プライマル・スクリーム「スクリーマデリカ」【Classic Albums】

プライマル・スクリームの3作目のスタジオアルバム「スクリーマデリカ」は、1991年9月23日にリリースされた。六本木WAVEの裏側の方に公園があったのだが、「新旧地図で比較する80年代と”いま” 地図から消えた東京物語」という本によると、その名称は六本木公園という意外にも直球なものだったようだ。夏の間には新発売のカルピスウォーターが売れまくっていて、自動販売機でもいつも売り切れ中だったのだが、秋になってからはどうだったのかよく覚えていない。とにかく、夕方の休憩時間にギターポップのバンドをやっているという同年代の男子と、その六本木公園で語り合っていたのだった。

彼はおそらく「NME」を読んでいて、プライマル・スクリームのインタヴュー記事が掲載されていた。それによると、ボビー・ギレスピーは現在のシーンにおいてどうこうというよりも、たとえばマーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」などにも匹敵するような歴史的名盤をつくろうとしている、というようなことを言っていたような気がする。それで、いまどきのイギリスのインディーロックバンドにも、そんなにも志が高いアーティストがいるのかと感心したことを覚えている。

なぜなら、特に1987年にザ・スミスが解散して以降、いわゆるインディーロックにはすっかり興味をなくし、ヒップホップやハウスミュージックこそがこれからの音楽だとわりと真剣に考えていて、いまだにインディーロックなどという音楽をやったり聴いたりしている人たちは、おそらく内輪ノリでやっているだけなのではないか、というような偏見をいだいていたからである。

とはいえ、80年代後半のアシッドハウスブームからの流れで、インディーロックとダンスミュージックをミックスしたような音楽がイギリスでは流行しているというような話はなんとなく把握していて、イギリスのヒット曲をジャンルを問わずに何でも詰め込んだ無節操で最高なコンピレーションCD「NOW」シリーズなどでいくつかの曲を聴いて、なるほどこういうやつかと思ってはいた。それには、1990年に全英シングル・チャートで最高16位を記録したプライマル・スクリーム「ローデッド」も入っていた。

プライマル・スクリームの中心メンバーであるボビー・ギレスピーはスコットランド出身で、後にクリエイション・レコーズを創設したりもするアラン・マッギーとも以前から知り合っていたようだ。プライマル・スクリームと並行してジーザス&メリー・チェインのドラマーでもあり、こちらの方が注目をあつめるのだが、プライマル・スクリームをやめてジーザス&メリー・チェインでの活動に専念するか、さもなくば脱退するかを迫られて、ボビー・ギレスピーはジーザス&メリー・チェインを脱退し、プライマル・スクリームでの活動に力を入れていくことになる。

クリエイション・レコーズからリリースされたシングル「クリスタル・クロッシング」のB面「ヴェロシティ・ガール」が、「NME」が企画したインディーポップのコンピレーションカセットテープ「C86」に収録されると、一部でひじょうに話題になったという。その後、プライマル・スクリームはデビューアルバム「ソニック・フラワー・グルーヴ」をリリースし、全英アルバム・チャートで最高62位を記録する。次のアルバム「プライマル・スクリーム」ではよりガレージロック色を強めるのだが、これがファンからも批評家からもなかなか微妙な反応であり、全英アルバム・チャートにもランクインしなかった。

この「プライマル・スクリーム」というアルバムに収録されていた「アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ」をDJのアンドリュー・ウェザオールがリミックスしたものが「ローデッド」になり、プライマル・スクリームにとって最初のヒット曲となるのであった。エディ・ブリケル&ニュー・ボヘミアンズ「ホワット・アイ・アム」をリミックスした海賊盤からドラムビートを、ピーター・フォンダ主演の映画「ワイルド・エンジェル」からセリフをサンプリングしたりもする。ザ・ストーン・ローゼズ「フールズ・ゴールド」、ハッピー・マンデーズ「ステップ・オン」、インスパイラル・カーペッツ「ディス・イズ・ハウ・イット・フィールズ」、あるいはザ・ファーム「グルーヴィー・トレイン」、スープ・ドラゴンズ「アイム・フリー」といった、インディーロックとダンスミュージックがミックスされた旬な音楽の感じと共通するところがあったといえる。その後、やはり同じような音楽性のシングル「カム・トゥゲザー」が全英シングル・チャートで最高26位を記録する。

1991年になるとブラーがシングル「ゼアズ・ノー・アザー・ウェイ」をヒットさせ、ブレイクするのだが、インディー・ダンス的な音楽のブームに後乗りしてきたような印象もあり、それほど長くは続かないのではないかと思っていた人たちも少なくはなかったのではないかと思われる。その少し前にはザ・シャーラタンズが「ジ・オンリー・ワン・アイ・ノウ」をヒットさせていた。また、アメリカではEMF「アンビリーヴァブル」が全米シングル・チャートで1位に輝いたり、ジーザス・ジョーンズ「ライト・ヒア、ライト・ナウ」が最高2位まで上がったりしたのもこの年の夏であった。その少し前、日本ではフリッパーズ・ギターの3作目のアルバム「ヘッド博士の世界塔」の発売が一部の音楽リスナーから熱烈に待望されていた。ネオアコースティックやインディーポップ的な音楽性で人気になったフリッパーズ・ギターがこの年の3月20日にリリースしたシングル「GROOVE TUBE」ではダンスビートの導入が大きな話題となっていた。しかし、おそらく当時の日本のメインストリームにおけるどのアーティストよりも、たとえばイギリスのインディーロックのトレンドなどとも共振していたような気もするフリッパーズ・ギターのことなので、イギリスにおけるインディーダンス的な音楽の流行にふれていたリスナーにとっては、これはごく自然な流れのようにも感じられた。そして、アルバムから先行して公開された新曲「奈落のクイズマスター」は、明らかにプライマル・スクリーム「ローデッド」からの影響も感じられるものであった。

その少し前にプライマル・スクリームはシングル「ハイヤー・ザン・ザ・サン」をリリースしていたのだが、これはアンビエントハウスのユニット、ジ・オーブとコラボレートした問題作であった。後に六本木公園で語り合うことになるギターポップバンドをやっていたあの男子は、プライマル・スクリームのことがとても好きだったのだが、「ハイヤー・ザン・ザ・サン」を理解するために、アルバイトが休みの日に何十回も繰り返し聴いた末にやっと分かったと言っていた。音楽雑誌「フールズメイト」から派生した「remix」では大絶賛されていて、個人的にはそれが紙ジャケットに入ったこの曲のシングルCDを買うきっかけにもなっていた。ポップミュージックのかつてない崇高な境地に達しようとしているような志の高さが感じられもして、この曲はすぐに気に入っていた。

そして、プライマル・スクリームは次にシングル「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」をリリースする。「ハイヤー・ザン・ザ・サン」の翌々月であり、今度はやはりハウスミュージックからの影響が感じられるもののアップテンポであり、リードボーカルはボビー・ギレスピーではなく、よりソウルミュージック的なデニス・ジョンソンであった。これがまた、あの後に六本木公園で語り合うことになるギターポップのバンドをやっていた彼を悩ませることになる。もはやプライマル・スクリームである必然性すらないのではないか、というようなことを彼は言っていたのだが、個人的にはアップリフティングなダンスミュージックで単純に良いなと感じて楽しんでいた。そして、数日後に彼と顔を合わせると、何十回も繰り返し聴いた末にまたしても完全に理解したと言っていて、「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」のことも全肯定していたのだった。

そして、その翌月にこれらのシングル曲を収録したアルバム「スクリーマデリカ」がリリースされたわけである。「ハイヤー・ザン・ザ・サン」の全英シングル・チャートでの最高位は40位、「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」は41位と、高評価を得ていたわりにいまひとつだったのだが、「スクリーマデリカ」は全英アルバム・チャートで最高8位とプライマル・スクリームにとって過去最大のヒットを記録した。インディーロックとダンスミュージックがミックスされがちな当時の空気感を真空パックしたかのようなアルバムなのだが、1曲目がまるで70年代のローリング・ストーンズのような「ムーヴィン・オン・アップ」であることによって、さらにバラエティーに富んだ感じになっていた。実際にこの曲においては、ローリング・ストーンズの作品を手がけたジミー・ミラーをプロデューサーに起用していた。この曲はアメリカではシングルとしてリリースされ、ビルボードのオルタナティヴ・エアプレイ・チャートで最高2位を記録したが、イギリスでは翌年に「ディキシー・ナーコEP」の1曲目とに収録され、全英シングル・チャートで最高11位を記録した。「スクリーマデリカ」収録曲では、これが全英シングル・チャートでの最高位となる。アルバム未収録の「スクリーマデリカ」という楽曲が、この「ディキシー・ナーコEP」には入っていた。他にビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンがアルバム「オランダ」のために書いたが収録されなかったという「キャリー・ミー・ホーム」のカバーも収録していた。

ボビー・ギレスピーは「スクリーマデリカ」の制作にあたり、ビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」からも影響を受けたということを言っている。この年にビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」からも影響を受けたアルバムとして思い浮かぶ作品といえば、一部の音楽リスナーにとっては間違いなくフリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」であり、この辺りにも共通する意識があったように思える。そして、個人的にビーチ・ボーイズ「ペット・サウンズ」のCDは1986年ぐらいに町田のレコファンで買っていたのだが、金欠時に渋谷のFRISCOと同じビルにあった頃のレコファンに売っていて、1991年の「ヘッド博士の世界塔」が発売される少し前ぐらいに、六本木WAVEでクリーム「カラフル・クリーム」と一緒に買い直していた。

「スクリーマデリカ」は「Melody Maker」「SELECT」といったイギリスの音楽誌において、年間ベストアルバムに選ばれ、翌年にはマーキュリー賞の記念すべき第1回受賞作品の栄誉にも輝いた。「NME」の年間ベストアルバムではニルヴァーナ「ネヴァーマインド」、ティーンエイジ・ファンクラブ「バンドワゴネスク」に次ぐ3位だったが、年間ベストシングルでは「ハイヤー・ザン・ザ・サン」がザ・KLF「正しい古代人」、R.E.M.「ルージング・マイ・レリジョン」などを抑えて1位に選ばれていた。

とはいえ、個人的に「スクリーマデリカ」をリリースされてすぐには買っていなかったのだが、それはシングル曲をすべて持っていたからでもあった。「ディキシー・ナーコEP」も渋谷センター街のONE-OH-NINEにあった頃のHMVでCDシングルを買っていた。1991年の秋以降はとにかくニルヴァーナ「ネヴァーマインド」が全米アルバム・チャートでの順位を毎週上げていくのを見るのが痛快であり、他にもマイケル・ジャクソン「デンジャラス」、U2 「アクトン・ベイビー」、ガンズ・アンド・ローゼズ「ユーズ・ユア・イリュージョン」などはちゃんと買って聴いていて、それでも「スクリーマデリカ」は買っていなかったので、そういうタイプのリスナーだったということである。また、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ「ブラッド・シュガー・セックス・マジック」などは発売されてすぐに買っていたのだが、ティーンエイジ・ファンクラブ「バンドワゴネスク」、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン「ラヴレス」などを買ったのは翌年になってからだったような気がする。セイント・エティエンヌ「フォックスベース・アルファ」、ピチカート・ファイヴ「女性上位時代」などは迷わず買って、かなり気に入っていたのでまったくよく分からないのである。フリッパーズ・ギターの解散にはそれほどショックを受けていなかった。

1992年の日曜日にはたいてい午前中から渋谷や西新宿や時には池袋のレコード店などをほぼ夕方ぐらいまでかけてめぐっていたのだが、確か雨の日にセイント・エティエンヌ「ジョイン・アワ・クラブ」の12インチ・シングルを買わなければいけないと思い、渋谷のパルコクアトロの近くにあったリバプールというレコード店で手に取ったのだった。他に何か買い忘れていたものを買おうと思い、その時にやっと「スクリーマデリカ」を選んだので、リリースからすでに半年以上経っていたということになる。すでに名盤としての評価が定まった旧作という感じで買ったわけだが、やはりとても良いなと感じた。自室でもこのレコードをかけることはわりと多かったのだが、1994年ぐらいに付き合いはじめた女性が何もない時に「ピピピピッピッピ」などとよく分からないメロディーを口ずさむことがあったので、それは何なのだと問いただしたところ、部屋でよくかけているレコードだという。そんなレコードは持っていないと思ったのだが、後にそれがプライマル・スクリーム「ドント・ファイト・イット、フィール・イット」であることに気がついた。

「スクリーマデリカ」がリリースされる少し前に六本木公園で「NME」のボビー・ギレスピーのインタヴューを読んでいたあの男子は、もうこの世にはいない。六本木WAVEも六本木公園もその後になくなってしまったのだが、「スクリーマデリカ」を聴く度にいまだに思い出さずにはいられない。