邦楽ロック&ポップス名曲1001: 1959-1961
黒い花びら/水原弘 (1959)
失恋の悲しみをドラマティックに歌い上げた、水原弘のデビュー曲にして超名曲である。東芝レコードにとってはこれが初めての邦楽レコードにして、大ヒット曲となった。また、日本レコード大賞の記念すべき第1回受賞曲でもある。
恋の終わりがあまりにも悲しすぎて、もう恋なんかしたくはないというような内容なのだが、それをこれだけの迫力と熱量で歌っているところがものすごく、間奏のサックスも最高である。
作曲家の中村八大がロカビリー映画「青春を駆けろ」のための楽曲を一晩で10曲つくるようにというハードな課題をあたえられ、当時、作詞の経験がまったくなかった放送作家の永六輔と徹夜でつくったうちの1曲である。
水原弘はダニー飯田とパラダイス・キングの初代ボーカリストだったがすぐに脱退し、水原弘とブルーソックスを結成したりもしていたのだが、オーディションに合格してこの曲を歌うことになったのだという。
黄色いさくらんぼ/スリー・キャッツ (1959)
「若い娘は ウフン」の歌い出しでも知られるお色気たっぷりのガールズポップである。「体当たりすれすれ娘」というなんだかすごいタイトルの映画の主題歌だったようだ。
作詞は星野哲郎で作曲は浜口庫之助だが、時間がなくてわずか1日でつくられたとか、歌詞はトイレットペーパーに書かれたとかいろいろなエピソードが残されている。当時の感覚ではセクシーすぎて、NHKでは放送禁止になったりもしていた。
情熱の花/ザ・ピーナッツ (1959)
ザ・ピーナッツは愛知県出身の双子の女性デュオで、当初は伊藤シスターズという名義で歌っていた。
この曲はベートーヴェン「エリーゼのために」を引用した海外のポピュラーソングの日本語カバーであり、モダンなポップ感覚と美しいハーモニーが特徴的である。
僕は泣いちっち/守屋浩 (1959)
「なんでなんでなんで どうしてどうしてどうして そんなに東京がいいんだろう」というフレーズを、志村けんがよくコントの中で歌っていた印象があるのだが、その引用元がこの守屋浩「僕は泣いちっち」であり、実際の歌詞は微妙に違っていたりもする。
高度成長期で地方から上京する人たちが多かったのだろうか。この曲では大好きな女性が東京に行ってしまうことの悲しみを「僕は泣いちっち」とマイルドなコミカルさで歌った名曲である。
「上りの急行がシュッシュラシュッと行っちっち」というような言語感覚もキャッチーで素晴らしい。そして、「僕も行こう あの娘の住んでる東京へ」のくだりでは、いや結局お前も行くんかい、と盛大にツッコミを入れたい気分にさせられる。
ギターを持った渡り鳥/小林旭 (1959)
小林旭は「ダイナマイトが五百屯」という楽曲をヒットさせたことからマイトガイなどと呼ばれるようになるのだが、その後、元刑事のギター弾きを主人公にした映画「渡り鳥」シリーズが大ヒットする。函館を舞台にした「ギターを持った渡り鳥」はその第1弾で、主題歌もヒットした。
なんとも魅力的なボーカルとカントリーやドゥーワップなど様々な音楽ジャンルからの影響も感じられる、とても良い曲である。そして、「俺と似てるよ 赤い夕陽」というフレーズには、思わずあの「燃える男の赤いトラクター」というテレビCMを思い出してしまったりもする。
アキラのズンドコ節/小林旭 (1960)
「ズンドコ節」のルーツは「海軍小唄」という楽曲だともいわれ、確かに明らかに影響を受けているだろうと思えるのだが、この曲は一体誰がつくったものやらまったく不明なのだという。
独特のリズムと歌いまわしが特徴的なのだが、歌詞はいたってごく普通のロマンスをテーマにしていたりはする。とはいえ、一年前にも半年前にも知らない同士であった「若い二人がいつの間に こんなになるとは知らなんだ」とか、せめて夢でも遭いたいと願うのだが、もしもその夢さえ見られないとするならば、「見るまで一日寝て暮らす」というようなフレーズにはグッとくるものがある。
1969年にはザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」、2002年には氷川きよし「きよしのズンドコ節」がリリースされ、いずれもヒットを記録している。
ステキなタイミング/ダニー飯田とパラダイス・キング (1960)
全米シングル・チャートで最高3位を記録したジミー・キング「ステキなタイミング」の、日本語カバー曲である。当初は飯田久彦が歌っていたのだが、坂本九の方が適しているのではないかということになり、リードボーカルを取るようになった。
シンコーミュージックから出版されていた音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の編集長を務めたりもした草野昌一は、漣健児のペンネームで洋楽カバー曲の日本語詞をいくつも手がけ、日本のポピュラー音楽史においてひじょうに重要な役割を果たすのだが、それらの最初がこの楽曲であった。
陽気で楽しくとても良いのだが、カンニングや浮気までをもノリで奨励しているとも取られかねなく、今日だとすればコンプライアンス的にどうなのだろうか、というような心配をも超えて、ただただご機嫌なポップミュージックである。
銀座の恋の物語/石原裕次郎・牧村旬子 (1961)
石原裕次郎が主演した映画「街から街へつむじ風」の挿入歌だったようなのだが、これが大ヒットして、翌年にはこの曲をテーマにした映画が公開されたりもしている。
「銀恋(ぎんこい)」の略称でも知られる、ある世代にとってはカラオケにおけるデュエットソングの定番である。カラオケといっても通信カラオケが入ったカラオケボックスではなく、パブスナックにおけるレーザーカラオケという印象がひじょうに強い。
個人的な記憶にはなるのだが、たとえば1980年代半ばあたりにおいても、いわゆる大人たちのステレオタイプの模倣として、この曲を面白がって歌うようなことはあった。実は本気で気になっている女子とおふざけ風味でデュエットしたりというシチュエーションにおいてである。それでも、なぜかしっかり歌えていたのだから、この曲の浸透度は相当だったのではないかと思える。
イントロが流れた瞬間にそれらの場面がフラッシュバックするようなポップソングとしての強度もかなりのもので、こういうのもあえて入れていくのこそが存在意義なのではないかとこの特集についてマイルドに考えていたりもするのだ。
東京ドドンパ娘/渡辺マリ (1961)
マンボやカリプソといった様々なリズムを取り入れた歌謡曲が一時期流行し、それらはリズム歌謡と呼ばれたりする。ドドンパもそのうちの1つなのだが、それはラテン音楽の影響を受けながらも、日本独自のものでもあったようだ。
その代表曲として知られるのが、渡辺マリ「東京ドドンパ娘」である。この曲をモチーフにした映画も制作され、渡辺マリが主演もしていた。
リズムの魅力ももちろんではあるのだが、パンチの効いたボーカルスタイルもとても良い。
スーダラ節/ハナ肇とクレージーキャッツ (1961)
ハナ肇とクレージーキャッツのリードボーカリスト、植木等は「無責任男」などとも呼ばれたパブリックイメージとは裏腹に、実はかなり生真面目な人物であったため、後に東京都知事にもなる青島幸男が作詞したこの曲がヒットしたことについて、果たして大丈夫なのだろうかと心配していたようである。
冗談音楽としてのクオリティーは圧倒的に高く、そこに植木等のポップアイコン的な魅力も圧倒的に発揮されたボーカルパフォーマンスである。時代精神の真骨頂をクオリティーの高さがじゅうぶんすぎるぐらい補完した、最高のポップソングだということができる。
ある意味において人間の業のようなものを「分っちゃいるけどやめられない」という簡潔なフレーズで表現しているところも、実に素晴らしい。
上を向いて歩こう/坂本九 (1961)
日本のポップソングで全米シングル・チャートで1位に輝いたのは、現在までのところこの曲が最初で最後である。独特なボーカルスタイルはヒーカップ唱法などとも呼ばれる、海外のロックンロールにも影響を受けたものであろう。
涙がこぼれないように上を向いて歩こうというきわめて前向きな歌詞は今日においても愛され続けているわけだが、実際のところその背景には作詞をした永六輔の学生運動の挫折体験からも強く影響を受けているのではないかともいわれる。
海外では「Sukiyaki」のタイトルで知られるが、それはアメリカでのレーベルの人が契約についての話し合いの際に食べていたすき焼きに由来するなどともいわれている。
RCサクセションはこの曲をライブのレパートリーに入れ、「日本の有名なロックンロール」として紹介してもいた。個人的には1985年の夏に西武球場にRCサクセションのライブを見に行き、その日もこの曲が演奏されていたのだが、翌日の日航機墜落事故で坂本九が亡くなったと発表された時のことが強く印象に残っていたりもする。
ルイジアナ・ママ/飯田久彦 (1961)
ジーン・ピットニーによる楽曲に漣健児が日本語詞を付けて、飯田久彦が歌っているのだが、ロカビリーや洋楽カバーポップスが流行していたこの頃を象徴するヒット曲としても知られている。
日本ではジーン・ピットニーのオリジナルもかなり有名だったのだが、海外ではそれほどヒットしていなかったようである。