1981年の全米NO.1ヒットについて。
1981年8月1日に音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVがアメリカで開局するのだが、この年のうちはまだ全米シングル・チャートにそれほど影響をあたえるほどではなかったように思える。1月20日にロナルド・レーガンが第40代大統領に就任して、それから12年に及ぶ共和党政権がはじまる。この年の全米シングル・チャートで1位になった17曲を振り返りながら、その他のトピックにもなんとなくふれていきたい。
(Just Like) Starting Over – John Lennon
約5年振りに音楽業界に復帰したジョン・レノンのカムバック・シングルだが、この曲がヒット・チャートを駆け上がっている最中に、自宅アパート前で射殺されるという悲劇が襲った。新しい出発に相応しいこの曲は皮肉にもジョン・レノンの生前最後のシングルとなってしまった。全米シングル・チャートでは1980年12月27日付から5週連続で1位を記録し、レオ・セイヤー「星影のバラード」、ニール・ダイアモンド「ラヴ・オン・ザ・ロック」は2位止まりに終わった。ロッカ・バラード的な曲調が特徴的だが、この頃にはブルース・スプリングスティーン「ハングリー・ハート」、J.D.サウザー「ユア・オンリー・ロンリー」など、こういったオールディーズのテイストを残すヒット曲が少なくはなかった。日本ではこの年の3月21日に大滝詠一「A LONG VACATION」がリリースされるのだが、シングル・カットもされた「君は天然色」は「ユア・オンリー・ロンリー」にインスパイアされたともいわれている。
The Tide Is High – Blondie
邦題は「夢見るNO.1」だが、歌詞にそのようなフレーズがあるので、けして内容から飛躍したタイトルではない。日本でも原宿の竹の子族を含めひじょうに人気があった「コール・ミー」に続く全米NO,1ヒットである。パラゴンズというジャマイカのグループが歌っていた曲のカバーで、レゲエ風の曲調が特徴的である。1月31日付の全米シングル・チャートで1位を記録した。
Celebration – Kool & The Gang
2月7日付から2週連続で1位に輝いたのが、クール&ザ・ギャング「セレブレーション」である。元々はよりファンク色が濃い音楽をやっていたグループだが、次第にサウンドや曲調がマイルドになっていった。この曲はディスコ・ソングとしてヒットした後、いろいろなお祝いごとの場に相応しい楽曲として定番化していった。
9 To 5 – Dolly Parton
2月21日の全米シングル・チャートで1位に輝いて、翌週には2位に落ちるが、またさらに2週後には返り咲き、合計で2週1位を記録したのがドリー・パートン「9時から5時まで」である。カントリー界の大スターで、ホイットニー・ヒューストンの大ヒット曲「オールウェイズ・ラヴ・ユー」を70年代に作詞・作曲して歌っていたアーティストでもある。この曲は自身も出演したコメディー映画「9時から5時まで」の主題歌で、働く女性がテーマになっている。
I Love A Rainy Night – Eddie Rabbitt
2月28日付から2週連続1位だったのがエディ・ラビット「恋のレイニー・ナイト」で、ドリー・パートン「9時から5時まで」から2曲続けてのカントリー・ソングであった。このさらに翌週に「9時から5時まで」が返り咲いたので、この時期の全米シングル・チャートでは4週連続でカントリーの曲が1位だったことになる。この曲はエディ・ラビットが60年代に書きかけていたのだが、発掘した後に完成させて発表したところ大ヒットしたのだという。雨や雷に対する好意的な感情が歌われている。
Keep On Loving You – REO Speedwagon
この年に最も売れたアルバム「禁じられた夜」からのシングル・カットで、3月21日付の全米シングル・チャートで1位を記録した。このバンドをはじめ、スティクス、ジャーニー、フォリナーといったバンドのアルバムがとてもよく売れていて、これらのことを日本の一部の音楽ファンは「産業ロック」などと呼んでいた。REOスピードワゴンなどは英語圏だとソフト・ロックというサブジャンルにカテゴライズされがちなのだが、日本でソフト・ロックというと、「渋谷系」周辺の音楽おたくが好みそうなもっと違ったジャンルのことを指しているような気がする。元々はピアノ弾き語り的なバラードだったようなのだが、バンドでアレンジを加えていった結果、パワー・バラードなどとも呼ばれるタイプの楽曲になっていったのだという。日本では「涙のレター」のB面扱いであった。
Rapture – Blondie
3月28日付からは、ブロンディ「ラプチュアー」が2週連続で1位であった。「夢見るNO.1」に続いて、この年すでに2曲目の1位である。この頃はまだニューヨークのローカルなストリート・カルチャーという印象であったラップを早くも取り上げているのが特徴であり、タイトルは歓喜というような意味だが、もちろんラップとも掛かっているのだろう。「キープ・オン・ラヴィング・ユー」とこの曲が1位だったことにより、ジョン・レノン「ウーマン」が最高2位に終わっている。
Kiss On My List – Daryl Hall & John Oates
ダリル・ホールの恋人、サラ・アレンの妹が音楽業界でのキャリアに興味を示していたこともあり、彼女に提供するつもりでつくった曲なのだが、マネージャーのアドバイスを聞いて自分たちでレコーディングしてみたところ、1976年の「リッチ・ガール」以来となる全米NO.1を記録したということである。4月11日付から3週連続1位となっている。
Morning Train (Nine To Five) – Sheena Easton
1980年にイギリスですでにブレイクしていたシーナ・イーストンをアメリカでも売り出そうという話になって、デビュー・シングルをリリースしようとしたのだが、ドリー・パートンの「9時から5時まで」とタイトルが被っていたので、アメリカでは「モーニング・トレイン(ナイン・トゥ・ファイヴ)」のタイトルでリリースされた。「モダン・ガール」がすでにそこそこ売れていた日本では、「9 to 5(モーニング・トレイン)」のタイトルでリリースされた。ドリー・パートン「9時から5時まで」とタイトルは似ているが内容はまったく異なっていて、「9時から5時まで」が働く女性のことを歌っているのに対し、「9 to 5(モーニング・トレイン)」の主人公は仕事を終えて帰って来る男性を家で待っているのだった。
5月2日付から2週連続1位の間、2位だったグローヴァー・ワシントンJr「クリスタルの恋人たち」は結局、それが最高位となった。この邦題にはこの年の1月に出版され、ベストセラーとなった田中康夫の小説「なんとなく、クリスタル」が影響しているように思える。
Bette Davis Eyes – Kim Carnes
5月16日付から5週連続1位の後、1週だけその座を明け渡すが、翌週には返り咲き、さらに4週連続、合計9週1位を記録して、この年の年間1位に輝いたのが、キム・カーンズ「ベティ・デイビスの瞳」である。シンガー・ソングライターのジャッキー・デシャノンがドナ・ワイスと共作し、自らも発表していたが、ニュー・ウェイヴ的なアレンジが施されたキム・カーンズのカバー・バージョンが爆発的にヒットした。キム・カーンズはカントリー的な曲なども歌っていたシンガーだが、この曲にはハスキーな声質がとてもハマっていた。曲のモチーフとなった往年の名女優、ベティ・デイヴィスはこの曲のヒットによって、その名前が新しい世代のポップ・カルチャーと結びついたことをとても喜び、この曲がグラミー賞を受賞した時にも薔薇の花を贈っている。
この曲が1位の間、スモーキー・ロビンソン「ビーイング・ウィズ・ユー」、ジョージ・ハリスン「過ぎ去りし日々」がそれぞれ3週連続2位を記録するも、それが最高位となった。また、テイスト・オブ・ハニーによる坂本九「上を向いて歩こう」のカバー、「スキヤキ’81」が最高3位を記録している。
Stars on 45 medley – Stars On 45
キム・カーンズ「ベティ・デイビスの瞳」の連続1位の間に1週だけ割り込み、6月20日付で1位を記録したのがオランダのスタジオ・ミュージシャンたちから成るスターズ・オン45の「ショッキング・ビートルズ45」である。この邦題はこの曲がショッキング・ブルー「ヴィーナス」とビートルズのいろいろな曲のメドレーであることに由来していると思われる。原題にはメドレーに含まれる全曲のタイトルが入っていて、とにかくものすごく長い。この曲のヒットによって、ちょっとしたメドレー・ブームのようなものが起こり、本物のビートルズの映画関連の音源を編集したメドレーや、やはり本物のビーチ・ボーイズのメドレー、「フックト・オン・クラシック」というクラシック音楽のメドレーなどがヒットした。日本ではアルフィーが変名で吉田拓郎のメドレーをリリースしたりもしていた。
The One That You Love – Air Supply
田中康夫「なんとなく、クリスタル」の登場人物たちもAORを好んで聴いていたように、当時の日本の若者たちの間ではライト&メロウがオッシャレー(康夫ちゃん語)とされていたところがある。それで、このエア・サプライなのだが、当時はAORにくくられてもいたが、もう少しコンセプトが甘めというか、おそらく「なんとなく、クリスタル」の登場人物たちは聴いていないレベルで、女子大生に人気があるとされていたような気がする。それで、日本国内ではこれらのターゲットに合わせたマーケティングによって、ジャケットの色合いが微妙に違っていたり、「The One That You Love」に「シーサイド・ラヴ」などという邦題をつけたりもしていた。そして、当時、中学生だった私もこの曲のシングルを買って、うっとりしながら聴いていたのだった。7月25日付の全米シングル・チャートで1位を記録している。
Jessie’s Girl – Rick Springfield
エア・サプライと同じく、次に「ジェシーズ・ガール」で全米シングル・チャートの1位に輝いたリック・スプリングフィールドもまた、オーストラリア出身であった。テレビドラマ「ジェネラル・ホスピタル」で人気が出たというだけあって、ルックスがとても良い。8月1日付から2週連続で1位を記録したこの曲は、友人の恋人を好きになってしまうという内容で、「ベストUSA」でライブを披露した際に「What can i find a woman like that?」のところに「あんな女がどこにいる?」と字幕が入っていて、そのまま歌えるなと思ったりもした。
Endless Love – Diana Ross & Lionel Richie
コモドアーズのメンバーで、1980年にはケニー・ロジャーズに提供した「レイディー」が大ヒットしていたライオネル・リッチーがダイアナ・ロスとデュエットしたラヴ・バラードで、9週連続1位の大ヒットを記録した。この曲が主題歌だった同じタイトルの映画はそれほどヒットしなかったのだが、この曲はものすごく売れて、デュエット曲の定番にまでなったのではないだろうか。1994年にはルーサー・ヴァンドロスとマライア・キャリーによってカバーされ、全米シングル・チャートで2位まで上がっている。この曲が2ヶ月以上にもわたって1位だったことにより、最高2位に終わった曲に、ジョーイ・スキャベリー「グレイテスト・アメリカン・ヒーローのテーマ」、ポインター・シスターズ「スロー・ハンド」、ジュース・ニュートン「クイーン・オブ・ハート」がある。
Arthur’s Theme (Best That You Can Do) – Christopher Cross
「なんとなく、クリスタル」の主人公である女子大生がデビュー・アルバム「南から来た男」を聴いていた頃にはまだそれほどメジャーではなく、知る人ぞ知る的な存在だったかもしれないが、その後、「セイリング」が全米シングル・チャートで1位になり、翌年にはグラミー賞の主要4部門を受賞してしまうなど、一躍、時の人となったのがクリストファー・クロスであり、日本でもAORのアーティストとしてひじょうに人気があった。そして、映画「ミスター・アーサー」の主題歌であるこのシングルはバート・バカラックやキャロル・ベイヤー・セイガーと共作されていて、全米シングル・チャートでも10月17日付から3週連続1位と順当にヒットしていた。歌詞にニューヨークが出てくるとはいえ、「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」という邦題には雰囲気重視のノリも感じられて、個人的には実にいとおしい。
Private Eyes – Daryl Hall & John Oates
「キッス・オン・マイ・リスト」が全米シングル・チャートで約4年振りのNO.1ヒットとなって勢いに乗るダリル・ホール&ジョン・オーツが、ニュー・アルバムからの先行シングルでこの年2曲目の1位を記録した。タイトルが英語で私立探偵を意味することをこの曲で知った日本の中学生も少なくはないのではないだろうか。キャッチーなメロディーとダリル・ホールのブルー・アイド・ソウル的なボーカルには親しみやすさがあり、ビリー・ジョエルなどと共に洋楽の入門編的なアーティストとしても機能していたような気がする。ローリング・ストーンズ「スタート・ミー・アップ」は「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」と11月7日付から2週連続1位のこの曲に阻まれ、最高2位に終わった。
Physical – Olivia Newton-John
70年代には清純なイメージでカントリー的な曲を歌い、日本でも「カントリー・ロード」「ジョリーン」などがヒットした。1978年にジョン・トラヴォルタよ共演したミュージカル映画「グリース」が大ヒット、エンディングでは大胆なイメージチェンジを見せていたが、ELOとの「ザナドゥ」を経て、この曲ではさらにセクシーな路線を追求したようである。当時のアメリカの健康志向やワークアウトブームを取り入れたようなところもあり、これが10週連続1位の大ヒットを記録してしまう。今日、ポップ・ミュージックにおいてフィジカルといえばデータではないレコードやCDという意味で用いられるが、当時はこの曲の肉体的なイメージがひじょうに強かった。2020年にはこの曲がヒットした当時には生まれてさえいないマイリー・サイラスとデュア・リパが、影響を受けたと思われる楽曲を発表していた。この曲の全米シングル・チャートでの1位は翌年にまで続くのだが、その1ランク下でフォリナー「ガール・ライク・ユー」は10週連続2位で、結局1位にはなれなかった。