エンヤ「オリノコ・フロウ」【CLASSIC SONGS】
1988年10月29日付の全英シングル・チャートではエンヤ「オリノコ・フロウ」がホイットニー・ヒューストンがソウルオリンピックのためにレコーディングしたバラード「ワン・モーメント・イン・タイム」にかわって1位に輝き、2位にはカイリー・ミノーグ「涙色の雨」がつけていた。「オリノコ・フロウ」はニューエイジ・ミュージックとしても分類されていて、日常のストレスを軽減する目的などで聴かれがちでもあったのだが、それにしてはひじょうに実験的な音楽であり、「ミュージック・マガジン」の中村とうようも大絶賛していた。
1988年といえばパブリック・エナミーの2作目のアルバム「パブリック・エナミーⅡ」が音楽批評的には大絶賛されがちで、ヒップホップこそがいま最もエキサイティングなロックンロールなのではないか、というような気分もあった。この「パブリック・エナミーⅡ」に「ミュージック・マガジン」の「クロス・レヴュー」で0点を付けたのが中村とうようであり、ほぼ全否定という感じであった。一方、翌年にやはり「ミュージック・マガジン」の「クロス・レヴュー」で「オリノコ・フロウ」を収録したエンヤのアルバム「オリノコ・フロウ」が取り上げられた時には10点満点を付け、「いまほんとに新しいのはラップじゃなくエンヤだ」「本誌30周年のころわかります」などと評している。
アルバム「ウォーターマーク」から「オリノコ・フロウ」がシングルカットされたのは10月3日で、全英シングル・チャートでは初登場3週目から3週連続1位を記録した。日本ではこの年の10月1日からFMラジオ局のJ-WAVEが本放送を開始した。同じ六本木にあって名前も似ている六本木WAVEとはひじょうに親和性が高かったイメージがあるのだが、そもそも六本木WAVEの母体であるセゾングループがJ-WAVEに出資もしていた。客層がよりコンサバ化して以降の六本木WAVEではエンヤのCDが旧作も含めてコンスタントに売れ続けていて、売れたら必ず補充発注しなければならないことになっていた。
J-WAVEの「TOKIO HOT 100」は本放送が開始されてから間もない10月9日にはすでに最初のチャートが発表されていたのだが、1位はフィル・コリンズ「恋はごきげん」で、エンヤ「オリノコ・フロウ」はまだランクインしていない。後にわりと上位まで上がるのだが、1989年の年間チャートでは45位ということなので、それほど爆発的にヒットしたというわけでもなかったようだ。この「TOKIO HOT 100」は当時、テレビでも深夜にダイジェスト的な番組が放送されていたような気がする。キース・リチャーズ「テイク・イット・ソー・ハード」、U2「ディザイアー」などのビデオをこの番組で見た記憶がある。
エンヤ「オリノコ・フロウ」はミュージックビデオも素晴らしく、おそらくコンピューターグラフィックを駆使して、なかなか実験的なことをやっていると思われるのだが、尖っているというよりもただただ美しさを志向しているようなところがあり、オリジナリティーに溢れている。1961年にアイルランドで生まれたエンヤは家族が結成した音楽グループ、クラナドに加入したのだが、後に脱退してソロ・アーティストとして活動していくことになる。ソロデビューアルバム「ケルツ」はBBCのドキュメンタリーシリーズ主題歌なども収録し、1987年にリリースされる。144チャンネルもあったというデジタル・マルチトラック・レコーダーでレコーディングされたというその音楽は、多重録音を繰り返したコーラスなどが特に印象的なひじょうにユニークなものであった。エンヤの音楽に感銘を受けたワーナーミュージックの当時の社長、ロブ・ディケンズが契約をして、クリエイティヴな面についてはかなり自由にやれる環境をつくった。そうして制作されたのがアルバム「ウォーターマーク」であった。
「オリノコ・フロウ」のタイトルはレコーディングが行われたロンドンのオリノコ・スタジオに由来するのだが、オリノコ川があるのは南アメリカである。歌詞にはロブ・ディケンズの名前も入っていて、新しい冒険のようでもある音楽制作を、航海にたとえているようでもあった。この曲のヒットによって世界的に知名度を上げたエンヤはその後も数々の作品をリリースしてはヒットさせ、アイルランド出身のアーティストとしては歴代でU2に次ぐ2番目のセールスを記録しているという。