プリンス&ザ・レヴォリューション「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」
プリンスの7作目のアルバム「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」は1985年4月22日にリリースされたのだが、その時点で前作にあたる「パープル・レイン」はまだ売れていたし、5枚目のシングルとしてカットされた「テイク・ミー・ウィズ・U」はその前々週まで全米トップ40にランクインしていた。その「パープル・レイン」のアルバムが発売されたのが1984年6月25日なので、10ヶ月も間を空けずに次のアルバムが出てしまったことになる。前作のセールスがいま一つだったりしたのならまだしも、全米アルバム・チャートで8月4日付から翌年の1月12日付まで約5ヶ月間、24週連続で1位、シングル・カットされた「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー」が1位、「パープル・レイン」が2位を記録するという恐るべき状況であった。
「パープル・レイン」はプリンス本人が主演する映画のサウンドトラックでもあったわけだが、これも大ヒットして、一気にポップ・アイコン化していた。「パープル・レイン」の映画が日本で公開されたのは1985年2月9日だったので、日本でこの作品を見た人たちにとっては、余計に「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」について、早くも新作が出てしなうのか、という思いが強かったような気がする。個人的には「パープル・レイン」が大ヒットした年に高校3年で、映画が公開された週には大学受験のため東京のホテルに宿泊していた。六本木WAVEや青山ブックセンターには何度か行ったものの、映画を見にいこうという気にまではなかなかなれず、「プリンス/パープル・レイン」は受験が終わってから旭川の劇場で見た。東京で一人暮らしをはじめてからも、もう一度見にいったはずである。
現在のようにインターネットもスマートフォンもなかった時代なので、情報の入手には時間がかかっていた。プリンスの新しいアルバムが早くも出てしまうことは音楽雑誌かラジオ番組などで知っていたのか、それとも知らなかったのか、いまとなってはよく覚えていない。春から東京で一人暮らしをはじめた時点で、レコード店といえば六本木WAVEという印象だったのだが、当時、住んでいた千石の大橋荘からそれほど距離が遠くなくて、わりと在庫が充実している店として、池袋パルコにあったオンステージヤマノを、4月のうちにはすでに見つけていたのか。当時の池袋パルコは入口から2階まで直行するエスカレーターがあって、これに乗らなければそれよりも上の階までは行けなかったような気がする。その上りきったあたりだっただろうか、いかにもハウスマヌカン風情といった感じのスタイリッシュな店員がいるブティックのようなものがあって、お前みたいなダサい奴が来るところじゃないオーラのようなものを、自意識過剰気味に感じていた。しかし、その難関も突破して、エスカレーターで何階か上まで上ると、夢のオンステージヤマノがあるのでとても良かった。
売場自体はそれほど広くもなかったような気もするのだが、とにかく輸入盤の新作がすぐに入荷しているという印象があって、さすがは東京だな、という気分になった。オンステージヤマノというぐらいなので、おそらく山野楽器の系列店なのだろうか。山野楽器は旭川にはなかったのだが、HBCラジオで放送されていた「エミ子の長いつきあい」という番組のスポンサーとして、名前ぐらいは知っていたのである。予備校の授業は午前中で終わり、当時は友達もまだいなかったので都営三田線で大橋荘まですぐに帰り、スーパーなどで買ったもので昼食をすませ、それから巣鴨駅から山手線に乗って、池袋に行ったのだろう。当時は西武・パルコ文化全盛の時代で、お調子者のミーハーであった私も「ビックリハウス」を毎月読んで、糸井重里が司会をするNHK教育テレビの「YOU」という番組でRCサクセションのライブを見るというような、その影響をダイレクトに受けているような高校生活であった。そのため、西武・パルコ文化のメッカともいえる池袋が近いのは、かなり便利だと感じていた。新宿や渋谷にも、しばらくは行く必要性を感じていなかった。
その日、オンステージヤマノに「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」が大量に入荷していて、店内でもかかりまくっていた。オンステージヤマノは輸入盤専門店だったのだろうか。いまとなってはよく覚えていないのだが、少なくとも個人的には輸入盤しか買った記憶がない。サイケデリックなイラストのジャケットがまず目を引いたし、店内で流れている音楽はボーカルの特徴からしてプリンスであることには間違いはないのだが、「パープル・レイン」と比べ、よりマニアックになっているように感じられた。
プリンスは1979年にリリースした2作目のアルバム「愛のペガサス」から「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」をシングルカッし、全米シングル・チャートで最高11位のヒットを記録したのだが、その後に発売したアルバム「ダーティ・マインド」「戦慄の貴公子」からはヒット曲が生まれなかった。音楽評論家やマニアックな音楽ファンには人気があったようなのだが、一般大衆にまでは広がらなかったようだ。1982年にリリースされた2枚組アルバム「1999」からシングルカットされた「リトル・レッド・コルヴェット」で初めて全米シングル・チャートの10位以内に入るのだが、プリンスの音楽がよりポップでキャッチーになったのと、時代がプリンスに追いついた的なところもあったような気がする。個人的に「1999」のアルバムが発売されてまだそれほど経っていない頃に、音楽好きの友人と話していた時には、プリンスというアーティストはロックなのかソウルなのかどっちつかずでよく分からない、という意見で一致していたはずだったのだが、数ヶ月後にはそこが新しく、たまらなく個性的で魅力的でもあるのだ、という認識にすっかり変わっていた。
それにしても、1984年の「パープル・レイン」の大ヒットには大驚きであった。確かに音楽性はよりポップでキャッチーになり、マイケル・ジャクソン「スリラー」の大ヒットによって、ソウルとロックやポップスとのクロスオーヴァー的な音楽が受け入れられやすくなっていたとはいえ、プリンスというのはキャラクター的にもあくまでアウトサイダー的であり、けしてメジャーにポップ・アイコン化するようなアーティストではないとずっと思ってもいたからである。この年、マイケル・ジャクソン「スリラー」は2年連続で全米アルバム・チャートの年間1位に輝き、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」が大ヒットし、マドンナが「ライク・ア・ヴァージン」で本格的なブレイクを果たした。プリンス「パープル・レイン」の大ヒットもあって、メガスターの時代が到来したという印象がなんとなくあったような気がする。
しかし、通常のメガスターというのは大ヒットしたアルバムから10ヶ月もおかずに、早くも次のアルバムをリリースしたりはしないので、やはりプリンスはかなりすごいのではないか、という感じにはなったのであった。しかも、大ヒットした「パープル・レイン」の続編という感じの音楽性ではなく、よりマニアックになっているのも印象的であった。もちろんオンステージヤマノのレジに持っていって購入し、大橋荘に持ち帰ったのだが、それからとにかく聴きまくったのだった。ちなみに「パープル・レイン」は当麻町から汽車で通っていた友人に借りたレコードを聴いていたので、この「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」が、私が初めて自分のお金で買ったプリンスのレコードということになる。ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のレコードは、私が彼に貸していた。
プリンスの個性はそのままに、60年代のサイケデリックでヒッピー文化的でラヴ&ピース的な要素が加わった音楽、という印象があった。これで、60年代のクラシックロックなどが好きな人たちにも、より分かりやすくなったのではないか、というような気がした。記憶があやふやではあるのだが、「パープル・レイン」がヒットした年の年末あたりに、渋谷陽一のラジオ番組にRCサクセションの忌野清志郎がゲスト出演して、新しいアーティストについて聞かれた時に、プリンスのことをジミヘンみたいな奴、というような感じで言って、プリンスをジミヘンみたいとか言っている時点でダメなのだ、というように返されていたりしたような気がする。渋谷陽一がデビュー当時の爆風スランプを推しすぎていて、リスナーの投票で決める年末の大賞的なもので、RCサクセションを上回った年である。
「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」がリリースされた週の全米シングル・チャートでは、USAフォー・アフリカ「ウィ・アー・ザ・ワールド」が1位で、マドンナ「クレイジー・フォー・ユー」が2位であった。「クレイジー・フォー・ユー」は「ライク・ア・ヴァージン」のアルバムではなく、映画「ビジョン・クエスト/青春の賭け」のサウンドトラックからのサウンドトラックからシングルカットされていた。アルバム「ライク・ア・ヴァージン」をもっと売りたかったレーベルとしてはこのシングルカットの難色を示したのだが、初のバラードでのシングルでもあったこの曲は、後にマドンナにとって「ライク・ア・ヴァージン」に次いで2曲目の全米NO.1ヒットとなる。その前にはアルバム「ライク・ア・ヴァージン」から「マテリアル・ガール」をシングルカットして、全米シングル・チャートで最高2位を記録したのだが、1位はREOスピードワゴン「涙のフィーリング」とフィル・コリンズ「ワン・モア・ナイト」によって阻まれていた。マリリン・モンローが主演した映画「紳士は金髪がお好き」にオマージュを捧げてもいるこの曲のビデオは、大学受験で東京のホテルに泊まっていた時に、部屋のテレビで何度か見た記憶がある。
マテリアルな世界に住んでいる、私はマテリアルなガールと歌われるこの曲は、当時の時代の気分にマッチしていたともいえる。日本はこの年の秋に発表されたプラザ合意をきっかけにバブル景気に突入していったといわれるが、そこに至る予兆めいたグルーヴ感のようなものは、すでに感じられていたような気もする。ヒッピー的な精神性というのは、物質化、拝金主義化する世の中においては、免罪符的にも機能するのかもしれないのだが、「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」がリリースされたタイミングには、そのようなサインが感じられたりもした。「POPEYE」などがやたらとペイズリー柄を推していたような感じもあり、私も池袋の西武百貨店にあった抽象的な若者向け衣料売り場のようなところで、ペイズリー柄のシャツを買ったような気がする。エスカレーターで1階まで降りると、白衣を着たクリニークのお姉さんたちがいて、緊張を強いられたりしたことが思い出される。
それはそうとして、全体的にそんなヒッピーでラヴ&ピース的なムードが「アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」からは感じられ、それはバブル前夜的に物質主義化していく世の中において、わりと絶妙な立ち位置を確保していたのではないか、という話である。それで、このアルバムは全米アルバム・チャートにおいて、フィル・コリンズ「フィル・コリンズⅢ(ノー・ジャケット・リクワイアド)」を抜いて1位に輝くのだが、3週後には映画「ビバリーヒルズ・コップ」のサウンドトラックに抜かれている。シングルカットされた曲の全米シングル・チャートでの最高位は、「ラズベリー・ベレエ」が2位、「ポップ・ライフ」が7位、「アメリカ」が46位であった。イギリスでは「ラズベリー・ベレエ」ではなく「ペイズリー・パーク」が最初のシングルとしてカットされ、全英シングル・チャートでの最高位は18位であった。ただしこの年のイギリスでは、「1999」が「リトル・レッド・コルヴェット」とのカップリングでいまさらシングルで再リリースされ、全英シングル・チャートで最高2位を記録するという謎の現象も起こっている。
「パープル・レイン」に比べるとヒットの規模はかなり縮小してはいるが、それでもしっかり売れていたとはいえる。わりと絶賛されていたような印象があったのだが、当時、海外メディアでの評価は賛否両論だったり、いま一つだったりはしていたようである。日本においても、「ミュージック・マガジン」のクロス・レヴューなどを読み返してみると、けして絶賛ばかりされていたわけではなかったということがよく分かる。特に「ラズベリー・ベレエ」「ポップ・ライフ」などには独特なポップ感覚があり、後になってからの方が正当に評価されるようになった印象もある。「アメリカ」はどこまでが本気か、それとも痛烈な批評なのかよく分からないのだが、アメリカ賛歌のようにもなっていて、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」よりも難解だということができる。「Freedom」「Love」「 Joy」「 Peace」といった分かりやすすぎるスローガンが、おそらくは意図的に用いられているところも特徴である。プリンスといえばラヴ&セックスであり、特にこの側面が日本では岡村靖幸に影響をあたえていったりもするのだが、このアルバムでは「テンプテーション」にそれが特にあらわれている。ちなみにこの年にアイドル歌手としてデビューした本田美奈子が9月28日に「Temptation(誘惑)」というタイトルは似ているのだがまったく別の曲をシングルでリリースしていて、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録しているのだが、これもまたサブリミナルに性愛を印象づける名曲であった。
プリンスはこの翌年にはまたしても早くも次のアルバム「パレード」をリリースし、ミニマリスト的にストイックでありながら強靭なファンクネスを感じさせる先行シングル「キッス」が全米シングル・チャートで1位に輝いたりもする。このアルバムはわりと大絶賛ムードでもあり、結果的に「パープル・レイン」が大当たりして、「アラウンド・イン・ザ・ワールド・イン・ア・デイ」で微妙になったが、「パレード」で持ち直した、というような説があったりもする。当時の個人的な印象としては、セールスはさておきクリエイティヴィティー的にはずっと上がりっぱなしという感じではあったのだが、どうなのだろう。東京で一人暮らしをはじめたばかりの頃に池袋のオンステージヤマノで買ったという思い出も込みで、個人的に思い入れがひじょうに強いアルバムでもある。