ティナ・ターナー「愛の魔力」
1984年9月にどのような曲がヒットしていたのかを思い返そうと当時のヒットチャートを確認してみると、日本ではチェッカーズ「星屑のステージ」の後に近藤真彦「永遠に秘密さ」、イギリスではスティーヴィー・ワンダー「心の愛」がずっと1位である。そして、アメリカではティナ・ターナー「愛の魔力」の後にジョン・ウェイト「ミッシング・ユー」、そしてプリンス・アンド・ザ・レヴォリューション「レッツ・ゴー・クレイジー」が1位になっている。
ティナ・ターナー「愛の魔力」はアダルトオリエンテッドなサウンドとパワフルなボーカルとの組み合わせが特徴的なのだが、革のミニスカートとデニムジャケットを着用したティナ・ターナーが街を歩きながら歌うミュージックビデオにもかなりのインパクトがあった。
アメリカでは1981年の夏にMTVが開局したのだが、それをきっかけにミュージックビデオがポピュラーになり、ヒットチャートにも影響をあたえるようになった。日本では小林克也が司会の「ベストヒットUSA」が人気だったが、1984年の秋にいよいよMTVが上陸することになった。
といっても、「MTVジャパン」のような独立した放送局が誕生するまでにはまだ少し時間がかかり、当初はテレビ朝日系の深夜番組として数時間だけ放送されていた。他にもテレビ神奈川の「SONY MUSIC TV」など洋楽のミュージックビデオを紹介する番組はいろいろとあり、若者たちの間では1つのトレンドとなっていた。
ちなみに当時はミュージックビデオという呼び方はポピュラーではなく、プロモーションビデオと呼ぶのが一般的であり、少し後にはビデオクリップと呼ぶのが乙なものというような風潮になっていったような気がする。
それはそうとして、イギリスのシンセポップやニューウェイブのバンドは当初からユニークなビデオを制作していたことなどから、それらがアメリカのMTVでもオンエアされることが多く、それが第2次ブリティッシュインベイジョンにつながったともいわれる。アメリカではマイケル・ジャクソンのアルバム「スリラー」からシングルカットされた「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」のビデオが話題となった。
洋楽を消費するにあたってビデオがひじょうに重要になりつつあるなと感じたのは1983年4月、全米シングルチャートの上位3曲がマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」、カルチャー・クラブ「君は完璧さ」、デュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」だった頃だろうか。その少し前まで4洲連続2位だったボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド「月に吠える」はビデオをつくっていなくて、それはそれでカッコよかったのだが。
1984年になると第2次ブリティッシュインベイジョンへの反動というわけでもないのだろうが、プリンス、ブルース・スプリングスティーン、マドンナといったアメリカのアーティストたちが大ヒットを記録するわけだが、いずれもミュージックビデオを効果的に使っていた印象は強い。
そして、ティナ・ターナーである。かつて元夫とのデュオ、アイク&ティナ・ターナーで活動して、ヒット曲もあるベテランシンガーという紹介はされていたのだが、当時の中高生あたりの洋楽リスナーにとってはよく分からず、ただただビジュアル的にひじょうにインパクトが強く、パワフルな歌声が特徴の女性シンガーとして知ることになった。
アイク&ティナ・ターナーの解散および離婚の理由というのは激しいドメスティックバイオレンスなどであったことは、ティナ・ターナーの伝記映画などでも取り上げられているのだが、その後、ソロアーティストに転向するもののヒット曲もなく、もはや懐メロ歌手的な存在となっていたのだが、80年代にイギリスのシンセポップグループ、ヘヴン17のマーティン・ウェアーとイアン・クレイグ・マーシュによるプロジェクト、B.E.F.(ブリティッシュ・エレクトリック・ファウンデーション)のアルバム「ポップス黄金時代」でテンプテーションズ「ボール・オブ・コンフュージョン」をカバーしたことがカムバックのきっかけとなった。
やはりB.E.F.がプロデュースしたアル・グリーン「レッツ・ステイ・トゥゲザー」のカバーバージョンが全米シングルチャートで最高26位、全英シングルチャートでは最高6位のヒットを記録した。この結果はわりと予想外だったようなのだが、これによってアルバム「プライヴェート・ダンサー」の制作が決まったようであり、そこからシングルカットされたのが「愛の魔力」である。
グレアム・ライルとテリー・ブリテンによって書かれたこの曲は当初、クリフ・リチャードに提供しようとしたのだが断られ、それからイギリスのポップグループ、バックス・フィズに提供され、実際にレコーディングも行われたのだが、ティナ・ターナーによるバージョンが先にリリースされた。
歌詞の内容は欲望に忠実な性愛的衝動のようなものをテーマにしているのだが、それが精神的なロマンスと一体、何の関係があるの、などと歌ったある意味において、アンチラブソングとでもいうようなものになっている。とはいえ、これをティナ・ターナーのようなベテランシンガーが歌うことによって、いわゆる真実の愛とでもいうようなものを、様々な経験を経て信じたいのだが信じられなくなった的な悲哀をもマイルドに感じられるところがとても良い。
もっとも当時、地方都市の男子高校生としてカジュアルに聴いていた身としては、そのような機微を感じ取れていたわけではまったくなかったのだが。
当時、ティナ・ターナーは44歳であり、全米シングルチャートで1位を記録した女性ソロアーティストとしては最高齢の記録を更新したということである。また、最初のヒット曲から1位を記録するまでに最も長い期間を要したアーティストともされていたようなのだが、後にシェール「ビリーヴ」に抜かれることになる。
個人的には大学受験を数ヶ月後に控え、旭川の実家で過ごした最後の秋のヒットソングとして記憶されているのだが、東京生活1年目となる翌年には「ライヴ・エイド」におけるミック・ジャガーとの共演や、夏休みに帰省したときに高校時代の同級生の女子と見た「マッドマックス/サンダードーム」での怪演の印象も強い。