ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」【Classic Songs】

1983年9月3日付の全米シングル・チャートではポリス「見つめていたい」の連続1位が8週で途切れ、ユーリズミックス「スウィート・ドリームス」が新たな1位に輝いていた。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンがひじょうに盛り上がっていた年だったのだが、この週に関していえば、10位以内にランクインしていたイギリス出身アーティストの曲は、この2曲の他にはカルチャー・クラブ「アイル・タンブル・4・ヤー」だけで、10曲中3曲であった。カルチャー・クラブは「君は完璧さ」「タイム」がいずれも全米シングル・チャートで最高2位の後、「アイル・タンブル・4・ヤー」もトップ10入りを果たして、デビューアルバムから3曲連続でトップ10入りしたのはビートルズ以来などといわれていたような気もする。「タイム」はイギリスや日本ではカルチャー・クラブのデビューアルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」(当時の邦題は「ミステリー・ボーイ」)には収録されていなく、後にシングルで発売されたのだが、アメリカ盤には収録されていた。

10位にはマイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」から「ヒューマン・ネイチャー」がランクインしていて、同じアルバムから5曲連続してのトップ10入りとなっていた。そして、先週の12位から5ランク順位を上げて、7位に入ったのはビリー・ジョエル「あの娘にアタック」であった。ビリー・ジョエルは人気アーティストではあったのだが、この前の年にリリースしたアルバム「ナイロン・カーテン」からのシングル曲は、「プレッシャー」が全米シングル・チャートで最高20位、「アレンタウン」が最高17位、「グッドナイト・サイゴン~英雄達の鎮魂歌」が最高56位と、いずれもトップ10入りを逃がしていた。アルバム全体がシリアスなテーマを扱っていて、リスナーがビリー・ジョエルに求めていたものとはやや異なっていたことが原因だったかもしれない。

その前の年、つまり1981年にビリー・ジョエルはスタジオアルバムをリリースしていなく、ライブアルバム「ソングズ・イン・ジ・アティック」から「さよならハリウッド」が全米シングル・チャートで最高17位、「シーズ・ガッタ・ウェイ」最高23位であった。このアルバムはライブアルバムとはいえ、あえてビリー・ジョエルが「ストレンジャー」でブレイクする前の、熱心なファン以外はほとんど知らないであろう曲ばかりを収録していた。この前のアルバムとなると1980年の「グラス・ハウス」であり、「ガラスのニューヨーク」が全米シングル・チャートで最高7位、「ロックンロールが最高さ」はビリー・ジョエルにとって初となるシングル・チャートでの1位に輝いていた。その後にシングルカットされた「ドント・アスク・ミー・ホワイ」は最高19位、「真夜中のラブコール」は最高36位であった。

つまり、「あの娘にアタック」でビリー・ジョエルは1980年の「ロックンロールが最高さ」以来、約3年ぶりに全米シングル・チャートの10位以内にランクインしたことになる。この曲はアルバム「イノセント・マン」からの先行シングルであった。この前のアルバム「ナイロン・カーテン」がリリースされたのが1982年9月23日、そして、それから1年も経たない1983年8月8日には「イノセント・マン」が発売されていた。後にプリンスで感覚が麻痺したりもするのだが、当時、このクラスの人気アーティストのアルバム間のスパンとしてはあまりにも短かったような気もする。そして、シリアスな「ナイロン・カーテン」から一転したかのように、「イノセント・マン」はビリー・ジョエルが幼い頃に親しんだであろう1950年代や60年代のポップ・ミュージックから影響を受けた、ただただ楽しいアルバムであった。このアルバムからは「あの娘にアタック」が全米シングル・チャートで1位に輝き、続く「アップタウン・ガール」も最高3位、それ以外にもシングルカットされた合計6曲が30位以内にランクインした。「アップタウン・ガール」イギリスで全英シングル・チャート1位に輝いた。やはり、世間がビリー・ジョエルに求めていたのはこのような路線だったのだろうか。

人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」をイメージしたミュージックビデオも含め、潔いまでに60年代オマージュに振り切っているわけだが、具体的にはシュープリームスであろう。いわゆるモータウンビート的な音楽性だけではなく、この曲の歌詞でビリー・ジョエルは若者に恋のアドバイスをするのだが、これはシュープリームス「恋はあせらず」とひじょうに似ている。ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」が初めてトップ10入りしたちょうど17年前、1966年9月3日の全米シングル・チャートを見ると、シュープリームス「恋はあせらず」が先週の7位から4位に上がっているのだが、この翌週にはドノヴァン「サンシャイン・スーパーマン」を抜いて1位に輝く。

そして、この「恋はあせらず」だが、ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」がヒットした1983年の初めには、フィル・コリンズによるカバーバージョンが全米シングル・チャートで最高10位、全英シングル・チャートでは1位に輝いていた。また、60年代の第1次ブリティッシュ・インヴェイジョンで活躍したホリーズがシュープリームス「ストップ・イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」をカバーして、全米シングル・チャートで最高29位と久々のヒットを記録したのもこの年であった。

この年の最初の全米シングル・チャートで前年から年をまたいで1位だったダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」も、いわゆるモータウンビートを取り入れていた。そして、日本ではビリー・ジョエル「あの娘にアタック」が全米シングル・チャートを上昇中だった1983年8月21日に原由子がソロシングル「恋は、ご多忙申し上げます」がリリースされていて、後にオリコン週間シングルランキングで最高5位を記録することになる。

このいわゆるモータウンビートなどともいわれるリズムのパターンはポップ・ミュージックでは定番化していて、いつの時代にも使われがちではあるのだが、この1983年辺りにはあまりにも集中してヒットしすぎだったような気もする。

ところで9月3日といえば、8月いっぱいまで夏休みだった学校では2学期がはじまったばかりではあるのだが、たとえば北海道などでは夏休みが短いため、もうとっくに2学期がはじまっていて、さんざん準備をした学校祭すらはじまりかねない。全校生徒に好きな曲のアンケートを取ってランキング化して、それを順位当てクイズにして発表していこうということを学校祭の企画として当時やっていて、邦楽と洋楽は別々だったのだが、邦楽では杏里「CAT’S EYE」、洋楽ではビリー・ジョエル「あの娘にアタック」が2位以下に圧倒的な大差をつけて1位だったことが思い出される。