ソフト・セル「汚れなき愛」【Classic Songs】

1981年9月5日付の全英シングル・チャートでは、ソフト・セル「汚れなき愛」がアネーカ「ジャパニーズ・ボーイ」を抜いて1位に輝いた。3位にはヒューマン・リーグ「ラヴ・アクション」がランクインしていて、この頃のイギリスではシンセポップがメインストリーム化していたことが分かる。ヒューマン・リーグはこの次の次のシングルである「愛の残り火」が全英シングル・チャートで5週連続1位に輝き、年間シングル・チャートでも1位であった。そして、年間2位がソフト・セル「汚れなき愛」である。

同じ頃、アメリカではダイアナ・ロス&ライオネル・リッチー「エンドレス・ラヴ」が全米シングル・チャート1位であり、シンセポップはそれほどヒットしていなかった。AORな曲やブラック・コンテンポラリー、産業ロックやカントリーなどがよく売れていた印象がある。アメリカとイギリスとでは売れている曲にかなり違いがあったのだが、この翌々年には第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンがムーヴメントとして起こったこともあり、それほど違いがなくなっていた。

その間にどのようなことがあったかというと、1982年7月3日付の全米シングル・チャートでヒューマン・リーグ「愛の残り火」がポール・マッカートニー&スティーヴィー・ワンダー「エボニー・アンド・アイボリー」が1位になったり、その翌々週にあたる7月17日付ではソフト・セル「汚れなき愛」が最高位である8位を記録したりしていた。当時の全米シングル・チャートにおいては明らかに異質なサウンドの曲であり、一体どうしてこういった曲が上位にランクインしてきているのかがよく分からなかったのだが、後におそらくMTVの影響が大きかったのではないかと推測できるようになる。

MTVは1981年にアメリカで開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネルであり、やがて若者を中心に人気が出て、ついにはヒットチャートに影響をおよぼすまでになったといわれている。イギリスの特にニュー・ウェイヴやシンセポップのアーティストには早くから映像に力を入れていた人たちが多く、それらのビデオがMTVでよくオンエアされがちであり、それがヒットにつながっていったともいわれている。1983年のはじめには第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの象徴的なバンドであるデュラン・デュランが「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、カルチャー・クラブが「君は完璧さ」によってアメリカで最初のヒットを記録するのだが、その頃にやはり映像に力を入れていたマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」、さらにその次にアルバムからシングルカットされた「今夜はビート・イット」が連続して大ヒットし、ヒット曲は聴くだけではなく見るものにもなったことを強く印象づけるのだが、これらはイギリスでもやはり大きくヒットしていた。

「汚れなき愛」は1958年に「26マイル」「ビッグ・マン」をヒットさせたボーカルグループ、フォー・プレップスのメンバーでもあったエド・コブによって、1960年代に書かれていた。終わらせるべき恋愛関係について歌われたこの曲は、エド・コブの当時の恋人との関係にインスパイアされているという。エド・コブは最初にこの曲をマネージメントしていたガレージロックバンド、スタンデルズに提供したが断られたとしているのだが、メンバーはそのような覚えはないと語っているようである。それはそうとして、結局のところこの曲はソウルシンガーのグロリア・ジョーンズによってレコーディングされ、1965年にシングル「マイ・バッド・ボーイズ・カミン」のB面としてリリースされた。しかし、レコードはまったくヒットせず、アメリカでもイギリスでもシングル・チャートにランクインすらしなかったのであった。

1973年にイギリスのDJ、リチャード・シアリングがアメリカを訪れた時に、フィラデルフィアのレコード店でこの曲のレコードを買い、クラブでかけたところ評判になり、ノーザン・ソウルの隠れた名曲として知られるようになっていった。グロリア・ジョーンズはこの曲がヒットしなかった後、モータウンのソングライターとして活動したりしていたのだが、ミュージカル「ヘアー」出演時にT・レックスのマーク・ボランと出会い、バンドにコーラスとキーボードで参加したり、プライベートでも交際するようになっていた。1976年にマーク・ボランのプロデュースで「汚れなき愛」を再レコーディングし、発売するのだが、この時にもヒットはしなかったようである。翌年にマーク・ボランは交通事故に遭い、亡くなるのだが、その時に乗っていた車を運転していたのはグロリア・ジョーンズであった。

マーク・アーモンドとデイヴ・ボールはちょうどその頃に学生として出会い、やがてソフト・セルを結成することになる。1980年にデイヴ・ボールの母親から借りたお金で自主製作盤「ミュータント・モーメンツ・EP」を発売するなどした後、フォノグラム・レコード傘下のサム・ビザール・レーベルと契約し、シングル「メモラビリア」をリリースする。クラブではそこそこヒットしていたようだが、全英シングル・チャートにはランクインしていなかった。ノーザン・ソウルのファンでもあったデイヴ・ボールはグロリア・ジョーンズ「汚れなき愛」のレコードをマーク・アーモンドに聴かせ、それがきっかけでソフト・セルでカバーすることになる。その頃には、フランキー・ヴァリ「ザ・ナイト」もカバーしていたようである。次のシングルがヒットしなければ契約も終了というような状況において、レーベルは「汚れなき愛」のリリースを希望した。オリジナルのドラムス、ベース、ギター、ホーンなどの演奏をすべてシンセサイザーに置き換え、マーク・アーモンドのひじょうに印象的なボーカルで歌われたこのバージョンに、レーベルはヒットの予感を感じていたという。グロリア・ジョーンズのオリジナルと比べ、テンポはよりスローになり、マーク・アーモンドのボーカルに合わせてキーも下げられていた。12インチシングルに収録されたバージョンは、シュープリームス「愛はどこへ行ったの」のカバーとメドレーになっていた。

1981年7月にリリースされたソフト・セル「汚れなき愛」のシングルは8月1日付の全英シングル・チャートで62位に初登場した後、少しずつ順位を上げていき、人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップ」への出演も影響して、9月5日付のチャートでは1位に輝いたのであった。「汚れなき愛」のオリジナルを歌っていたグロリア・ジョーンズは、ソフト・セルによるバージョンの方がより優れていると語っているのだが、「NME」が2014年に発表した歴代ベストソングのリストにおいては、ヒットしたソフト・セルではなくグロリア・ジョーンズのバージョンの方が305位に選ばれている。

ソフト・セル「汚れなき愛」は翌年、1982年1月16日付の全米シングル・チャートにおいて90位に初登場し、いよいよアメリカでもヒットするかのようでもあったのだが、64位まで上がった後で100位まで落ちてしまった。しかし、それから再浮上してゆっくり順位を上げていき、初登場から約半年後の7月17日付のチャートで最高位の8位を記録することになった。全米シングル・チャートの100位以内には43週間にわたってランクインしていたが、これは当時においては歴代最長記録であった。

ソフト・セルはこの後、イギリスで「ベッドシッター」「セイ・ハロー、ウェイヴ・グッドバイ」「トーチ」「ホワット」などをヒットさせ、1984年に解散するのだが、1991年にはベストアルバム「メモラビリア~ベスト・オブ・ソフト・セル」がリリースされ、全英アルバム・チャートで最高8位、シングルカットされた「汚れなき愛」のニューバージョンも全英シングル・チャートで最高5位のヒットを記録した。解散後もソフト・セルはソロアーティストとしていくつかの曲をヒットさせ、デイヴ・ボールは1994年にザ・グリッド「スワンプ・シング」で全英シングル・チャート最高3位を記録したりもしている。一方、アメリカでは「汚れなき愛」以降、ヒット曲が続かず、一発屋として見なされることもある。

マリリン・マンソンは2001年に映画「あるあるティーン・ムービー」のサウンドトラックのために「汚れなき愛」のカバーバージョンをレコーディングし、全英シングル・チャートで最高5位のヒットを記録した。この翌年、グラストンベリー・フェスティバルに出演したマーク・アーモンドは、「マリリン・マンソンの曲をやるよ」と冗談を言った後で、「汚れなき愛」をパフォーマンスした。リアーナは2006年にリリースした「SOS」において、「汚れなき愛」をサンプリングしている。