バナナラマ「ヴィーナス」【Classic Songs】

1986年9月6日の全米シングル・チャートでは、バナナラマ「ヴィーナス」がスティーヴ・ウィンウッド「ハイヤー・ラヴ」を抜いて1位に輝くのだが、翌週には一気に5位にまで落ちて、映画「トップガン」のサウンドトラックからベルリン「愛は吐息のように(トップガン・愛のテーマ)」が1位になっていた。

個人的にこの年は大学に入学してから最初の夏休みを帰省した北海道で過ごしていたのだが、旭川の実家にいたり札幌に進学した友人のアパートを転々としたり、とんねるずが主演した映画「そろばんずく」と「おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!」の2本立てや高橋源一郎の小説「さようなら、ギャングたち」「虹の彼方に」「ジョン・レノン対火星人」を原案とする映画「ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け」を見にいったりしていた。友人が深夜まで居酒屋のアルバイトをしている間、すすき野の近くにあったアパートの部屋でテレビを眺めたりしていたのだが、当時は洋楽のミュージックビデオを流す番組がよく放送されていたような気がする。ピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」、マドンナ「パパ・ドント・プリーチ」などのビデオはよく見た記憶がある。

それで、そろそろ東京というか実際には小田急相模原のワンルームマンションに戻る日が近づいたころにはさすがに旭川の実家で過ごすことが多く、それでも友人とディスコに繰り出したりはしていた。高校生の頃に憧れていた、休み時間でもギャーギャーわめいている女子たちとは違い、大人しく文庫本などを読んでいた女子がすっかり変わってしまい、「今日は仲間たちと来ているのォ~」などと陽気に言い放ちながらディスコで浮かれていた話などを聞いて、不機嫌になったりもしていたのだが、とりあえずナンパをしては失敗した時に、虚しくダンスフロアに流れていたのがバナナラマの「ヴィーナス」であった。ユーロビートのような軽薄なサウンドと、やる気のなさそうなユニゾン気味のボーカルが絶妙に心地よく、真夜中に外に出ると、半そでの腕にはすでに夜風が冷たく感じられた。

バナナラマは1980年の秋にロンドンで結成され、当初はニュー・ウェイヴ的でファッショナブルな印象も強かった。グループ名はロキシー・ミュージック「パジャマラマ」にも由来している。イギリスでいくつかの曲をヒットさせた後、1984年にはアメリカでも映画「カラテ・キッド」のサウンドトラックに使われた「ちぎれたハート」が、全米シングル・チャートで最高9位のヒットを記録した。この年の年末に大ヒットしたチャリティーシングル、バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」にも参加していた。

1986年にリリースされたシングル「ヴィーナス」は、それまでのバナナラマとはあまりにも音楽性が違う、ユーロビート的なものだったことから、レーベルかマネージメントチームが企てたイメージチェンジだったのではないかと思いきや、実はメンバーによる強い要望だったという。元々はオランダのロックバンド、ショッキング・ブルーが1969年にリリースし、全米シングル・チャートで1位に輝き、日本でもオリコン週間シングルランキングで最高2位の大ヒットを記録していた曲のカバーバージョンである。バナナラマはシングルの発売以前からこの曲をカバーしていて、ダンス・ミュージックとしてアレンジしたバージョンをリリースしたいと考えていたのだが、当時のプロデューサーから反対されていたという。

デッド・オア・アライヴ「ユー・スピン・ミー・ラウンド」などを大ヒットさせていたソングライティング&プロダクションチーム、ストック・エイトキン・ウォーターマンにプロデュースを依頼しようというのもメンバーのアイデアだったのだが、当初はこの曲はダンス・ミュージック的なアレンジに合わないのではないかと思われ、このヒットチームにも反対されていたという。しかし、実際に制作し発売してみると、全米シングル・チャートをはじめいくつかの国のシングル・チャートで1位に輝く大ヒットとなり、ストック・エイトキン・ウォーターマンとバナナラマとのコラボレーションは、この後も続くことになる。全英シングル・チャートでは、ショッキング・ブルーのオリジナルと同じく最高9位であった。

ショッキング・ブルーのオリジナルバージョンをリアルタイムで体験するのには生まれるのが少し遅すぎたとしても、80年代の「全米トップ40」ファンにとって、「ヴィーナス」のイントロはすでに聴き覚えのあるものであった。1981年にスターズ・オン45「ショッキング・ビートルズ45」が全米シングル・チャートで1位に輝き、ビートルズの曲のメドレーなのだが、イントロにはショッキング・ブルー「ヴィーナス」、それからアーチーズ「シュガー・シュガー」の一部もカバーされていたからである。邦題が「ショッキング・ビートルズ45」だったのも、ショッキング・ブルー「ヴィーナス」のイントロがカバーされていたからであろう。この後、ちょっとしたメドレーブームのようなものが起こったりもして、スターズ・オン45は映画「スター・ウォーズ」のサウンドトラックやスティーヴィー・ワンダーなどのメドレーもリリースしていた。これ以外にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団による「フックト・オン・クラシック」や、ビートルズの映画サウンドトラックに使われた楽曲やビーチボーイズの曲の音源を編集してメドレー化したものなどがヒットしてもいた。日本ではまだ本格的にブレイクする前のTHE ALFEE(当時のアーティスト名はカタカナでアルフィーだったが)が正体のBEAT BOYS名義による吉田拓郎のカバーメドレー「ショック!! TAKURO 23」がリリースされたりもしていた。

80年代半ばにはユーロビート的な洋楽を日本人アーティストがカバーするのが少し流行ったりもしていて、有名な例としてはアンジー・ゴールド「素敵なハイエナジー」をカバーしてオリコン週間シングルランキングで最高5位を記録した荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)」などがある。「ヴィーナス」も長山洋子によってカバーされ、オリコン週間シングルランキングで最高10位を記録している。長山洋子は子供の頃から民謡を歌ったり三味線を演奏したりしていて、演歌歌手としてデビューする予定だったのだが、いろいろあって1984年にアイドル歌手としてシングル「春はSA・RA・SA・RA」でデビューすることになる。サザンオールスターズ「シャボン」をカバーしたりもするのだが、なかなかヒット曲を出すことができず、8枚目のシングル「ヴィーナス」で初めて「ザ・ベストテン」にも出演を果たす。その後、「ユア・マイ・ラヴ」「悲しき恋人たち」「反逆のヒーロー」などもヒットさせるのだが、1993年には演歌歌手に転向し、活躍していくことになる。また、グラビアなどでも活躍していた黒沢ひろみは、それよりも先に「ヴィーナス」のカバーバージョンをリリースしていた。

モーニング娘。「LOVEマシーン」は1999年9月9日にリリースされるとオリコン週間シングルランキングで1位に輝き、グループの人気を国民的とも呼べるレベルまで高めた印象がある。作詞・作曲はつんく♂、編曲はダンス☆マンだが、この曲にもイントロをはじめ「ヴィーナス」からの影響が強く感じられる。