ローリング・ストーンズ「アフターマス」

ローリング・ストーンズのアルバム「アフターマス」がイギリスでリリースされたのは、1966年4月15日である。イギリスにおいては「ザ・ローリング・ストーンズ」「ザ・ローリング・ストーンズNo.2」「アウト・オブ・アワ・ヘッズ」に続く、4作目のオリジナルアルバムであった。アメリカでは「イングランズ・ニューエスト・ヒット・メーカーズ」「12×5」「ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!」「アウト・オブ・アワ・ヘッズ」「ディッセンバーズ・チルドレン」に続く6作目のオリジナルアルバムとして、1966年の6月20にリリースされた。イギリス盤が14曲入り、約53分20秒と当時のアルバムとしてはひじょうに長い収録時間だったのに対し、アメリカ盤は11曲入り、約42分31秒であった。イギリス盤に収録されていた「マザーズ・リトル・ヘルパー」「アウト・オブ・タイム」「テイク・イット・オア・リーヴ・イット」「ホワット・トゥ・ドゥ」がアメリカ盤には収録されていなく、シングルがヒットした「黒くぬれ!」はアメリカ盤にのみ収録されている。共通していえることは、これがミック・ジャガーとキース・リチャーズによってつくられたオリジナル曲のみを収録した、初めてのローリング・ストーンズのアルバムだったということである。

ローリング・ストーンズの数多いアルバムの中で主に名盤と呼ばれることが多いのは、まずは1972年の「メインストリートのならず者」、そして、ローリング・ストーンズ・レコードを設立してから最初のアルバムとなる1971年の「スティッキー・フィンガーズ」、1968年の「ベガーズ・バンケット」に1969年の「レット・イット・ブリード」といった辺りだろうか。60年代のローリング・ストーンズのヒット曲にはオリジナルアルバムに収録されていないものも少なくはないため、ベストアルバムの「ビッグ・ヒッツ(ハイ・タイド・アンド・グリーン・グラス)」「スルー・ザ・パスト・ダークリー」にも人気があるような気がする。そして、今回取り上げる「アフターマス」もそうなのだが、1966年までのアルバムはイギリスとアメリカとで内容が異なっている。60年代にローリング・ストーンズのライバルともいわれていたビートルズも初期のアルバムにおいては、イギリスとアメリカとで内容が異なっていたのだが、途中から統一されるようになった。

それで、「アフターマス」なのだが、ローリング・ストーンズのアルバムの中でもひじょうにユニークであり、内容も充実しているように思えるのだが、その後にもっとすごいアルバムがいくつもリリースされていることもあり、代表作として真っ先に名前が挙がるようなことはあまりない。「ベガーズ・バンケット」「レット・イット・ブリード」「スティッキー・フィンガーズ」「メインストリートのならず者」を続けてリリースした1968年から1972年までのローリング・ストーンズはアルバムアーティストとしては無双状態だといえるのだが、「アフターマス」から「ベガーズ・バンケット」までの間には、「ビトウィーンズ・ザ・バトンズ」と「サタニック・マジェスティーズ」がある。「サタニック・マジェスティーズ」は再評価もされているものの、当時はビートルズ「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の二番煎じと見なされる場合が多かったようである。

しかし、「ベガーズ・バンケット」以降のアルバムアーティストとして無双状態になる以前、初期のブルースロック的な音楽性からややポップ寄りになった絶妙な良さとでもいうものが「アフターマス」からは感じられ、この時期ならではの個性が発揮されているように思える。それでいて、「ステュピッド・ガール」「アンダー・マイ・サム」などに見られる、女性蔑視的ともとらえられかねない精神性も浮き彫りになっていたりもする。そして、ブライアン・ジョーンズが主に導入したと思われる、東洋的な様々な楽器や、この前の年にリリースされたビートルズ「ラバー・ソウル」に影響されたかもしれないバロック・ポップ的なサウンドなど、ひじょうに充実した内容になっている。「ベガーズ・バンケット」以降のアルバムがあれほどすごくなければ、もしかするともっと評価されていたのではないか、とも思われる。とはいえ、当時、全英アルバム・チャートで8週連続1位とものすごく売れてはいたわけであり、内容のわりに物足りなく感じられるのは、あくまでポップ・ミュージック史における評価についてである。ちなみに、当時の全英アルバム・チャートにおいて、「アフターマス」の前の週まで1位だったのは、映画「サウンド・オブ・ミュージック」のサウンドトラックである。

さらに「アフターマス」がリリースされた1966年といえば、ビートルズ「リボルバー」、ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」、ボブ・ディラン「ブロンド・オン・ブロンド」といったポップ・ミュージック史に残る名盤の数々もまた発売されていたりもして、それだけ「アフターマス」の影が薄くなりがち、というようなこともあったかもしれない。そして、スウィンギング・ロンドンなどといわれて、ロンドンがカルチャーの中心であるような時代でもあり、ビートルズ、ツィッギー、マリー・クワント、ヴィダル・サスーンなどがそれを象徴していた。日本でもこの翌年にはツィッギー来日が話題になり、ミニスカートが流行ったりもしたというのだから、おそらく相当なものだったのだろう(ビートルズ来日はこの年である)。

「アフターマス」のポップ感覚というのは、こういったスウィンギング・ロンドン的なムードが背景にあったと考えると、想像がしやすい。「アンダー・マイ・サム」は1981年から翌年にかけ、「刺青の男」のツアーの時には1曲目に演奏されていて、ライブアルバム「スティル・ライフ(アメリカンコンサート’81」や映像作品「レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー」などでも聴くことができた。当時、中学生であり、最初に聴いたのがこのバージョンだったのだが、いかにもローリング・ストーンズらしいアレンジになっていて、普通に気に入っていた。そのため、後にブライアン・ジョーンズによるマリンバをフィーチャーした、ポップでキャッチーなオリジナルバージョンを聴いた時には、わりと驚かされた記憶がある。ローリング・ストーンズといえば不良のロックであり、そこがカッコいいというのが、当時の日本におけるイメージでもあったと思うのだが、それがサウンド的にはかなりポップに寄せていて、それでも紛れもないミック・ジャガーのボーカルで、しかも女性蔑視的ともいまならば感じられるのだが、当時はそういうのがロック的ではないか、などと思われていたようなことが歌われてもいる。

ちなみに、「アンダー・マイ・サム」のみならず、タイトルからしてそのものズバリである「ステューピッド・ガール」、また、日常的なストレスを薬物でふきとばす主婦をテーマにした「マザーズ・リトル・ヘルパー」など、今日の感覚でいうと特にコンプライアンス的にもやもやする表現がわりと見られるのもこのアルバムの特徴ではあるのだが、当時のローリング・ストーンズはグルーピーに追いかけまわされていたり、当時のいわゆるロックンロール的なライフスタイルがそういったものであったこともあり、そのような状況が強く影響していたのではないかと思われる。当時からフェミニスト的な人たちからは非難されたりもしていたようなのだが、カミラ・カベロやパティ・スミスのように、フェミニスト的なスタンスではあるのだが、擁護的な立場を取る人たちもいたようである。

ローリング・ストーンズといえば1969年に行われたフリーコンサートで警備にあたっていたヘルズ・エンジェルスのメンバーが観客に暴力をふるい殺害してしまった、「オルタモントの悲劇」とも呼ばれる事件が有名であり、これがラヴ&ピース的なヒッピー思想を決定的に終わらせたなどともいわれたりもする。この事件が起こった瞬間にローリング・ストーンズが演奏していた曲は「悪魔を憐れむ歌」だったと思われがちでもあるのだが、実際には「アンダー・マイ・サム」の終わりにさしかかった頃であった。

「アウト・オブ・タイム」はクリス・ファーロウに提供し、全英シングル・チャートで1位に輝いた曲のセルフカバーで、これもまたローリング・ストーンズの曲としてはかなりポップ寄りだが、そこがとても良かったりもする。かと思えば、約11分35秒にも及ぶ「ゴーイン・ホーム」ではジャムセッション的な演奏が堪能できたりもする。他にもバロックポップ的なバラード「レディ・ジェーン」やフィル・スペクター的でもあるサーチャーズへの提供曲「テイク・オア・リーヴ・イット」など、この頃ならではの魅力が満載である。アルバムは当初、「クドゥ・ユー・ウォーク・オン・ザ・ウォーター」と題され、イエス・キリストが水の上を歩く様をモチーフにもしかけたのだが、クリスチャンの人たちを怒らせてしまうのではないかという判断で、回避されたらしい。ビートルズのメンバーであったジョン・レノンが「キリストより人気がある」発言で炎上するのはこの数ヶ月後のことであり、この点においてはリスク管理が適切に行われていたように思える。