ビートルズ「プリーズ・プリーズ・ミー」

ビートルズのデビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」はモノラル盤が1963年3月22日にイギリスで発売され、ステレオ盤は翌月、4月26日の発売だったという。5月5日付の全米アルバム・チャートで1位に輝くと、12月1日にビートルズの次のアルバムである「ウィズ・ザ・ビートルズ」に抜かれるまで、30週連続1位を記録したというのだからすごいものである。

ビートルズの名盤といえば中期から後期のの「リボルバー」「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)」「アビイ・ロード」などがあげられがちではあり、確かにそれは妥当でもあるのだが、ロックバンドとしてのプリミティヴな魅力が味わえるという点などから、このデビューアルバムもとても良い。当時のポップミュージック界のみならず、社会全体にも影響を及ぼしたであろう衝撃のデビュー作であることから、後にリリースされたいくつものアルバムがすごすぎなければ、ポップミュージック史上における評価は現在よりもっと高かったのではないかとも思える。

それはそうとして、ビートルズのデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」はイギリスで1962年10月5日にリリースされ、全英シングル・チャートでの最高位は17位であった。プロデューサーのジョージ・マーティンは後にジェリー&ザ・ペースメイカーズのヒット曲となる「恋のテクニック(原題:How Do You Want It)」をデビューシングルにと推していたようなのだが、ビートルズとしてはぜひ自分たちで書いたオリジナル曲でデビューしたいという意向があり、それが認められたのだという。

「ラヴ・ミー・ドゥ」はビートルズの前身であるクオリーメン時代に、当時まだ16歳だったポール・マッカートニーによって書かれた曲である。ジョン・レノンのハーモニカがひじょうに印象的で、これがいわゆるリバプールサウンドを象徴しているようにも感じられるのだが、これを入れるのはジョージ・マーティンのアイデアだったようだ。パーロフォンと契約した時点で、ビートルズのドラマーはピート・ベストだったのだが、ジョージ・マーティンがその演奏に難色を示したことなどにより、解雇されることになる。代わって以前から親交があったリンゴ・スターが加入するのだが、リハーサルがじゅうぶんにできていなかったことなどもあり、これにもジョージ・マーティンが不満を持つことになる。最初にリリースされたシングルにはこのバージョンが収録されたが、アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」に収録されたバージョンでは、セッションミュージシャンのアンディ・ホワイトがドラムスを演奏していて、リンゴ・スターはタンバリンで参加している。

次のシングルが「プリーズ・プリーズ・ミー」なのだが、ジョン・レノンによってつくられたこの曲は当初、ロイ・オービソンを意識したもっと遅い曲だったという。ジョージ・マーティンはヒット曲を出すためにも次のシングルにはもっとアップテンポな曲の方が良いと、ふたたび「恋のテクニック」を提案する。それでもバンドとしてはオリジナル曲を出したいということで、それならばもっとヒットしやすい感じに改良するようにという要請に応えたのが、今日よく知られている「プリーズ・プリーズ・ミー」である。これならば売れるのではないかと1963年1月11日にリリースしたところ、これが全英シングル・チャートで最高2位の大ヒットとなる。「NME」や「メロディ・メーカー」のチャートでは1位だったのだが、いわゆるオフィシャルUKチャート的なやつでは最高2位だったため、公式的には全英NO.1シングルとはされていなく、そのためNO.1ヒットのみをあつめたコンピレーションアルバム「ザ・ビートルズ1」には収録されていない。ちなみにこの時に全英シングル・チャートで「プリーズ・プリーズ・ミー」の1位を阻んだのは、フランク・アイフィールド「ザ・ウェイワード・ウィンド」とクリフ・リチャード「サマー・ホリデイ」である。クリフ・リチャードのこの曲は収録アルバムも全英アルバム・チャートで14週連続1位と売れまくるのだが、これを抜いて1位になったのが、ビートルズ「プリーズ・プリーズ・ミー」のアルバムであった。

「プリーズ・プリーズ・ミー」のシングルがあまりにも売れたものだから、レーベルとしては早くアルバムを出してしまおうという感じになったようなのだが、この時点で音源はデビューシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」とB面の「P.S.アイ・ラヴ・ユー」、2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」とB面の「アスク・ミー・ホワイ」とたった4曲しかない。ビートルズが出演していたキャヴァーン・クラブでライブ録音をしてしまおうかという案もあったというのだが、環境がそれほど良くなかったことから却下され、後にアビー・ロード・スタジオと呼ばれるようになるEMIのスタジオでレコーディングされることになった。

当時、イギリスではアルバムには片面7曲ずつの計14曲ぐらいが収録されていることが多かったようで、既存の音源が4曲あるとすれば、10曲ぐらいが新たに必要だということになる。そして、その10曲を2月11日だけでレコーディングしてしまったという。セッションは朝から夜まで休憩をはさんで行われたのだが、風邪気味であったジョン・レノンなどは最後には声が出なくなっていたという。最後にレコーディングされたのは、「ツイスト・アンド・シャウト」であった。この曲はトップ・ノーツというグループによって、1961年にレコーディングされたのだが、翌年にアイズレー・ブラザーズによってカバーされたバージョンがよく知られていて、ビートルズの演奏もこれをベースにしたものである。

シングルではオリジナル曲にこだわったビートルズだが、アルバムにはライブのレパートリーとして演奏していたいくつかのカバー曲も入れざるをえなかった。「ツイスト・アンド・シャウト」以外では、「アンナ」「チェインズ」「ボーイズ」「ベイビー・イッツ・ユー」「蜜の味」がそれにあたる。「アンナ」は「アンナ(ゴー・ヒム)」としてソウルシンガーのアーサー・アレキサンダーが歌っていた曲で、ジョン・レノンのお気に入りであった。「チェインズ」はジェリー・ゴフィンとキャロル・キングによってつくられ、R&B系のガールグループ、クッキーズが歌っていた曲で、「恋のくさり」の邦題でも知られる。ビートルズのバージョンではジョージ・ハリソンがリードボーカルを取っている。「ボーイズ」「ベイビー・イッツ・ユー」はいずれもガールグループ、シュレルズのレパートリーとして知られ、「ボーイズ」ではリンゴ・スターがリードボーカルを取っている。以前からライブで演奏していた曲であり、元々はピート・ベストがリードボーカルだったようである。「ベイビー・イッツ・ユー」はバート・バカラックが作曲した曲で、ビートルズのバージョンでのリードボーカルはジョン・レノンである。1995年にBBCセッションでレコーディングされたバージョンが、シングルでもリリースされた。

「蜜の味」は1958年にイギリスで上演された演劇のブロードウェイ版のためにつくられた楽曲で、後にハーブ・アルパートによってカバーされたバージョンも有名である。シーラ・ディレイニーによって書かれたこの演劇は映画化もされているのだが、モリッシーがとても影響を受けていて、引用したりもしている。ビートルズはライブでこの曲をロックをあまり好まない客のために演奏していたようなのだが、ポール・マッカートニー以外のメンバーは気に入っていなかったという。

このアルバムで初めてリリースされたビートルズのオリジナル曲はポール・マッカートニーの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「ミズリー」「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」「ゼアズ・ア・プレイス」の4曲ということになる。「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」はポール・マッカートニーによってつくられた歌詞で、最初のフレーズが「Well she was just seventeen」である。ポール・マッカートニーは当時、実際に17歳のガールフレンドと交際していた。その後には「Never be a beauty queen」と韻を踏んでいたのだが、ジョン・レノンにダメ出しをされて、「You know what I mean」に変更したという。

ビートルズの楽曲にはクレジット上はレノン=マッカートニーになっているのだが、実際にはジョン・レノン化ポール・マッカートニーのいずれかが主に書いている曲が少なくはないが、「ミズリー」は純粋な共作曲のようだ。一緒にツアーを回っていたヘレン・シャピロのマネージャーから頼まれて提供したものの却下され、ケニー・リンチが歌うことになったという。これが他のアーティストがビートルズの曲をカバーする、最初の例となった。「ゼアズ・ア・プレイス」はジョン・レノンによってつくられた曲で、モータウンのような楽曲を狙ったという。後の「アイム・オンリー・スリーピング」などにも通じる、内省的な世界観がじんわりと感じられたりもする。

CDことコンパクトディスクはジョン・レノンも亡くなった後の1982年に初めて発売されたのだが、日本で音楽メディアのメインストリームとしてアナログレコードを逆転するようになったのは、80年代の半ばあたりだろうか。1987年にビートルズのアルバムが初CD化された際には大きな話題となり、「ミュージック・マガジン」などでも大きく取り上げられていたと思う。最初に「プリーズ・プリーズ・ミー」「ウィズ・ザ・ビートルズ」「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」「ビートルズ・フォー・セール」の4タイトルが発売された。「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」という邦題はこのアルバムをサウンドトラックとする映画に合わせたものだが、当時、ユナイト映画の社員であった水野晴郎によってつけられたものである。サザンオールスターズのツアータイトルに引用されるなど親しまれてもいたのだが、2000年以降は原題に合わせて邦題も「ハード・デイズ・ナイト」となっているようである。

ビートルズのアルバムはイギリスやアメリカや日本などでそれぞれ内容が違うものがいろいろ出ていたりもしたのだが、初CD化されたのがイギリス盤だったため、それ以降はグローバル的にもコンセンサス化された印象が強い。個人的にビートルズの音楽を体系的にちゃんと聴いてきてはいなかったので、これは良い機会だと思い、最初に出たこの4タイトルはすべて買ったのだが、やはりすぐに金が続かなくなった。他にも買いたいものや買わなければいけないものがいろいろあったからである。それで、「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と「ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)」だけは国内盤のCDを買ったのだが、ジャケットが凝っていたり厚かったりしてかさばった記憶がある。

1987年のプロ野球では西武ライオンズが日本一に輝いて、西武グループの店などでは感謝セール的なものが行われたのだが、当時アルバイトをしていた東京プリンスホテルでもかなり盛り上がっていた。松崎しげるのあの曲が流れていた。しかし、楽しみなのは六本木WAVEのエントランスで行われていたアナログレコードのセールであり、そこで「マジカル・ミステリー・ツアー」のアルバムを買った。イギリスではEPで発売されていたのだが、アメリカではシングル曲を追加してアルバムとして発売されたということであった。ビートルズのアルバムが初CD化された時には基本的にイギリス盤がベースとなっていたわけだが、この「マジカル・ミステリー・ツアー」だけはアメリカ盤の方が採用されていた。それ以外のアルバムはタワーレコード渋谷店などで輸入盤を少しずつ買っていったりして、集めたはずである。「ふたりの世界」で全米シングル・チャート1位に輝いたティーンエイジセンセーション、ティファニーが「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」をカバーしてヒットさせていたが、ティファニーは女性アーティストなので、タイトルや歌詞も性別を変えて「アイ・ソー・ヒム・スタンディング・ゼア」としていた。