RCサクセション「EPLP」
RCサクセションにとって初めてのベスト・アルバムとなる「EPLP」は、1981年6月1日に発売された。忌野清志郎+坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」がオリコン週間シングルランキングで1位、RCサクセション「サマーツアー」が6位、アルバム「BEAT POPS」が2位のヒットを記録するのが翌年、1982年なので、バンドの人気がぐんぐん上がっていた頃のリリースとなる。「ザ・ベストテン」の上位3曲は寺尾聰「ルビーの指環」、松田聖子「夏の扉」、田原俊彦「ブギ浮ぎ I LOVE YOU」、「お笑いスター誕生!!」ではシティボーイズととんねるずが8週勝ち抜き、金賞を受賞していた。全米シングル・チャートではキム・カーンズ「ベティ・デイビスの瞳」、全英シングル・チャートではアダム&ジ・アンツ「スタンド・アンド・デリヴァー」がそれぞれ1位であった。この約半月前にあたる5月16日に「オレたちひょうきん族」の第1回が放送され、個人的にはその時、中学校の修学旅行で泊まっている函館の旅館にいた。旭川駅前で解散した後、ミュージックショップ国原でシーナ・イーストン「9to5(モーニング・トレイン)」のシングルを買って、友人と平和通買物公園を歩いていたのだが、その時に大滝詠一「君は天然色」の話をした。よく知らないアーティストなのだが、最近やたらとラジオでかかっている。とても爽やかな曲で、少し気になっている、というような感じだったと思う。
RCサクセションは忌野清志郎の派手なメイクと衣装、逆立てた髪に独特なボーカル、ライブでの「愛しあってるかい?」などのMCがひじょうに話題になっていた。個人的に初めてその存在を知ったのは、1980年の初夏、「オリコン全国ヒット速報」に載っていた記事によってだったと思う。しかし、その内容がシングル「ボスしけてるぜ」が経営者に給料のアップを要求する曲であることから、ビジネス街の有線放送では放送禁止になっているというものだったか、廃盤になっていたアルバム「シングル・マン」が音楽評論家、吉見佑子らのはたらきかけによって再発されたというものだったかはよく覚えていない。野外でいろいろなアーティストが出演してライブを行う、現在でいうところの夏フェスのようなイベントは当時から行われていて、NHKで放送されたりもしていた。RCサクセションがそのようなライブイベントで「雨あがりの夜空に」を歌うのを見たのだが、後ろでアリスの谷村新司などもうれしそうに一緒に歌っていた。1980年10月28日にリリースされたシングル「トランジスタ・ラジオ」は、翌年の元旦から放送を開始した「ビートたけしのオールナイトニッポン」でかかっているのを、聴いたことがあるような気もするのだが、記憶が定かではない。
当時、ニュー・ウェイヴ的なバンドとして取り上げられることも多かったが、バンドとしての歴史はひじょうに長く、ここに至るまでには紆余曲折があり、忌野清志郎も「EPLP」が発売された時点では30歳を迎えていた。前身となったバンド、ザ・クローバーは中学校の同級生であった忌野清志郎、小林和正、破廉ケンチによって1966年に結成されるが、高校進学により解散することになる。その後、忌野清志郎と小林和正が他のメンバーを加えて新しいバンドを結成するのだが、ザ・クローバーの残党を意味する、リメインダーズ・オブ・ザ・クローバーと名付けられる。しかし、これも長くは続かず、結局、破廉ケンチがバンドに戻ってくるのだが、これがRCサクセションとなる。このバンド名については、「ある日、(バンドを)作成しよう」が由来だとか、忌野清志郎の夢に赤いワニがゾロゾロ出てきて、それを英語にした「Red Crocodile Succession」を略したものだ、などといわれたりもしていたのだが、実際にはザ・クローバーの継続というような意味の、「The Remainders of the Clover succession」の略がその由来だったようである。
当時はフォーク・バンド的な編成であったが、やっている内容は70年代に流行していた四畳半フォーク的なものではなく、批評性が高い歌詞を特徴とし、音楽的にはオーティス・レディングなどのソウル・ミュージックからの影響が感じられるものであった。1972年にシングル「ぼくの好きな先生」がヒットして注目を浴びるが、所属していたホリプロのマネージャーの独立騒動に巻き込まれ、仕事を干されることになる。1976年に名曲「スローバラード」も収録した名盤「シングル・マン」をリリースするが、それほど注目されることもなく、まもなく廃盤になったようである。破廉ケンチは精神に異常をきたし、バンドを脱退することになった。
「EPLP」は5枚のシングルに収録されたAB面、計10曲をあつめたコンピレーション・アルバムだが、それぞれの面にシングル曲が発売順に収録されている。A面の1曲目に収録された「わかってもらえるさ」は1976年10月11日、バンドにとっては暗黒期ともいえる時期に発売されたシングルである。B面の「よごれた顔でこんにちは」は、「EPLP」ではやはりB面の1曲目に収録されている。この頃、破廉ケンチはまだバンドのメンバーだったのだが、すでにギターを弾ける精神状態ではなく、忌野清志郎が弾いているという。「この歌の良さがいつかきっと君にもわかってもらえるさ いつかそんな日になる ぼくら何もまちがってない もうすぐなんだ」「気の合う友達ってたくさんいるのさ 今は気付かないだけ 街でそれちがっただけでわかるようになるよ」というような歌詞は、当時のバンドの状況を想像すると感慨深いものがある。
1980年代初期のRCサクセションはポップ・アイコン的な存在であり、コアな人気を支えていたのは、楽曲に対しての共感であった。しかし、それはけして万人受けするタイプだったわけでもなく、分かる人には分かる、というようなものでもあった。一般大衆的な人気のピーク時においても、おそらくそうである。そして、RCサクセションの楽曲には日常的に孤独や疎外感を感じている人達を引きつける何かがあった。よって、初対面の人がRCサクセションを好きだと聞いただけで、心の距離がぐっと近づくような感覚があった。当時、それに近い存在だったのは小説家の橋本治だったような気がする。「わかってもらえるさ」は当時のRCサクセションの状況を反映していたのと同時に、こういったタイプのファンにも共感を得やすいものだったように感じる。
「EPLP」のA面2曲目に収録された「ステップ!」は1979年7月21日にシングルとして発売された曲で、「わかってもらえるさ」との間には約2年9ヶ月以上ものブランクがある。この間に破廉ケンチがバンドから脱退し、仲井戸麗市、新井田耕造、小川銀次が加入する過程で、サウンドがよりロック・バンド的に変化していき、ライブシーンでも話題になりはじめる。「ステップ!」はそんな時期にリリースされたシングルではあるが、ジャケットには忌野清志郎しか写っていないだけではなく、音源もスタジオ・ミュージシャンによって演奏されたものであった。椎名和夫のアレンジによる、ディスコ・ポップ的な楽曲となっている。
B面には坂本九「上を向いて歩こう」のカバーが収録されていたが、「EPLP」ではやはりB面の2曲目となっている。全米シングル・チャートの歴史上、日本人アーティストによって1位に輝いた唯一の楽曲で、英語でのタイトルは「スキヤキ」であった。悲しい時でも涙がこぼれないように上を向いて歩こうという永六輔の歌詞は、ひじょうに前向きであり、この曲が長く親しまれている要因でもあると思うのだが、元々は学生運動の挫折に由来しているともいわれている。RCサクセションのライブでの定番曲にもなっていて、アルバム「ラプソディー」にもライブ・バージョンが収録されていた。ライブでこの曲を歌う前に、忌野清志郎は「日本の有名なロックンロール」と紹介しがちであった。1985年8月11日に西武ライオンズ球場で行われたライブでもRCサクセションはこの曲を演奏し、個人的にもその場にいたのだが、翌日の飛行機事故によって、坂本九は亡くなることになった。
「雨あがりの夜空に」はRCサクセションの代表曲の1つで、1980年1月21日にシングルでリリースされたが、オリコン週間シングルランキングにはランクインしていない。アルバム「ラプソディー」に収録されたライブ・バージョンの方が好きだという人が多いような印象がある。「バッテリーはビンビンだぜ」「おまえについているラジオ感度最高!」「こんな夜にお前に乗れないなんて」など、性的な隠喩が用いられているのだが、車を女性にたとえる歌詞はR&Bなどで用いられがちなダブルミーニングの伝統に則ってもいる。「こんな夜に発車できないなんて」はもちろん、「発射」にかかってもいるのだろう。忌野清志郎の愛車が雨にやられて壊れてしまった、という実話がベースになっているという。このご時世、この曲の歌詞は女性蔑視的なのではないかというような意見もあるわけだが、単なる移動の手段としての車というよりは、深い思い入れがある愛車について歌っているというところがポイントではあるだろうか。「どうしたんだHey Hey Baby」のくだりは否が応でも盛り上がるわけだが、やはりライブバージョン、というよりはライブそのものが至高というべき楽曲である。
B面の「君が僕を知ってる」がまた、ファンの間でひじょうに人気が高い曲であり、忌野清志郎の歌詞に共通する「理解者」という概念をひじょうにキャッチーにあらわしているといえる。どれだけ富や名声を得たところで、何から何まで分かっていてくれる「君が僕を知ってる」こと以上に大切なものはない、ということについて歌われている。
「ボスしけてるぜ」は1980年5月21日にシングルでリリースされたが、これもまたオリコン週間シングルランキングにはランクインしていない。会社の社長に給料を上げてくれと懇願する内容の曲で、先ほどもふれたように、歓楽街の有線放送では放送禁止になったりもしていたらしい。「少しだけでもアップね ぼくの給料」と訴える「おいら」に対し、「ボス」は「俺の方こそ上げてもらいてえな ボーズ」と返すわけだが、「ボス」と「ボーズ」が対になっているところや、それぞれ声色が使い分けられているところなどがとてもおもしろい。「やる気がしねえ」のシャウトには、パンクロック的なカタルシスさえ感じられる。そういえば、忌野清志郎の逆立てた髪はセックス・ピストルズのジョニー・ロットンを意識しているのかと思いきや、実は憧れのソウルマンに憧れてオールバックにしようとしたのだが、髪質が硬すぎて逆立ってしまった、というような話を聞いたことがあるような気もするのだが、ソースも信憑性もいまとなっては記憶がまったく定かではない。
B面はこれもライブの定番でアルバム「ラプソディー」にも収録されていた「キモちE」であり、「E」はもちろん「良い」のことである。竹の子族出身の沖田浩之のデビュー曲「E気持」がリリースされたのは1981年3月21日(大滝詠一「A LONG VACATION」、イエロー・マジック・オーケストラ「BGM」、INU「メシ喰うな!」と同じ日である)なので、「キモちE」の方が先である。「うれしいのである」を「うれCのでR」などとあらわす、嵐山光三郎のABC文体なんていうのもあった。「キモちE」においては、様々な気持ちいいシチュエーションについて歌われているのだが、ライブでは歌われているのだがレコードには入っていないものなどもあった。「牛乳飲んでる奴より」というのがよく分からなかったのだが、なんだかポップでとても良かった。
そして、最後は1980年10月28日にシングルが発売され、アルバム「PLEASE」にも収録されていた「トランジスタ・ラジオ」である。ラジオでわりとよく聴いた記憶があるのだが、オリコン週間シングルランキングでの最高位は86位とそれほど高くはなかった。アルバム「PLEASE」は最高21位を記録している。授業をサボって学校の屋上でトランジスタラジオを聴きながら煙草をふかしているというシチュエーションが描かれた楽曲で、「彼女 教科書ひろげてるとき ホットなナンバー 空にとけてった」というフレーズがとても良い。授業中あくびをしていたら口が大きくなってしまったり、居眠りばかりしていたら目が小さくなってしまったというくだりなども印象的である。この年にはキーボードロボットとも紹介されていたゴンタ2号ことGee2woが加入して、小川銀次はバンドから離れていた。
B面の「たとえばこんなラヴ・ソング」が、「EPLP」では最後の曲として収録されている。当時、忌野清志郎の歌詞を文化人のような人たちが高く評価しがちな風潮もあったのだが、そんな状況において「だけど言葉で何が言える」などと歌っていたのが、またとてもカッコよく感じられた。
2020年にはこれ以降のシングルAB面をすべて収録した「COMPLETE EPLP~ALL TIME SINGLE COLLECTION」がリリースされ、オリジナルアルバム未収録曲もわりとあるのでとても便利なのだが、当時の気分をヴィヴィッドに感じさせてくれるのはやはり、10曲入りの「EPLP」であろう。