ワム!「フリーダム」【Classic Songs】
1984年10月13日付の全英シングル・チャートではスティーヴィー・ワンダー「心の愛」が1位で、それを2位のカルチャー・クラブ「戦争のうた」が追っていたのだが、3位にはワム!「フリーダム」が初登場していた。それ以下にはレイ・パーカー・ジュニア「ゴーストバスターズ」、カーズ「ドライヴ」、ポール・マッカートニー「ひとりぼっちのロンリー・ナイト」、ブロンスキ・ビート「ホワイ?」、U2「プライド」、ジョルジオ・モロダー・ウィズ・フィリップ・オーキー「やさしく夢みて」、プリンス&ザ・レヴォリューション「パープル・レイン」などがランクインしていて、当時の中高生などにとっては、この頃こそが自分たちにとってのポップス黄金時代だとも感じられるのではないだろうか。
ワム!「フリーダム」はこの翌週には全英シングル・チャートで1位に輝き、これで「ウキウキ・ウェイウク・ミー・アップ」、イギリスではジョージ・マイケル名義でリリースされていた「ケアレス・ウィスパー」に続いて、この年に入って3曲連続となる1位を記録していた。これ以前にもワム!はデビューアルバム「ファンタスティック」にも収録された「ヤング・ガンズ」が全英シングル・チャートで最高3位、「ワム・ラップ」が最高位、「バッド・ボーイ」が最高2位、「クラブ・トロピカーナ」が最高4位とかなり売れていた。「ファンタスティック」は全英アルバム・チャートで1位に輝いている。
当時はアメリカでも第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの真っ只中であり、カルチャー・クラブやデュラン・デュランをはじめ、スパンダー・バレエ、トンプソン・ツインズ、カジャグーグーなどといったイギリスのバンドが全米シングル・チャートの上位にランクインしていた。イギリスでこれだけ人気のワム!なのだから、この流れに乗れても良さそうなものなのだが、「ファンタスティック」は全米アルバム・チャートで最高83位、シングルも「バッド・ボーイ」が全米シングル・チャートで最高60位を記録しただけという状態であった。しかも、アメリカではワム!U.K.というアーティスト名を使わなければならなかった。
「ファンタスティック」がイギリスでリリースされたのは1983年7月9日だが、この年の12月にプロモーションのために来日している。滞在は14日間にも及び、その間に休みは1日だけだったという。フジテレビの人気深夜番組「オールナイトフジ」に、売り出し中だったとんねるずが初出演したのは1983年12月10日で、当日の映像は総集編などでよく流れていたのだが、よく見ると後ろの方で退屈そうにしているワム!の2人の姿を確認することができる。また、当時、雑誌「宝島」で女性ライターだったか素人という設定だったかはよく覚えていないのだが、対談形式で好き勝手いうというコーナーがあって、そこでワム!のことを爽やかではないしなんだかむさ苦しいというふうに評していて、ワム!というよりはワキガがムッ!っていう感じ、などと酷いことをいっていたのをなぜだかよく覚えている。
しかし、「バッド・ボーイ」などはキャッチーでわりと好評であり、旭川の公立高校ですら全校集会などで体育館に集まっている時に洋楽好きの男子がイントロをカジュアルに口ずさんでいたぐらいである。ワム!はジ・エグゼクティヴというスカバンドが解散した後、メンバーであったジョージ・マイケルとアンドリュー・リッジリーによって結成されたということなのだが、初期は社会問題を取り扱ったり、若者から大人たちに物申す的な内容の楽曲もやっていた。後にザ・スタイル・カウンシルに参加して、ポール・ウェラーと結婚し離婚するディー・C・リーがシャーリー・ホリマンと共にバックダンサーとして参加していた。ディー・C・リーが脱退した後に加入したヘレン・デマクイールは後にシャーリー・ホリマンとペプシ&シャーリーを結成し、ワム!が解散した翌年の1987年には「ハートエイク」が全英シングル・チャートで最高2位のヒットを記録した。その週に1位だったのは、アレサ・フランクリンがジョージ・マイケルとデュエットした「愛のおとずれ」であった。
ワム!がシングル「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」をイギリスでリリースしたのは1984年5月14日だったのだが、それまでの楽曲に比べ、かなりポップでキャッチーになっている印象を受けた。そして、全英シングル・チャートで初の1位を記録するのだが、この間にはレーベルの移籍があった。これが大きく影響したように思えるのだが、ミュージックビデオもかなりメジャー感が漂うものになっていた。夏にはジョージ・マイケル名義のシングル「ケアレス・ウィスパー」がリリースされ、これもまた全米シングル・チャートで1位に輝くのだが、イントロのサックスも印象的な大人のバラード曲であった。日本では西城秀樹が「抱きしめてジルバ」、郷ひろみが「ケアレス・ウィスパー」のタイトルで日本語カバーしていた。
そして、アメリカでは9月8日付の全米シングル・チャートに、「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」が80位で初登場し、イギリスではすでに「フリーダム」が発売されていた10月6日付で初のトップ40入り、11月17日付ではビリー・オーシャン「カリビアン・クイーン」を抜いて、ついに1位に輝いたのであった。この後、ワム!フィーチャリング・ジョージ・マイケルというアーティスト名で「ケアレス・ウィスパー」がリリースされ、年が明けて1985年2月16日付の全米シングル・チャートではフォリナー「アイ・ウォナ・ノウ」を抜いて1位に輝いた。つまり、イギリスよりも少し遅れて大ヒットしていたわけである。
イギリスでは「フリーダム」が大ヒットした後で、いまやクリスマスソングの定番となった「ラスト・クリスマス」をリリースするのだが、これは全英シングル・チャートで最高2位を記録し、4作連続1位とはならなかった。この時に1位だったのは、バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」であり、これにもジョージ・マイケルは参加していた。これによって、ジョージ・マイケルはこの年の全英シングル・チャートで、ワム!、ジョージ・マイケル、バンド・エイドと3種類の名義で1位を記録したことになった。
これ後、ワム!が解散までにリリースしたシングル「アイム・ユア・マン」「エッジ・オブ・ヘヴン」はいずれも全英シングル・チャートで1位を記録したため、「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」以降、「ラスト・クリスマス」だけが最高2位に終わっていた。それから歳月は流れ、音楽の聴き方の主流がダウンロードやストリーミングなどに移行していくとチャートの集計方法も変わっていって、「ラスト・クリスマス」は年末になると毎年、全英シングル・チャートにランクインするようになった。そして、発売から実に36年後の2020年にはついに1位に輝いたのであった。
これでワム!のシングルは「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」から最後の「エッジ・オブ・ヘヴン」まですべて1位ということになったかと思いきや、実はそうはなっていない。「ラスト・クリスマス」はクリスマスシーズンが終わったタイミングで「恋のかけひき」とA面、B面を入れ替えているのだが、2020年に1位になったのはあくまでも「ラスト・クリスマス」という楽曲であり、記録上は「恋のかけひき」が最高2位として残ったままである。この「恋のかけひき」だが、アメリカでは「ケアレス・ウィスパー」の次のシングルとしてリリースされ、1985年5月25日付の全米シングル・チャートでシンプル・マインズ「ドント・ユー?」を抜いて1位に輝いている。これらのシングル曲を収録したアルバム「メイク・イット・ビッグ」はイギリスのみならずアメリカのアルバム・チャートでも1位に輝いた。
また、日本においてもマクセルカセットテープのCMに出演したりもして、ワム!は大人気であり、「メイク・イット・ビッグ」はオリコン週間アルバムランキングで最高2位、1985年の年間アルバムランキングでも井上陽水「9.5カラット」に次いで2位にランクインしている。安全地帯「安全地帯Ⅲ~抱きしめたい」、サザンオールスターズ「KAMAKURA」、チェッカーズ「もっと!チェッカーズ」、松任谷由実「NO SIDE」などを抑えての2位なのでかなりのものである。
ところでアメリカではリリースのタイミングを逸した感もあった「フリーダム」だが、「恋のかけひき」の次のシングルとしてカットされ、イギリスでのリリースからもうじき1年になろうかという1985年9月28日付の全米シングル・チャートで最高3位を記録している。この週の上位2曲はダイアー・ストレイツ「マネー・フォー・ナッシング」、クール&ザ・ギャング「チェリッシュ」であった。
この年のワム!にとって、大きな話題といえば西洋のアーティストとしては初めてともいわれた中華人民共和国においての公演であった。アメリカでシングルカットされた「フリーダム」のミュージックビデオには、この時の様子が収められてもいる。「フリーダム」はモータウン調のサウンドにのせて、恋愛における自由や束縛といった、多くの人々が共感しやすいテーマについて歌われた楽曲だが、ジョージ・マイケルにとってはソングライターとしての自信が明確に実感できた、ひじょうに思い入れが強い曲でもあるという。自由をテーマにしてもいるこの曲が中華人民共和国での映像に重なって流れることによって、意図していなかったメッセージ性が生じているのではないか、という意見もあったりはする。後にジョージ・マイケルがアルバム「LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL.1」に収録し、シングルカットもされた「フリーダム!’90」はこれとは別の曲である。