RCサクセションの10曲

RCサクセションは1970年3月5日にシングル「宝くじは買わない」でデビューしたバンドで、当時はフォークグループ的な編成であった。ブレイクはするもののマネージャーの独立騒動に巻き込まれるかたちで業界から不当に干されるなどを経てどん底を経験した後にメンバーチェンジもあり、ロックバンドとして復活を遂げた。忌野清志郎の派手なメイクやファッションといったビジュアルイメージ、エネルギッシュなステージパフォーマンスなどが評判になり、80年代には日本を代表するロックバンドとして知られるようになった。

オーティス・レディングなどのソウルミュージックや60年代のロックから影響を受けた楽曲に、忌野清志郎の文学的で時にはメッセージ性も強い歌詞がのっているのが作品の特徴であり、後により一般大衆化していく日本語のロックにあたえた影響はひじょうに大きい。

今回はRCサクセションの数ある楽曲の中から特に重要だと思われる10曲を厳選し、それらをリリース順に並べると共に簡単な説明も加えていくことによって、このバンドの音楽の魅力をコンパクトでエッセンシャルにまとめていきたい。

ぼくの好きな先生(1972)

3作目のシングルとしてリリースされ、ヒットしたとされているのだがオリコン週間シングルランキングでの最高位は70位とそれほどものすごく売れまくったわけでもなかったようである。デビューアルバム「初期のRCサクセション」にも収録されている。

忌野清志郎が高校生の頃に担任であった美術教師がモデルであり、「劣等生のこのぼくにすてきな話をしてくれた ちっとも先生らしくない」「たばこと絵の具のにおいのぼくの好きなおじさん」などと歌われている。

高校卒業後は美術大学に進学する予定だったのだが、音楽に夢中になりプロのミュージシャンになると言いはじめた息子に頭を悩ませた忌野清志郎の母の相談が、当時の新聞に掲載されていて、「どうしても大学へ行かないのなら高校を出てお勤めをしてほしいと申しますと、お勤めなどいやだ、ギターのプロになるのだと申します」「学校へまじめに行かせるにはどうしたらよろしいでしょうか」となかなか深刻だったようである。そんな母を説得したのも、この美術教師だったようである。

スローバラード(1976)

3作目のアルバム「シングル・マン」からの先行シングルとしてリリースされたのだが、当時はまったくヒットしていない。というのも、マネージャーの独立騒動に巻き込まれ、完成してからしばらく発売することができず、やっとリリースはされたもののじゅうぶんにプロモーションが行われなかったこともあり、すぐに廃盤になってしまった。

RCサクセションがメンバーチェンジを経てロックバンドとして復活した後に、音楽評論家の吉見佑子などがこんな素晴らしい作品を埋もれさせてはいけないと立ち上がり、再発運動が起こった。その結果、南青山にあったパイド・パイパー・ハウスと忌野清志郎の地元である国立のレコード・プラント限定で販売されることになったのだが、売り上げが好調だったので正式に再発されることになった。

「昨日は車の中で寝た あの娘と手をつないで 市営グランドの駐車場 2人で毛布にくるまって」という歌詞には憧れるだけだったり、実際に真似をしたファンもいたのではないかと思われる。「悪い予感の欠片もないサ」というフレーズもとても良い。クレジットはされていないが、来日していたタワー・オブ・パワーがレコーディングに参加しているようだ。

雨あがりの夜空に(1980)

オリジナルメンバーだった破廉ケンチが精神状態に不調をきたしたこともあり1977年に脱退、翌年から何名かのメンバーが入ったり抜けたりするのだが、中でもフォークグループの古井戸で活動していた頃から忌野清志郎と知り合いであったチャボこと仲井戸麗市の加入はひじょうに大きかった。

ライブの最後に演奏して盛り上がる曲をつくろうという目的で、忌野清志郎と仲井戸麗市によってジャムセッションのようなかたちで制作されたのがこの「雨あがりの夜空」で、RCサクセションの代表曲であるのみならず、日本のロック史における名曲の1つとしても知られる。

忌野清志郎が井上陽水の大ヒットアルバム「氷の世界」に提供した楽曲の印税で買ったのだという愛車が雨の日に動かなくなったという実話が歌詞になっているのだが、「どうしたんだ Hey Hey Baby バッテリーはビンビンだぜ」「こんな夜にお前に乗れないなんて こんな夜に発車できないなんて」と、性的な行為とのダブルミーニングにもなっているようであった。

当時、野外ロックフェスティバルのような映像がNHKで放送されていて、RCサクセションがこの曲を演奏する後ろで他の出演者たちも一緒に盛り上がっていた。その中にアリスのメンバーもいて、とても楽しそうにしていたのだが、当時はアリスとRCサクセションでは音楽性もファン層もずいぶん違うのではないか、というようなことを感じていた。しかし、2009年に忌野清志郎が亡くなった時の谷村新司のコメントを読んで、お互いに売れていなかった頃に同じライブに出演したりしていたことを知った。

シングルバージョンはアレンジが凝りすぎていてライブでの良さが伝わりきっていなく、ライブアルバム「RHAPSODY」に収録されたバージョンの方が良いのではないかという意見もわりと多い。

君が僕を知ってる(1980)

「雨あがりの夜空に」のシングルB面に収録された楽曲だが、とても人気が高くライブでもよく演奏されていた。

「今までしてきた悪い事だけで 僕が明日 有名になっても どうって事ないぜ まるで気にしない」と歌われるのだが、それはなぜかというと、「君が僕を知ってる」という事実こそが重要だから、という内容の曲である。

当時、初対面の人がRCサクセションのファンだと知っただけで、グッと距離が縮まる感じをよく体験したものだが、この「君が僕を知ってる」のような関係についてどう思うか、というようなことについてもよく語り合ったような記憶がある。

トランジスタ・ラジオ(1980)

RCサクセションのロックバンド編成になってからは最初のスタジオアルバム「PLEASE」からの先行シングルとしてリリースされ、オリコン週間シングルランキングでは最高86位を記録した。

「Woo授業をサボッて 陽のあたる場所にいたんだよ 寝ころんでたのさ 屋上で たばこのけむり とても青くて」という歌詞のシチュエーションにも憧れたり、実際にやってみた者も少なからずいたのではないかと思われる。

そのような状況でトランジスタラジオをつけると、ベイエリアやリバプールからのホットなナンバーが聴こえてくるわけだが、それをいまごろ教室で教科書を広げているであろう彼女と対比して、「Ah 君の知らないメロディー 聞いたことのないヒット曲」などと歌っているところもとても良い。

授業中にあくびをしていたために口が大きくなり、居眠りばかりしていたので目が小さくなってしまったというくだりのユーモラスさに加え、「ああ こんな気持 うまく言えたことがない」というフレーズの確かさが素晴らしい。

1981年の元旦から放送を開始した「ビートたけしのオールナイトニッポン」でかかっているのを聴いたことがあるような気もするのだが、記憶が定かではない。

いい事ばかりはありゃしない(1980)

「PLEASE」のアルバムに収録された楽曲で、タイトルの通りうまくいっていない状況について歌われている。どうやら新宿から中央線に乗って、国立に帰っているようである。

「金が欲しくて働いて 眠るだけ」というフレーズが深く心に響いてくるのと同時に、救いとしても機能しているような気もする。

多摩蘭坂(1981)

RCサクセションのアルバム「BLUE」に収録されたバラード曲で、忌野清志郎の文学的な才能が最も発揮された楽曲の1つだともいえる。

タイトルは国立に実在するたまらん坂に由来し、「多摩蘭坂を登り切る手前の 坂の途中の家を借りて住んでる」と歌われているように、忌野清志郎はかつてこの近くに住んでいたことがあり、現在は解体されてしまった石垣にはファンからの書き込みが多く見られた。

つ・き・あ・い・た・い(1982)

1982年には忌野清志郎がイエロー・マジック・オーケストラの坂本龍一とコラボレートした資生堂のCMソング「い・け・な・いルージュマジック」がオリコン週間シングルランキングで1位に輝く大ヒットを記録したり、RCサクセションもシングル「SUMMER TOUR」が初のトップ10ヒットとなり、「ザ・ベストテン」などにも出演していた。その存在がもは音楽界だけにはとどまらず、一般大衆的なポップアイコンとしても認知されていたといえる。

その年の秋にリリースされたアルバム「BEAT POPS」もオリコン週間アルバムランキングで最高2位という好調さであり、その1曲目に収録され後にシングルカットもされたのが「つ・き・あ・い・た・い」である。

「もしもオイラが偉くなったら 偉くない奴とはつきあいたくない」「だけどそいつがアレを持ってたら 俺は差別しない Oh, つきあいたい」という何とも風刺の効いた歌詞が印象的であり、「アレ」にはいろいろなものが当てはまるのではないかと想像することができる。

それでいて、サビではポップでキャッチーなメロディーにのせて「つ・き・あ・い・た・い」と繰り返し歌われ、そこだけ聴くとまるでラヴソングのようでもあるのがまたとても良い。

ドカドカうるさいR&Rバンド(1983)

1983年にリリースしたアルバム「OK」はハワイ録音でいろいろなタイプの楽曲を収録した充実の内容だったのだが、忌野清志郎のコンディションはいろいろあってかなり良くなかったのだという。

先行シングルとしてリリースされたのはビートルズ的でもあるラヴソング「Oh! Baby」だったが、ライブではアルバムのラストに収録されたこの「ドカドカうるさいR&Rバンド」であった。

「悲しい気分なんかぶっとばしちまいなよ ドカドカうるさいR&Rバンドさ」と歌われるとても盛り上がる楽曲ではあるのだが、「子供だましのモンキービジネス まともな奴は一人もいねえぜ」とシニカルなところもあり、実際に事務所との関係がうまくいかなくなってきてはいたようで、後に独立することにもなった。

この年の真夏に札幌の真駒内屋外競技場で開催された「HOKKAIDO SUPER JAM ’83」でサザンオールスターズと競演するのだが、桑田佳祐はその日の打ち上げでRCサクセションのステージを見て泣いてしまったと告白をする。

I LIKE YOU(1990)

1980年代半ば以降はレーベルの移籍や事務所の独立、各メンバーのソロ活動なども活発に行われるのだが、RCサクセションとしては1984年に「FEEL SO BAD」、1985年に「ハートのエース」、1988年に「MARVY」というオリジナルアルバムも発表していく。

そして、1988年には洋楽カバー集のアルバム「カバーズ」を発売しようとしていたのだが、一部の楽曲で原子力発電所について否定的な歌詞があったこともあり、関連会社に原子力発電所を持つ当時のレーベルが発売を拒否して、「素晴らしすぎて発売できません」と広告を打つ。

結局は以前に所属レーベルからリリースされ、オリコン週間アルバムランキングで初の1位に輝く大ヒットとなるのだが、言論弾圧だと忌野清志郎はブチ切れ、その頃から忌野清志郎とよく似たZERRYという人物を中心とした覆面バンド、ザ・タイマーズが活動をはじめる。

そうこうしているうちに1990年代になり、RCサクセションからは新井田耕造、Gee2woが脱退、ジャケットに忌野清志郎、仲井戸麗市、小林和夫の3名だけが写ったアルバム「Baby a Go Go」をリリースし、オリコン週間アルバムランキングで最高4位を記録する。

デジタル時代の反動なのかこの頃にはアナログ的なサウンドがいまだからこそ新鮮なのではないかというような風潮もあり、このアルバムにもレニー・クラヴィッツ「Let Love Rule」を手がけたエンジニアを起用したりしている。

確かに先行シングルとしてリリースされ、後に女優ののんによってカバーされたりもする「I LIKE YOU」にもサウンド的な温かみが感じられる。

「さあ 笑ってごらん ハハハハハ」「そのままで最高の君さ なんにも飾らなくていいさ」といったシンプルな歌詞にはどこかふっ切れたような印象も受けるのだが、この翌年にRCサクセションは無期限活動休止に入り、2009年によってこれがバンドとしての最期の作品となった。