ザ・スミス「ジス・チャーミング・マン」について。

1992年8月15日付の全英シングル・チャートで1位だったのはドイツ出身のダンスミュージックユニット、スナップ!の「リズム・イズ・ア・ダンサー」であった。癌を意味する「キャンサー」と「ダンサー」で韻を踏んだ、ある音楽ライターから史上最悪の歌詞と評されたフレーズを持つこの曲は実に6週間もの1位を記録し、この年の年間チャートでもあの大ヒットしたホイットニー・ヒューストン「オールウェイズ・ラヴ・ユー」に続く2位となっている。

この週、最も高い順位に初登場したのは映画「モー・マネー」のサウンドトラックのためにレコーディングされたルーサー・ヴァンドロスとジャネット・ジャクソンのデュエット「ザ・ベスト・シングス・イン・ライフ・アー・フリー」で7位だった。そして、10位にはザ・スミスの「ジス・チャーミング・マン」が初登場し、翌週には8位にランクアップしている。これは1983年にリリースされたシングルの再発で、ベストアルバム「ベスト Vol.1」からの先行シングルであった。この曲が最初にリリースされた時の最高位は25位だったので、約9年がかりで更新したということになる。そして、この順位は「ヘヴン・ノウズ」「シーラ・テイク・ア・バウ」で記録した10位を超えたため、ザ・スミスが全英シングル・チャートで記録した歴代最高位ともなった。

ザ・スミスは1987年に解散し、ボーカリストであったモリッシーはこの年の7月22日にオリジナルアルバムとしては3作目にあたる「ユア・アーセナル」をリリースしたばかりであった。デヴィッド・ボウイとの活動などで知られるミック・ロンソンをプロデューサーに迎えたこの作品はグラムロックからの影響も感じられ、概ね好評だった上に全英アルバム・チャートでも最高4位のヒットを記録していた。8月8日にはロンドンのフィンズベリー・パークで開催されたマッドネス主催のライブイベント、マッドストックに出演するが、この際にレイシストをイメージさせるスキンヘッドの少年の画像の前でイギリス国旗を身にまとったことが激しく批判された。かつてモリッシーのことばかり取り上げすぎて、正式名称は「ニュー・ミュージカル・エクスプレス」ではなく「ニュー・モリッシー・エクスプレス」なのではないかとさえいわれていた「NME」もこれをきっかけに、しばらくモリッシーと訣別することになる。個人的にはこの件が誌面で大きく取り上げられたことにより、大好きなカイリー・ミノーグの表紙がなくなったことが悲しかった。

そんな微妙な時期にザ・スミスの代表曲ともいわれる「ジス・チャーミング・マン」のシングルは再発され、初めてトップ10入りしていたのであった。現在、ザ・スミスの代表曲といえば当時はシングル・カットすらされていなかった「ゼア・イズ・ア・ライト」、あるいは「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」だとされることも少なくないが、当時は「ジス・チャーミング・マン」だとするのが一般的だったような気がする。1994年に「ロッキング・オン」の増井修がやっていたビデオコンサート的なものに当時、付き合っていた女子大学生が友達と行くというので付いて行ったのだが、宮嵜広司が入手したばかりだというザ・スミスの貴重なライブ映像を持ってきたりしていた。その後、東京タワーなどに行ってダラダラしたりしていたのだが、その時に付き合っていた女子大学生の友人がザ・スミスは「ジス・チャーミング・マン」だけ抑えていればいいかな、というようなことを言っていたのをなぜだかいまだに覚えている。

それはそうとして、「ジス・チャーミング・マン」が最初にリリースされたのは1983年10月31日だったが、ジョニー・マーがこの曲を作ったのはラジオ番組「ピール・セッションズ」のためであった。当時のイギリスのインディー・ポップファンならば知らぬ者がいない伝説のDJ、ジョン・ピールの番組で、いろいろなバンドやアーティストがスタジオライブを行うという内容であった。当時、ザ・スミスはすでにインディー・ロックファンからは熱烈に支持されていて、デビュー・シングルの「ハンド・イン・グローブ」もインディー・チャートで3位まで上がっていたが、全英シングル・チャートでは最高124位と振るわない結果に終わっていた。

ザ・スミスが所属していたのはインディーレーベルのラフ・トレードだったが、同じレーベルのアズテック・カメラの曲、具体的には「ウォーク・アウト・トゥ・ウィンター」をBBCラジオで聴いて、ジョニー・マーは激しく嫉妬したという。そこで、もっとアップテンポな曲を書く必要があるという思いもあり、モータウン的なリズムが特徴的な「ジス・チャーミング・マン」が生まれた可能性はある。

モリッシーによって書かれた歌詞はそれ以前からあったようだ。これがまた、とてもユニークなものである。主人公の青年が自転車のタイヤをパンクさせていると、魅力的な車に乗った魅惑的な男性が通りがかって、乗せていってくれるという。一旦は躊躇するのだがやはり承諾し、車に乗せてもらうのだが、その途中で誘いを受ける。ここであのキラーフレーズ、今夜は出かけたい気分だけれど、着ていく服を持っていない、が出てくる訳である。この部分はどうやらモリッシーの実体験に基づいているらしく、仕事をせずにお金がなかったモリッシーには、やはり着ていく服や履いていく靴がない時期があったのだという。

そこで、さらにあの印象的なフレーズ、着ていく服がないなんていうことを、そんなにハンサムな男が気にしなければならないとは、なんてひどい話なのだろう、というのが出てくる。そして、モリッシーのあのなんともいえないシャウトのようなものがアクセントとなり、その後は雑用係の少年や指輪を返す話になるのだが、これは1972年のイギリス映画「探偵スルース」からの引用である。舞台「探偵<スルース>」を映画化したものだが、ミステリーという性格上、ネタバレになってしまう重要なファクターが「ジス・チャーミング・マン」と共通してもいるのであった。

ところで、今日の日本では見た目が美しい男性のことを「イケメン」などと表現し、「ハンサム」などとはあまり言わない。というか、かなり古くさい死語のような印象を受ける、ただしそれは当時のイギリスでも同じことであり、たとえば服のことをstitchという単語で表現するように、あえてこういった言葉を用いることによって特徴を出していたのかもしれない。

「ジス・チャーミング・マン」が「ピール・セッションズ」で放送されると反響はすこぶる良く、ラフ・トレードは「リール・アラウンド・ザ・ファウンテン」にと考えていた次のシングルをこの曲にすることを決めた。この「ピール・セッションズ」でのバージョンは、後にコンピレーションアルバム「ハットフル・オブ・ホロウ」に収録された。

スタジオ録音が行われた後、発売された「ジス・チャーミング・マン」はインディー・チャートで1位、全英シングル・チャートでも最高25位を記録した。この曲の知名度やクオリティーから考えると低すぎるように思われるかもしれないが、当時の知名度などから考えると大躍進だったといえるのではないだろうか。

ちなみに「ジス・チャーミング・マン」が最高位を記録した全英シングル・チャートはランクイン4週目となる1983年12月3日付で1位はビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」であった。「ジス・チャーミング・マン」よりも上位には、ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「SAY SAY SAY」、トンプソン・ツインズ「ホールド・ミー・ナウ」、マイケル・ジャクソン「スリラー」、ザ・スタイル・カウンシル「ソリッド・ボンド・イン・ユア・ハート」、ザ・キュアー「ラヴキャッツ」、ライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」、アズテック・カメラ「想い出のサニー・ビート」、ローリング・ストーンズ「アンダーカヴァー・オブ・ザ・ナイト」などがランクインしている。

この年の11月28日、ザ・スミスはイギリスの人気テレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に初めて出演し、「字ス・チャーミング・マン」を演奏した。インディー・ロックなのだがモータウン的なリズムを持ち、どこかポップでキャッチーなサウンドに乗せて、男性的なロックらしさとは大きくかけ離れたボーカリストがくねくねと踊り、花束を振り回しながらとてもユニークな内容の曲を歌っている。多くのイギリス国民がこのテレビ出演でザ・スミスを初めて見たといわれているのだが、当時のお茶の間はこれをどのように受け止めたのだろう。

後にオアシスの中心メンバーとして活躍することになるノエル・ギャラガーはザ・スミスと同じマンチェスター出身で、当時16歳であった。この夜の「トップオブ・ザ・ポップス」はやはり見ていたのだが、サッカーのフーリガンのような精神性を持つ周囲の友達はモリッシーのことをバカにしていたのだという。しかし、ノエル・ギャラガー自身はそれが人生を変える体験であることを認識していたと語っている。