邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1971, Part.1

花嫁/はしだのりひことクライマックス(1971)

はしだのりひことクライマックスの最初のシングルで、オリコン週間シングルランキングで2週連続1位、年間シングルランキングで7位となる大ヒットを記録した。

元ザ・フォーク・クルセダーズのはしだのぶひこが「風」をヒットさせたクライマックスの後に結成したバンドだが、これ以外にもマーガレッツやエンドレスがあったようである。

それでこの曲のリードボーカルは藤沢ミエで、歌詞は北山修によるものである。「花嫁は夜汽車にのって嫁いでゆくの」と、新しい旅立ちにまつわる決意と期待と不安にようなものが爽やかに歌われていてとても良い。

まったくの余談だが、この曲のイントロを聴くと、イギリスのインディーロックバンド、コーナーショップのヒット曲「ブリムフル・オブ・アーシャ」が思い浮かんだりもする。

戦争を知らない子供たち/ジローズ(1971)

ジローズのシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高11位を記録した。

個人的には流行歌というよりは音楽の授業でう歌った曲という印象が強い。当時はベトナム戦争の真っ最中であり、この曲は反戦ソングとしてよく知られている。作詞は北山修で作曲が杉田二郎、全日本アマチュア・フォーク・シンガーズ名義でシングルカットもされたライブバージョンでまずはリリースされていた。

ジローズは杉田二郎によって結成されたバンドで、一旦は解散するが、森下次郎との2人組で再結成後にこの曲をヒットさせた。二郎と次郎でジローズなのだが、森下次郎の本名は悦伸で、ジローズ加入にあたって改名されたのだという。

翼をください/赤い鳥(1971)

フォークグループ、赤い鳥のシングル「竹田の子守唄」のB面に収録された楽曲だが、後に日本のスタンダードソングの1つとして知られるようになる。合唱コンクールなどの課題曲として歌われがちでもある。

教科書に載っていて音楽の授業などで習った曲という印象があまりにも強くオリジナルのレコードをちゃんと聴いたことがないという人たちも少なくはないような気もするのだが、ハーモニーが美しく、ボーカルも演奏もとても良い。

リードボーカリストの山本潤子と山本俊彦、大川茂は赤い鳥を解散した後、ハイ・ファイ・セットを結成する。

よこはま・たそがれ/五木ひろし(1961)

五木ひろしのシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位、年間シングルランキングでは6位の大ヒットを記録した。

1965年に松山まさるとしてデビューし、その後もいくつかの芸名で活動するがヒットせず、オーディション番組「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜き後に五木ひろしとして最初にリリースしたシングルである。

これ以降も数々のヒット曲を連発し、演歌の大御所として知られるようになっていくのだが、横浜のご当地ソングとしても知られるようになるこの楽曲には、印象的なイントロや独特のボーカルパフォーマンス、テレビ歌唱時などにおけるアクションに至るまで、大衆ポップスとしての魅力が感じられる。

また逢う日まで/尾崎紀世彦(1971)

尾崎紀世彦の2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで9週連続1位、年間シングルランキングでは小柳ルミ子「わたしの城下町」、加藤登紀子「知床旅情」に次ぐ3位、「第13回日本レコード大賞」と「第2回日本歌謡大賞」で大賞を獲得した。

山洋電気のエアコンCMソングとして筒美京平が作曲し、槇みちるが歌うが不採用となり、その後、阿久悠の歌詞で「ひとりの悲しみ」としてズー・ニー・ヴーが歌うがヒットしなかった。

これに阿久悠が別れをテーマにした新しい歌詞を付け、元ザ・ワンダースの尾崎紀世彦が歌ったところ大ヒットして、昭和歌謡を代表する名曲の1つとして知られるようになった。

別れは悲しいものではあるのだが、それをパワフルでエモーショナルに歌い、ドラマティックではあるのだが爽やかな感じに仕上がってもいるところがとても良い。

個人的に尾崎紀世彦といえば近田春夫の楽曲を原作と知る1985年の映画「星くず兄弟の伝説」でのアトミック南役の印象がひじょうに強いのだが、その後、近田春夫がPresident BPM名義でリリースしたシングル「Hoo! Ei! Hoo!」では「また逢う日まで」のイントロが引用されていたような気もする。

また、ジャルジャルのコント「高校生なのに歌い方が40代の奴」では高校生役の福徳秀介がこの曲を歌いかけるが、カラオケ店員役の後藤淳平にすぐ消されたりもする。

あの素晴しい愛をもう一度/加藤和彦と北山修(1971)

加藤和彦と北山修によるシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録した。

フォークデュオ、シモンズのデビューシングル用につくられた楽曲なのだが、別の曲に決まったこともあり自分たちで歌うことになったようである。

当時のレコード会社としてはザ・フォーク・クルセダーズを再結成させようという目論見もあったようなのだが、本人たちにそのつもりはまったく無かった。

この曲も音楽の教科書や合唱曲、キャンプなどで歌うための歌本などで取り上げられがちだったような印象がある。上級生がギターを弾きながら歌っていた。

「あの時同じ花を見て美しいと言った二人の 心と心が今はもう通わない」は本当に素晴らしいフレーズだと思う。ちなみにこの曲のタイトルの「素晴しい」に「ら」は入らない。

わたしの城下町/小柳ルミ子(1971)

小柳ルミ子のデビューシングルでオリコン週間シングルランキングでは12週にわたり1位、年間シングルランキングでも1位、「第13回日本レコード大賞」では最優秀新人賞に輝いた。

作詞は安井かずみ、作曲が平尾昌晃である。熱く揺れ動く恋心と日本的な旅情とが絶妙にマッチした素晴らしい楽曲で、特に「好きだともいえずに歩く川のほとり 往きかう人になぜか目をふせながら心は燃えてゆく」というところなどが特に良い。

SATORI PART 2/フラワー・トラベリン・バンド (1971)

フラワー・トラベリン・バンドのアルバム「SATORI」からシングルカットされ、カナダのチャートにランクインした。

内田裕也とザ・フラワーズからメンバーチェンジしたのがフラワー・トラベリン・バンドで、内田裕也はプロデュースを手がけている。

当時の日本におけるメインストリームのポピュラー音楽とはほとんど関係がないヘヴィーで本格的なロックであり、歌詞も英語である。

ロックは日本語で歌うべきか英語で歌うかが音楽雑誌などで議論されたなどともいわれる「日本語ロック論争」はそもそも「論争」と呼べるようなものでもなかったとか、日本語のロックが当たり前となった今日から見ると一体何だったのだというような意見もあるとは思われるのだが、英語だからこそ表現できうるタイプの日本のポピュラー音楽というのもあるのだろうし、フラワー・トラベリン・バンドのこの楽曲や収録アルバムなどは英語ロックでありながら日本的なところもあって、とにかくとてもカッコいい。

ボーカリストのジョー山中は後にソロアーティストとして映画「人間の証明」のテーマソングをヒットさせるのだが、これは西條八十の「帽子」という詩を英訳したものを歌詞にしていた。