The 1975「仮定形に関する註釈」【Album Review】
The 1975はそのまま、ザ・ナインティーンセヴンティファイヴと読む。イギリスの人気バンドである。バンド名の由来は、中心メンバーのマシュー・ヒーリーが読んだビートニクスに関する本の最後のページに「1975年6月1日」と書かれていたことだという。よく分からないが、そういうことらしい。
2013年にリリースされたデビュー・アルバム「The 1975」から、「君が寝てる姿が好きなんだ。なぜなら君はとても美しいのにそれに全く気がついていないから。」「ネット上の人間関係についての簡単な調査」まで、これまでのアルバムはすべて全英アルバム・チャートで1位を記録している。音楽性はインディー・ロックを基本としながらも、キャリアを重ねるごとに多彩になってきていて、その辺りが音楽批評メディアからも高く評価される理由の1つとなっている。
そして、社会問題に対しての言及はナチュラルに行われていて、それゆえに現在進行形のポップ・ミュージックとして有効に機能しているようにも思える。現在の人々の意識や行動の変化を反映しているというか、それらと併走しているようにも思えるからである。
当然の前提として、社会問題と自分自身とを切り離して、趣味や自分が好きなことしか意地でもやりたがらず、冷笑的な立場を取っているような態度はいまやとてつもなくクソダサイ。黙っているだけならばそのうち死ぬので別に構わないのだが、まともに考えたり行動しようとする人たちの足を引っ張ったり邪魔をしたりするような言説を見かけることも少なくなく、糸井重里みたいなものをたとえ一時たりとも持て囃した罪は一生をかけてでも償わなければならないのだろうな、という思いを強くするのである。
今回、リリースされた4作目のアルバム「仮定形に関する註釈」は前作の「ネット上の人間関係についての簡単な調査」と対になっていて、わりとすぐに出るといわれていたのだが、なかなか出なかった。昨年の夏あたりからリード・トラックが次々と発表されて、やっと届けられたアルバムは22曲入りで、収録時間は1時間21分である。いまどきのアルバムにしては、明らかにボリュームありすぎである。今回も楽曲はバラエティーにとんでいる。それなので飽きることはないし、超大作という感じもしない。リード・トラックとして発表されていたようなしっかりとしたポップ・トラックもあれば、インタールード的なインストゥルメンタルもある。海外の批評サイトを見るといまのところ賛否両論なのだが、確かに従来のロックやポップスのアルバムという観点から見ると、もっとちゃんとした曲だけを厳選してコンパクトにまとめた方が全体としてのクオリティーは高まったかもしれない。
しかし、これはこれでいかにも今日的なアルバムではないかと、私は個人的に思ったのであった。アルバムというフォーマットは時代遅れかもしれないが、それでもこんなにクオリティーが高いものがつくれるのだということを、今年もフィオナ・アップルやサニーデイ・サービスのアルバムを聴いて感じたものだ。The 1975のこのアルバムにおける方法論というのはそれとはまた違っていて、アルバムというフォーマットが時代遅れになったかもしれないこんな時代の、新しいアルバムのあり方とでもいうべきなのではないか。ストリーミング聴き流しとかプレイリストといった、いまどきのリスニングスタイルに近いような感覚があるし、ロックやポップスではなく、ヒップホップのアルバムみたいな構成のようにも思える。
特に言及すべきなのは、アルバムの1曲目、「The 1975」が環境活動家、グレタ・トゥーンベリの気候変動についての警告スピーチ、約5分間という点である。これまでのすべてのアルバムが全英アルバム・チャートで1位になるほどの人気バンドであるThe 1975が、そのリスナーに対し、新しいアルバムでまず真っ先に訴えたいのがこれなのだということの表れであろう。ギター・ロックという世界のポップ・ミュージックのトレンドにおいては、もはやメインストリームではない音楽のファンが日本にはひじょうに多い。あらゆるポップ・ミュージックはそれぞれの意味合いにおいて政治的だと思うのだが、特にロックというジャンルの音楽は社会問題についての言及や権力者への異議申し立てによって発展してきたのだということはある種の教養であろう。にもかかわらず、政治的な文脈と自分自身とを切り離し、趣味や自分が好きなこと以外は意地でもやりたくはないというタイプの人たちによって支えられてもいる、この国のポップ・ミュージック言論においては、ロックに政治を持ち込むな、なる摩訶不思議な言説を見かけることが、けして少なくもない惨状である。糸井重里の広告みたいなものにまみれたまま、いまだに感覚をアップデートできない者どもが、そのような価値観を蔓延させいったのだろう。くそまずい生活。ぶきみ、大嫌い。
最初にリード・トラックとして発表された「ピープル」は、エモーショナルなパンク・ロックで、ポップスとしてもよく出来ているのだが、グレタ・トゥーンベリの気候変動についての5分間のスピーチの後に続けられることによって、それぞれが政治や社会の問題に関心を持ち、理解をし、正しく行動するこそこそが世界を変えるのだという、現在にとても相応しいメッセージ・ソングとしても機能していて、アップデートに失敗したがために社会運動にのり切れず、趣味や好きなこと以外は意地でもやりたくないとか、マイノリティの尊厳を犠牲にしてでも自分たちの娯楽だけは守ることに必死とか、そういう連中は置いてけぼりにしていくのだという強い意志が感じられて素晴らしい。
「ミー・アンド・ユー・トゥギャザー・ソング」などは、これが「ピープル」と同じバンドなのかというぐらいに、キュートなインディー・ポップなのだが、タイトルからしてこれぐらいはその気になればいくらでもつくれるのだ、というような不敵さが感じられて清々しい。日常の生活にはこのような個人的なハッピーでラッキーな瞬間もあれば、政治や社会の問題に対して憤っている時間もある。というか、たとえばそのような政権下で生活をしているのであれば、その気持ちはベースとしてずっとある。それに対し、自分自身はどのような立場であり、何に加担しているのか。それゆえに、日常でそのような現場に直面した場合にどのような言動、行動を取るのか、選挙においてはどのように投票するのか。たとえば家族や恋人とどれだけ有意義で楽しい時間を過ごせるのかにも、もちろん政治は影響を及ぼしている。趣味や自分が好きなことについても、然りである。
FKAツイッグスも参加した「イフ・ユー・アー・トゥー・シャイ(レット・ミー・ノウ)」は80年代ポップスのエッセンスを今日的なサウンドでアップデートしたようなポップスなのだが、歌詞はインターネット時代の恋愛模様というか、モニターの向こうの相手に恋をするというような、ラヴ・ソングのニュー・エラ的な要素もあり、刺激的である。レゲエのカッティ・ランクスが参加している曲があったり、クリストファー・クロス、佐藤博がサンプリングされているのど、ヨット・ロックやシティ・ポップといったトレンドに対する目配せもある。
従来のロックやポップスのアルバムという観点からすると、すでにいくつかの音楽批評メディアが指摘しているように、統一感に欠けていて、散漫な印象があるかもしれない。ポップスとしての強度ということでいうならば、収録曲の間でバラつきが見られることも間違いない。しかし、贔屓目かもしれないのだが、私の個人的な感覚からすると、これこそがストリーミング聴き流しやプレイリスト世代にとってのアルバムの新たなかたちであり、きわめて現在的な作品でないかと思うのである。The 1975、畏るべしという印象を新たにしたし、同世代のファンのようにこのバンドの魅力を享受することは残念なことに不可能であったにしても、引き続き注目に値する、というか、現役のインディー・ロック・バンドの中から1つと言われれば他に選択の余地がないほどに、注目をしていきたいと思った。
そして、アルバムの最後に収録された「ガイズ」は、バンド・メンバーに対する想いをマシュー・ヒーリーが歌った感動的な楽曲で、ベタにとても良い。バンド・メンバーと出会えたからこそ味わうことができた最高の日々の1つとして、日本に行ったことが挙げられていることは、純粋にうれしい。
このアルバムでマシュー・ヒーリーのヴォーカルが入ったトラックとしては最初に収録されている「ピープル」と最後の「ガイズ」では音楽性はまったく異なっているが、オープニングのグレタ・トゥーンベリのスピーチも含め、共通しているのはひじょうにエモーショナルであるという点である。これは今日のヒット・チャートに見られる傾向、日本においてもKing Gnuのようなバンドのブレイクとも共通した背景を持つようにも思える、エモーションの復活の一例であるとも思われ、そういった点においてもきわめて現在的なポップ・ミュージックだということができる。