Nas「Illmatic」

アメリカのラッパー、ナズのデビュー・アルバム「イルマティック」は1994年4月19日にリリースされ、全米アルバム・チャートで最高12位を記録した。デビュー・アルバムとしてはかなり売れた方なのではないかというような気もするのだが、当時のヒップホップファンの間ではひじょうに期待が高かったこともあり、意外にも売れなかったというような感想も持たれていたようである。とはいえ、現在、このアルバムがヒップホップというジャンルそのものを代表する歴史的名盤として高く評価されていることは明白であり、たとえば80年代がパブリック・エナミー「パブリック・エナミーⅡ」で2010年代がケンドリック・ラマー「トゥ・ピンプ・ザ・バタフライ」ならば、90年代はドクター・ドレー「クロニック」かナズ「イルマティック」というぐらいに優れたアルバムとされているのではないか、という印象がある。

個人的にはヒップホップをまったくメインでは聴いていなかった1994年は、オアシス「オアシス」、ブラー「パークライフ」、マニック・ストリート・プリーチャーズ「ホーリー・バイブル」、スウェード「ドッグ・マン・スター」などで大いに盛り上がって大満足だったのだが、他にもポーティスヘッド「ダミー」、ビースティ・ボーイズ「イル・コミュニケーション」、グリーン・デイ「ドゥーキー」、ジェフ・バックリィ「グレース」ナイン・インチ・ネイルズ「ダウンワード・スパイラル」など、いろいろなジャンルで名盤と呼ばれるアルバムがいろいろ出ていて、なかなかすごい年だったということが分かる。ちなみに「イルマティック」が発売された4月には、ニルヴァーナのカート・コバーンが自宅で亡くなり、オアシスが「スーパーソニック」でデビューするというトピックもあった。

「ザ・ソース」というヒップホップファンにはひじょうに有名なアメリカの音楽誌があって、アルバム・レヴューで満点にあたる5本マイクを獲得することが1つのステイタスになっているようなのだが、「イルマティック」はデビュー・アルバムにして5本マイク獲得ということでも、ひじょうに話題になっていたようだ。個人的には「NME」のレヴューで9点が付いていて、本文を読んでもなんとなくこれは聴いておいた方が良いのではないかというような気分になって、渋谷のCISCOかどこかでアナログレコードを買ったような気がする。部屋のステレオでよくかけていたのだが、その頃に付き合いはじめた女性がアメリカで5年ぐらい生活していたことがあって、その間にわりと怖い目に遭うこともあったのだという。それはそうとして、部屋でパブリック・エナミーをかけてもアイス・キューブをかけても平気だったのだが、このナズの「イルマティック」をかけていると、なんとなくその時の怖かった体験がフラッシュバックするらしく、できればかけるのを控えてほしいと言われたことがある。それだけリアルに迫力のあるラップだったということなのだろうか。

この頃、ヒップホップで最も話題になっていたのは、この前の年にデビュー・アルバム「ドギースタイル」をリリースしたスヌープ・ドギー・ドッグで、アメリカ西海岸のギャングスタ・ラップが人気という印象であった。80年代に新しいタイプのポップ・ミュージックとして、RUN-D.M.C.、LL・クール・J、パブリック・エナミーなどのヒップホップを浅く聴きはじめて、デ・ラ・ソウル「3フィート・ハイ・アンド・ライジング」などは大好きだったのだが、ハッピー・マンデーズやニルヴァーナでロック熱が復活し、スウェードのデビューですっかりイギリスのインディー・ロックに興味が持っていかれたこともあり、この時点でヒップホップはかなり話題になったものをかろうじて聴いているぐらいであった。

ナズの「イルマティック」はジャケットに写った少年の写真がまず印象的なのだが、これは子供の頃のナズ本人である。アメリカはニューヨークのクイーンズブリッジという団地で、ナズは育ったのだが、ここでの体験が「イルマティック」には強く反映している。かつては人種に関係がなくいろいろな人たちがこの団地には住んでいたようなのだが、やがて白人が次々といなくなり、そうなるとなんとなく貧しい感じにもなっていったのだという。やがてドラッグがこの地域を蝕み、それにかかわることによって生計を立てたり、トラブルに巻き込まれる人たちが増えていったようだ。少年から大人になるにあたって、ここから抜け出そうとするのだが、なかなかそれも容易ではないというような状況があり、そんな中、ちょっとしたトラブルが原因で兄弟同然に仲よくしていた友人を失ってしまったことが、ナズにとって人生の転機になったようだ。それまでも音楽はやっていたのだが、この事件をきっかけにこれを本気で突き詰めていこうという決心が固まり、それ以降はかなり集中して取り組んでいったといわれている。

ヒップホップというジャンルが生まれたわりと初期において、その存在を人々に知らしめた映画「ワイルド・スタイル」が引用されていたり、ジャズやソウル、ディスコミュージックなどのサンプリングを効果的に用いたトラックの素晴らしさもこのアルバムの魅力ではあるのだが、自分の身の回りで実際に起こっている出来事や取り巻く空気感、それによって感じたり考えたりしたことなどがリアルに表現されたラップが衝撃的だったのだろう。強力な自分語りであり、それが時代のある側面をヴィヴィッドに切り取ったドキュメンタリーであり、詩にもなっているという、その辺りが画期的だったのではないかと思われる。ヒップホップの歴史を変えた作品、などという言い回しがけして大げさではなく、その熱量はじゅうぶんに感じられるのだが、その内実がきわめて個人的なリアルを突きつめていった結果でもある、というところがひじょうに興味深く、表現をする人というのは結局のところ、こういったことをやりたいのではないか、というような気もしてくる。

根底に絶望や諦念のようなものがあるとして、それでもタフに生きていこうとするポジティヴィティーなどということを考えてしまいそうになるのだが、このアルバムがリリースされた時点でナズがまだ20歳であり、その生まれ育った環境のリアルさなどは遠い異国の地からは、うっすらとマイルドに想像することぐらいしかできないわけである。このアルバムをテーマにしたドキュメンタリー映画「NAS/タイム・イズ・イルマティック」などは、それをもう少しでも理解しやすくするための手引きにはなる。こちらから理解しようとして入り込んでいくほどに、味わい深くもなっていくのだが、別にそれほどでもなかったとしても、ひじょうに優れたヒップホップのアルバムとして感じることはできる。そして、場合によっては人生のしんどさのようなものに寄り添う音楽としての真の素晴らしさにも、気づく可能性があるのかもしれない。