが特に当時の気分にフィットしていたのではないか、という気はなんとなくしている。
本牧ブルース/ザ・ゴールデン・カップス(1969)
ザ・ゴールデン・カップスの6枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高49位であった。
刹那的でありながらフィーリングを重要視し、若さゆえのパッションを燃やす若者の気分を肯定したこれぞポップソングとでもいうべき超名曲である。
「それでいいじゃないか 愛しているなら」というわけで、作詞がなかにし礼で作曲は村井邦彦である。
時には母のない子のように/カルメン・マキ(1969)
カルメン・マキのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高2位を記録した。
寺山修司が主宰する劇団、天井桟敷の新人女優であったカルメン・マキはアングラ的なアイドルのような存在だったというのだが、この曲は流行歌のレコードをそれほど買う方ではなかった実家にもシングルがあったので相当に売れていたのではないかと思われる。
どことなく寂しげで懐かしさを感じさせる歌声とメロディー、実際に海に行って録音されたという波の音なども効果的に用いられている。
夜明けのスキャット/由紀さおり(1969)
由紀さおりのシングルで、オリコン週間シングルランキングで8週にわたる1位、年間シングルランキングでも1位となる大ヒットを記録した。
元々は深夜のラジオ番組「夜のバラード」のジングルとして制作され、歌詞のないスキャットのみの曲だったのだが、リスナーから問い合わせが殺到したことから山上路夫の歌詞を付け足してリリースしたところ、大ヒットしたという。
由紀さおりは幼い頃から童謡歌手として活動し、本名で歌謡曲の歌手としても一旦デビューしていたが、その時にはあまりうまくいかず、その後はCM音楽などを主に歌っていて、この曲が由紀さおり名義でのデビュー曲であった。結婚を前に歌手としての活動を辞めようとも考えていた由紀さおりは、この再デビューに消極的だったという。
その後、他にもヒット曲を出したりドリフターズの番組でコメディエンヌとしての才能が開花した後に、姉と童謡のアルバムなどをリリースしたり、2011年にはピンク・マルティーニとのコラボレーション作品が海外でも高く評価されたりもした。
フランシーヌの場合は/新谷のり子(1969)
新谷のり子のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高4位を記録した。
ビアフラ戦争におけるナイジェリアによる封鎖で民間人が餓死したことに抗議して、フランシーヌ・ルコントがパリの路上で焼身自殺をした実話に基づいて歌詞が書かれている。
途中に入るフランス語のナレーションは、フランス人ではなくシャンソン歌手の古賀力によるものである。
個人的にはこの曲のレコードも子供の頃に家にあって、よく聴いていた記憶がある。「三月三十日の日曜日 パリの朝に燃えたいのちひとつ」と具体的な日時が歌われているのが印象的であった。
人形の家/弘田三枝子(1969)
弘田三枝子のシングルでオリコン週間シングルランキングで1位、「第11回日本レコード大賞」では歌唱賞を受賞している。
サザンオールスターズ「MICO」で「人形の家に住まう前は Japanese Diana Ross」と歌われているように、弘田三枝子といえば歌謡曲を大ヒットさせていた頃よりもアメリカンポップスなどをダイナミックに歌っていた頃こそが至高という評価もされがちであり、確かにその通りかもしれないのだが、この曲はこの曲でとても素晴らしい。
作詞がなかにし礼、作曲・編曲が川口真による歌謡曲的な楽曲ではあるのだが、弘田三枝子のボーカルはこういったタイプの楽曲においてもやはり迫力があり、失恋に悲しみをテーマにした内容をよりドラマティックに感じさせてくれる。
夜が明けたら/浅川マキ(1969)
浅川マキのデビューシングルである。この2年前に別のレーベルからデビューしてはいたのだが、活動の方向性について事務所との間に相違があって、その後に寺山修司などに見出され、新宿の蠍座でのライブが話題になっていく。
実に味わいのある歌声や独特な世界観によって、アンダーグラウンドの女王的なカルト的な人気を得るのだが、本人の意向もあって作品が廃盤になったままなかなか再発されなかった。
夜が明けたら一番早い汽車に乗って別の街へ行こうということが歌われるこの楽曲は初期の代表曲でもあり、蠍座でのライブ音源に汽車や飛行機の音なども効果的に用いられている。デビューアルバム「浅川マキの世界」には、スタジオ録音バージョンが収録された。
白い色は恋人の色/ベッツィ&クリス(1969)
アメリカ出身の女性デュオ、ベッツィ&クリスのデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録した。
ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーであった北山修が作詞、加藤和彦が作曲を手がけたフォークソング的な楽曲なのだが、これをアメリカ人女性デュオのベッツィ&クリスが日本語で歌うことによって、美しくも絶妙なポップ感覚が生まれている。
圭子の夢は夜ひらく/藤圭子(1970)
藤圭子の3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで10週連続1位(前作「女のブルース」と合わせ、藤圭子のシングルが18週連続1位であった)、年間シングルランキングでは皆川おさむ「黒ネコのタンゴ」、ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」に次ぐ3位、つまり大人には最もよく売れたレコードだったと思われる。この年からはじまった「日本歌謡大賞」の初代受賞曲でもある。
作曲家の曽根幸明が当時、練馬少年鑑別所で歌われていた俗曲を元に作詞作曲して、藤原伸の名義で歌った「ひとりぼっちの唄」が原曲である。その後、タイトルと歌詞を変えた「夢は夜ひらく」を園まりがヒットさせ、様々な歌手がカバーした(その中には梅宮辰夫などもいる)。
「十五、十六、十七と私の人生暗かった」というフレーズが印象的なこの曲を藤圭子が歌ったのはその数年後であり、これが大ヒットしたのであった。
情念的で演歌的なボーカルと世界観はしかし、大衆的なポップソングとしても広く受容されてもいて、藤圭子は「週刊少年マガジン」の表紙を飾ったりもしていた。宇多田ヒカルを産むのはこの約13年後である。
愛は傷つきやすく/ヒデとロザンナ(1970)
ヒデとロザンナの5枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングでは7位を記録した。
ソロアーティストとしてやボサノヴァデュオ、ヒデとユキなどで活動してきた出門英がイタリア出身のロザンナ・ボンボンと結成したのがヒデとロザンナである。後に結婚して夫婦デュオとなった。
個人的にはこの曲のレコードも家にあったため、子供の頃によく聴いていた。とても素敵な男女デュオ曲である。
京都の恋/渚ゆう子(1970)
渚ゆう子の6枚目のシングルでオリコン週間シングルランキングで8週連続1位、「第11回日本レコード大賞」では企画賞を受賞した。
ザ・べンチャーズのインストゥルメンタル曲に林春生が歌詞を付け、川口真が編曲したものである。
渚ゆう子はハワイアンの歌手としてデビューした後にこの曲が大ヒットして、ブレイクを果たした。
私たちの望むものは/岡林信康(1970)
岡林信康のアルバム「岡林信康アルバム第二集 見る前に跳べ」からのシングルカット曲である。
工事現場で人夫として働いた経験などから日雇い労働者をテーマにした「山谷ブルース」や貧困を取り上げた「チューリップのアップリケ」などが注目され、「フォークの神様」として支持をあつめるが、それにまつわる様々な状況に疲れ果て失踪、数ヶ月間のブランクを経てよりロック色の濃い音楽で復活した。
アルバムでははっぴいえんどがバックバンドを務めたりもしたが、この楽曲には参加していない。
松山千春は高校生の頃に文化祭の前夜祭でこの曲を歌い、その時に感じた一体感が忘れられずに歌手になることを決心したともいわれる。
走れコウタロー/ソルティー・シュガー(1970)
ソルティー・シュガーの2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは発売から約半年をかけて1位に輝いている。
競馬実況的なセリフなども盛り込んだコミックソング的で軽快な楽曲であり、コウタローという競走馬の応援歌のようになっているが、タイトルは中心メンバーの山本コウタローがバンドの練習に遅刻しがちだったことに由来しているという。
バンド名は前身バンドのメンバーであった友人の佐藤敏夫の名前が「砂糖と塩」にも聞こえることから、ソルティー・シュガーになったとのこと。
今日までそして明日から/よしだたくろう(1970)
吉田拓郎(当時はよしだたくろう)のアルバム「よしだたくろう 青春の詩」に収録された楽曲で、翌年にシングルカットもされた。オリコン週間シングルランキングでの最高位は59位であった。
アルバムが発売されてから8ヶ月以上経ってのシングルカットであり、当時それほど大きくはヒットしなかったが、代表曲の1つとして知られるようになる。
人々とかかわり、迷いながら生きていくことについて歌われたこの楽曲は、フォークのわりには批判精神や明確なメッセージ性に欠けているなどと批判されたりもしたようだが、それが当時の若者たちにはむしろリアルに感じられたのであった。
京都慕情/渚ゆう子(1970)
渚ゆう子の7枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高2位を記録した。
大ヒットした「京都の恋」に続いて、ザ・べンチャーズのインストゥルメンタル曲に歌詞を付け、アレンジし直したもので、よりしっとりとした日本的な情緒が感じられる楽曲になっている。
1960年代半ばに日本の若者たちの間でエレキブームを巻き起こしたザ・べンチャーズだが、この頃にはザ・ベンチャーズ歌謡と呼ばれる楽曲の数々を世に送りだしてもいた。