洋楽ロック&ポップス名曲1001:1964, Part.1

Bob Dylan, “The Time They Are-A-Changin'”

ボブ・ディランの3作目のアルバム「時代は変る」のタイトルトラックである。イギリスでは翌年にシングルカットされ、全英シングルチャートで最高9位を記録した。

スコットランドやアイルランドのバラッドをベースにしながらも、時代の変化をとらえた楽曲をつくろうという明確な意図をもってつくられていて、有名なプロテストソングの1つとしても知られる。

古い価値観は通用しなくなっているし、大人たちもそれを受け入れるべきだと説くこの楽曲は当時のカレッジフォークブームを支えていた若者たちの心情を代弁するようなものだったが、ボブ・ディランがこの曲をつくり、ライブで演奏するようになってからレコードが発売されるまでの間にジョン・F・ケネディの暗殺事件があり、そのメッセージはより切実なものとなった。

Dionne Warwick, “Walk On By”

ポップミュージック史に数多くの名曲を残してきたソングライターチーム、バート・バカラックとハル・デイヴィスによってつくられた最も有名な楽曲のうちの1つで、全米シングルチャートでは最高6位を記録している。ディオンヌ・ワーウィックにとってはやはりバート・バカラックとハル・デイヴィスによる「エニワン・フー・ハッド・ア・ハート」に続く2曲目のヒットソングとなった。

失恋から立ち直れていないので、たとえ街で見かけたとしても立ち止まらずに通り過ぎていってほしい、というような切ない心情が歌われている。

バカげたプライドだけがいまの私に残されたものだから、あなたがさよならを告げたときに私にくれた涙と悲しみをどうか隠させて、と歌われた後のピアノのフレーズが特に印象的で、後に大滝詠一が「雨のウェンズデイ」で引用してもいた。

アイザック・ヘイズの12分にもおよぶソウルフルなバージョンやザ・ストラングラーズによるニューウェイブ的な解釈など、カバーバージョンも数多いのだが、2023年にはラッパーのドージャ・キャットがこの曲をサンプリングした「ペイント・ザ・タウン・レッド」で全米シングルチャートの1位に輝いた。

The Beach Boys, “I Get Around”

ビーチ・ボーイズの初期の楽曲らしく、女の子やドライブなどについて歌ったキャッチーなサマーポップである。「オール・サマー・ロング」というタイトルのアルバムの1曲目にはふさわしく、「ドント・ウォリー・ベイビー」とのカップリングでリリースされたシングルは全米シングルチャートでバンドにとって初の1位に輝いている。

しかし、この楽曲はサウンド的にひじょうに革新的でもあって、特にファズやリバーブがかかったギターや一度止まってまたスタートするリズムの導入などが特徴である。

ビートルズがアメリカでも大ブレイクを果たしてから最初にリリースされたビーチ・ボーイズのシングルであり、意識するようなところがあったのかもしれない。いずれにしても、ここからビーチ・ボーイズとブリティッシュインベイジョン勢とのヒットチャートでの攻防が本格的にはじまったといえなくもない。

ローリング・ストーンズのミック・ジャガーもイギリスの人気音楽番組「レディ・ステディ・ゴー」でこの曲を絶賛し、全英シングルチャートでも最高7位のヒットを記録した。

The Beach Boys, “Don’t Worry Baby”

ビーチ・ボーイズのシングル「アイ・ゲット・アラウンド」とのカップリングでリリースされ、全米シングルチャートで最高24位を記録した。

バンドの中心メンバーであるブライアン・ウィルソンは車の運転中に聴いたザ・ロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」の素晴らしさに衝撃を受け、思わず車を停めてしまったという。果たして自分にはあのような曲が書けるのだろうかと不安になっていたときに、当時のガールフレンドがかけてくれた言葉がこの曲のタイトルになっている「心配しないで、ベイビー」である。

それで、やはり「ビー・マイ・ベイビー」からの影響を強く受けていて、特にイントロのドラムやコード進行などはかなり似ている。ブライアン・ウィルソンはこの曲をザ・ロネッツに提供しようとさえ考えていたという。

しかしそれは叶わず、ビーチ・ボーイズの楽曲としてレコーディングすることになった。曲の内容は車のレースに出場することを後悔している主人公をガールフレンドが慰め、やがて深い愛を確かめ合うというようなものである。

「ビー・マイ・ベイビー」からの影響を強く受けているとはいえ、楽曲のクオリティやブライアン・ウィルソンのボーカルが素晴らしく、それが圧倒的なオリジナリティになっているのみならず、ビーチ・ボーイズを代表する名曲の1つとしても見なされがちである。

Stan Getz, Joao Gilberto and Astrud Gilberto, “The Girl from Ipanema”

「イパネマの娘」の邦題で知られる、おそらく世界で最も有名なボサノバの曲である。ブラジル人作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンが作曲し、スタン・ゲッツとボサノバの父ともいわれるジョアン・ジルベルトのアルバムのためにレコーディングされた。

歌詞はブラジル人のヴィニシウス・デ・モラエスによってポルトガル語で書かれたが、後にプロデューサーのノーマン・ギンベルが英語詞を書いた。

当時、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラエスがよく通っていたバーの前を、ビキニ姿の少女がサンバのように歩いていて、この曲は彼女にインスパイアされたものである。つまり、はっきりとしたモデルが存在している。

ボーカルには当初、サラ・ヴォーンが選ばれていたのだが、急遽レコーディング歌手としての経験がそれほど多くはないジョアン・ジルベルトの妻、アストラッドが歌うことになった。

アルバムバージョンを短く編集したシングルがリリースされると、全米シングルチャートで最高5位のヒットを記録し、翌年のグラミー賞では最優秀レコード賞を受賞した。

The Supremes, “Where Did Our Love Go”

1960年代の全米シングルチャートで最も数多くのNO.1ヒットを記録したアーティストは3人組女性ボーカルグループのシュープリームスで、その数は実に12曲である。結成当時は4人組だったり、アーティスト名の表記が途中からダイアナ・ロス&シュープリームスになったり、そもそも日本におけるアーティスト名のカタカナ表記がシュープリームスだったりスプリームスだったりといろいろあるのだが、とにかくものすごく売れていたということである。

しかし、デビューしてからしばらくはヒットが出なく、所属レーベルのモータウンでは「ノー・ヒット・シュープリームス」なる蔑称で呼ばれてもいたのだという。ソングライターチームのホーランド=ドジャー=ホーランドが「プリーズ・ミスター・ポストマン」のヒットで知られるマーヴェレッツのために書いたのがこの曲だが、意外にも却下されたのだった。

それでシュープリームスがレコーディングすることになったのだが、トラックはすでにマーヴェレッツ用にレコーディングされていたため、ダイアナ・ロスのキーとは合わずに不本意にも通常よりも低い声で歌う必要があった。他にも気に入らないことがいろいろあったようで、レコーディングは不機嫌なムードの中で行われたという。

フローレンス・バラードとメアリー・ウィルソンはほとんど「ベイビー」というフレーズばかりを歌っている。ところがこれが大衆には大いに受けて、全米シングルチャートで1位に輝くことになった。ダイアナ・ロスの不機嫌なボーカルも冷たくなった浮気相手に対して「愛はどこへ行ったの」と問い詰めるこの曲には合っていたようである。

The Animals, “The House of the Rising Sun”

「朝日のあたる家」の邦題で知られるこの楽曲はアメリカのフォークソングで、ニューオーリンズにかつて実在していた売春宿について歌われているとか、いや女性刑務所のことだとかいわれているのだが、確かなことは分かっていないし誰が書いたのかさえ不明のままである。

ウディ・ガスリー、レッドベリー、ジョーン・バエズといったフォークシンガーたちが歌い継いできたが、イギリスのロックバンドであるアニマルズもこの曲を演奏して、ライブで評判が良かったのでレコーディングすることにした。

当時のシングルにしては長すぎるのではないかというような懸念もあって、アメリカでは実際に短く編集されたバージョンがリリースされたりもしたのだが、アメリカでもイギリスでもシングルチャートで1位に輝く大ヒット曲になったのであった。

フォークソングをロック的なアレンジで演奏しているところがまた画期的であり、すでにこの曲をフォークソングとしてカバーしていたボブ・ディランはこのアニマルズのバージョンをヒントにエレキギターを用いたロック的なサウンドを導入するようになったともいわれている。

Dusty Springfield, “I Just Don’t Know What to Do with Myself”

バート・バカラックとハル・デイヴィスのコンビによる楽曲で、すでに何名かのシンガーによってレコーディングされていたのだがヒットしてはいなかったところをダスティ・スプリングフィールドがカバーし、全英シングルチャートで最高3位を記録した。

恋人と別れてから何をしていても寂しすぎて一体どうすればいいのか分からない、というような切ない感情が歌われている。後にアメリカでもリリースされるのだがヒットには至らず、ディオンヌ・ワーウィックによるバージョンの方が全米シングルチャートで最高26位を記録した。

2003年にはザ・ホワイト・ストライプスが激しいガレージロック的なアレンジでカバーして、全英シングル・チャートで最高13位を記録していた。

The Beatles, “A Hard Day’s Night”

ビートルズの初主演映画「ハード・デイズ・ナイト」の主題歌で、イギリスやアメリカをはじめ多くの国々のシングルチャートで1位を記録した。ビートルズの人気はすでに社会現象的ともいえるすごいレベルのものになっていて、ビートルマニアなる造語も発明された。

当初は映画のタイトルもそれだったのだが、とても忙しい日にリンゴ・スターが「今日はハードな一日だった」といった後で、すでに暗くなっていることに気づいて「夜か」といったという内輪ネタが「ハード・デイズ・ナイト」というタイトルになった。

日本では「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」という邦題がついていて、ある世代までの人たちの中にはこちらのタイトルの方が親しみがあるというケースもあるかもしれない。このタイトルは映画評論家の水野晴郎が映画会社の社員だった頃に考えたものらしい。2000年に映画が再上映されたのに際して、日本でも「ハード・デイズ・ナイト」」というタイトルに改められた。

とにかく熱狂と興奮に溢れたロックチューンであり、ブルージーなボーカルも美しいコーラスもすべてがたまらなくカッコいい。犬(dog)のように働いたので丸太(log)のように眠りたいというような歌詞も印象的なのだが、ちゃんとラブソングにもなっているのがまたすごい。

The Zombies, “She’s Not There”

イギリスのロックバンド、ゾンビーズはタレントショーで優勝したことがきっかけでデビューして、この楽曲が最初のシングルである。

全英シングル・チャートで最高12位、そして、アメリカではもっと支持されて全米シングルチャートで最高2位を記録した。

1人の男性に縛られることがない自由な女性をテーマにした楽曲で、彼女の魅力を伝えたいのだがどこにいるのか分からないのだ、というようなことが歌われている。

ビートルズの大ブレイクをきっかけにイギリスのバンドが全米シングルチャートを席巻するようになり、その現象はブリティッシュインベイジョンと呼ばれるようになった。

Martha and the Vandellas, “Dancing in the Street”

モータウンの女性ボーカルグループ、マーサ&ザ・ヴァンデラスのヒット曲で、全米シングルチャートで最高2位、全英シングルチャートで最高4位を記録した。

ソングライターはマーヴィン・ゲイ、アイビー・ジョー・ハンター、ウィリアム・”ミッキー”・スティーヴンソンで、デトロイトをドライブしているときに見た、暑い夏の日に路上で消火栓を開けて遊んでいる人々の姿にインスパイアされたという。

それでストリートで踊ろうと歌われることになるのだが、当時は公民権運動がひじょうに盛んな時代でもあり、それで路上で異議申し立てをしようというようなメッセージソングとしても受け取られるようになっていった。

1980年代にはヴァン・ヘイレンによるカバーバージョンが全米シングルチャートで最高38位、1985年にはデヴィッド・ボウイとミック・ジャガーがデュエットでカバーし、全英シングルチャートで1位を記録した。