パール兄弟「風にさようなら」

パール兄弟の「風にさようなら」は1987年3月25日にリリースされたアルバム「パールトロン」の、アナログレコードではA面の最後に収録されていた。「イヤなことが耳について離れない モノクロームのグラビア 気のせいだと思っても」と歌いはじめられるこの曲の「モノクロームのグラビア」が一体どのようなもののことを指しているのか、当時、リアルタイムで聴いていた人たちは知っていたにちがいない。

とはいえ、パール兄弟はそれほどメジャーに売れているというタイプのバンドではなかったので、こういったタイプの音楽をそれほど主体的に追いかけているわけではない、一般大衆的な人たちにまでは知られていなかった可能性がひじょうに高い。「パールトロン」というこのアルバムそのものは、「ミュージック・マガジン」などではわりと高く評価されていたような気がする。

すでに作詞家として活躍していたり、少年ホームランズ、ハルメンズなどのメンバーとしてデビューも果たしていたサエキけんぞうは、ロックボーカリストでありながら歯科医でもあることなどで話題になってもいた。ハルメンズのメンバーでもあった上野耕路は戸川純らとゲルニカを結成したりもするのだが、1982年12月29日に行われたハルメンズの解散ライブには、戸川純や後にポータブル・ロックやピチカート・ファイヴのボーカリストとして活躍する野宮真貴なども参加していた。

サエキけんぞうが近田春夫&ビブラトーンズ(人種熱)のギタリストとして活動していた窪田晴男などと新たに結成したバンドがパール兄弟で、1986年にアルバム「未来はパール」でレコードデビューを果たしている。サエキけんぞうの鋭くてユニークな歌詞と味のあるボーカルや、他のメンバーによる高い演奏力などで、一部ではわりと人気があった記憶がある。2作目のアルバムにあたる「パールトロン」では、当時、流行していた新感覚のSF小説、サイバーパンクの要素を取り入れた千葉シティのご当地ソング「TRON岬」など、多彩な音楽性とポップ感覚が際立った素晴らしいアルバムであった。カントリー&ウェスタン的でもある「ケンタッキーの白い女」がシングルカットされ、「風にさよなら」はそのB面にも収録されていた。

この翌週にあたる4月1日にはピチカート・ファイヴのアルバム「カップルズ」がリリースされているのだが、後に名盤としての評価が定着するこの作品も、当時はメインストリームで似ているものがあまりにもなさすぎて、どのように評価すればいいのか分からない人たちも少なくはなかったような気がする。個人的にこのアルバムはリリースされてからわりとすぐに、渋谷のCSVというレコード店で買ったのだが、やはりよく分からず、まったく聴かなくなっていた記憶がある。また、この年の5月21日にはザ・ブルーハーツのデビューアルバム「THE BLUE HEARTS」がリリースされ、熱烈に迎え入れられるのだが、確かにこれも衝撃的であり、個人的にもしも14歳ぐらいでこのバンドに出会っていたとすれば、夢中になっていたであろうし、そもそも洋楽など聴く必要もなかったのではないか、などと思ったりした。しかし、それには自分自身がすでに歳を取りすぎているようにも感じられた。

それまで、メインストリームで流行している音楽については、好き嫌いこそあれ、どこが良いのか理解ぐらいはできていたのだが、当時、大ブレイクしていたBOØWYについてはまったく分からず、すでに20歳を超えていたこともあり、いよいよ流行っている音楽のリスナーとしては現役引退を迫られているような気分になっていた。ずっと好きだったRCサクセションはバンドとしての活動は少し休んでいて、忌野清志郎はイアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズのメンバーとレコーディングした初のソロアルバム「レザー・シャープ」をリリースしていた。この時のライブには、中野サンプラザと渋谷公会堂の2ヶ所に行った。

このような状況で、パール兄弟の「パールトロン」は一般大衆的に流行しているレコードとはけしていえなかったのだが、当時の個人的な音楽ファンとしてのツボにわりとハマっていて、この年にリリースされた日本のアーティストによるニューアルバムの中では、特にお気に入りの1枚であった。そして、「風にさようなら」で歌われている「モノクロームのグラビア」はおそらく、「パールトロン」がリリースされる約1年前、1986年4月8日の昼下がりに撮影され、その少し後に発売された写真週刊誌などに掲載されたものだと思われる。

記録によるとその日、東京の最高気温は15.8度で、天候は晴れのち曇りだったようだ。個人的には東京ではなく神奈川県にいたのだが、それほど大差はなかったように思えるし、やはり晴れていた記憶がある。大学の入学式から数日が経ち、その日は厚木のキャンパスでオリエンテーションがあった。入学式は渋谷だが、オリエンテーションが行われたのも、それから通うことになるキャンパスも、小田急線の本厚木駅から少し歩いたところにある神奈川中央交通のターミナルから、バスで約30分ぐらいのところにあった。とりあえずいろいろと終わって、帰路についていた。小田急相模原の駅までたどり着いた時点で大移動という気分なのだが、そこから住みはじめたばかりのワンルームマンションまでは、さらに徒歩で15分ぐらいあった。

相模台商店街に、オーム堂というレコード店があった。書店とレコード店を日常的に覗くのは、習慣のようなものである。レコード店は小田急の駅ビル的なものの中にももう1軒あり、記憶が定かではないのだが、新星堂だったような気がなんとなくしている。オーム堂は当時はいろいろなところに普通に存在していた、いわゆる街のレコード屋さんである。岡田有希子の「ヴィーナス誕生」をそういえば買っていなかったなと思い、レジに持っていって購入したのだった。店員が怪訝そうな反応をしているようにもマイルドに感じられたのだが、大学生ぐらいにもなってアイドルのレコードを買っていることに対するそれであろうとなんとなく解釈し、こちとら他の音楽もいろいろ聴いている上に、あえてこういうのも買っているのだという気分で、颯爽と店を出た。特に「ヴィーナス誕生」は先行シングルでオリコン週間シングルランキングにおいて初の1位に輝いた「くちびるNetwork」を作曲しているのが坂本龍一で、アルバムはこの曲を含め、全曲をムーンライダーズのかしぶち哲郎が編曲しているということで、そういった面でもひじょうに興味深かった。

ワンルームマンションに帰り着き、「ヴィーナス誕生」のレコードをターンテーブルに載せ、プレイヤーの針を落とした。肩を出した衣装を着て、頬杖をつきながらこちらを見つめる岡田有希子が写ったジャケットは、マンションの白い壁に立てかけていた。1曲目の「WONDER TRIP LOVER」からして、かなり実験色の強いテクノ歌謡のような曲でとても良い。作詞がEPOで、作曲は坂本龍一である。デビュー当時の竹内まりやによるキャンパスポップ的な楽曲の数々もイメージに合っていてとても良く、実はそれこそが真骨頂なのではないかというような気もしないでもなかったのだが、これはこれでまた良いのではないかと感じた。

岡田有希子のデビューシングル「ファースト・デイト」は、1984年4月21日にリリースされ、オリコン週間シングルランキングで最高20位を記録した。80年代はアイドルブームで、毎年かなりの人数がデビューしていた。1982年にデビューした中森明菜、小泉今日子、堀ちえみ、石川秀美、早見優などがベストテンの常連になり、前の年の秋にデビューした松本伊代と共に「花の82年組」などと呼ばれるようにもなったこともあり、その勢いはさらに加速しているようにも思えた。岡田有希子と1文字違いの岡村有希子というアイドルも、同じ年にはデビューしていたような気がする。この年のヒットチャートではチェッカーズの大ブレイクと吉川晃司の登場が印象的だったが、女性新人アイドルでは岡田有希子と菊池桃子に特に人気があった。

岡田有希子にはどこか優等生的なイメージがあったが、実際に愛知県内でトップクラスの成績だったといわれている。両親から芸能界入りを反対され、それに対してハンガーストライキなどで対抗する意志の強さを見せたという。どうしても芸能界に入りたいといって聞かないので、条件として優等生の岡田有希子でも難しいだろうという、相当に高いハードルを課したところ、必死の努力によってそれもクリアしてしまったという。オーディション番組「スター誕生!!」で合格し、サンミュージックに入ることになったのだが、目標は山口百恵や松田聖子のような日本を代表するトップスターだったという。実際にデビュー3枚目のシングル「-Dreaming Girl-恋、はじめまして」で初のトップ10入りを果たし、年末の賞レースでもレコード大賞最優秀新人賞をはじめ、様々な賞を受賞するなど、目標に向かって順調に進んでいるようにも思われていた。

1985年4月1日からフジテレビでバラエティ番組「夕やけニャンニャン」が放送を開始し、そこに出演している主に現役女子高生の素人という設定になっている、おニャン子クラブが大人気となった。7月5日には「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビューまで果たしてしまい、しかもそれがヒットしたのであった。その後も派生ユニットやソロデビューなど、おニャン子クラブ関連のレコードが次々と発売されては、大ヒットしていた。この年にも引き続きアイドル歌手は多数デビューしていたのだが、斉藤由貴や中山美穂、本田美奈子といった一部を除いては、おニャン子旋風の前で影が薄くなってしまったといわざるをえない。

岡田有希子はデビュー当時のキャンパスポップ的な路線を脱し、シティ・ポップ的な「Summer Beach」、ニュー・ウェイヴ的な「Love Fair」などをシングルとしてリリースし、それぞれヒットはさせていたのだった。11月からは主演するテレビドラマ「禁じられたマリコ」の放送が開始されるが、超能力少女というひじょうに攻めた設定であり、それにかなり努力して対応しているようにも見えた。当時、予備校生であった私は、それを仲間たちとネタ的に消費しては、おニャン子クラブのメンバーでは誰が良いかというような話をしていたような気がする。

翌年、おニャン子クラブ関連では新田恵利「冬のオペラグラス」、うしろゆびさされ組「バナナの涙」、国生さゆり「バレンタイン・キッス」、河合その子「青いスタスィオン」などが、年始から春先にかけて立て続けに大ヒットしていた。そんな中、岡田有希子はサンミュージックの先輩であり、結婚後、芸能活動を休止していた松田聖子が作詞し、坂本龍一が作曲をした「くちびるNetwork」で、オリコン週間シングルランキングで初の1位に輝いていた。テクノ歌謡的でもあるこの曲は、音楽的にもデビュー当時の竹内まりやのキャンパスポップ路線から大きく変わっていたが、歌詞においても男性を誘うような大人っぽい設定が用いられていた。

時計を見ると午後6時までまだ少し時間があって、フジテレビでは「夕やけニャンニャン」の最後の方がまだ放送されているはずである。それで、「ヴィーナス誕生」の再生は一旦中断して、14インチのテレビをつけた。スタジオから報道センターを呼び出すところだったが、そこでは18時から放送されるニュースのヘッドラインが紹介される。以前は司会の片岡鶴太郎と逸見政孝アナウンサーとの間で、冗談ぽいやり取りが見られることもあったのだが、片岡鶴太郎はすでに番組を卒業していたような気がする。いつも見慣れたルーティン的な進行ではあったのだが、報道センターからアナウンサーはニュースのヘッドラインとして、岡田有希子の自殺がショッキングだったと告げた。一瞬、このテレビの画面に映ったアナウンサーが一体、何をいっているのかさっぱり理解できなかった。そして、少しの時間をおいて分かったことは、壁に立てかけたジャケットで微笑むこのアイドルは、もうこの世にはいないということであった。

その現場写真がそのまま写真週刊誌などに掲載され、生々しすぎると話題になったりした。そこに至るまでの経緯や、原因についての憶測などがいくつも報道され、後を追う若者たちが続出したことから、岡田有希子のニックネームを取って、ユッコシンドロームなどと呼ばれたりもした。個人的に視聴者やリスナーとしてアイドルを消費し、時にはそれについての文章を発表していたりもしたのだが、この悲しい出来事に加担してはいなかっただろうかと、自責の念にかられたりもした。それは若さゆえでもあって、あまりにもナイーヴで自意識過剰にも思えたのだが、当時、プロの音楽評論家などの中にもこの件がきっかけでアイドルについての文章を書くことを一切やめてしまった人などもいたということを、後に知ったりもした。

パール兄弟の「風にさようなら」は、つまりこのことについて歌われた曲である。アイドルに歌詞を提供してもいたサエキけんぞうにとっては、やはり無関係だとは思えなかったのだろう。この曲の歌詞がこの件についてのみならず、自分自身の日常に対しての姿勢などにも言及していることから、その真摯さが伝わりもする。「ごめんね、そっとしたままで」「さよならをくりかえす晴れた日の午後だよ」と歌われるサエキけんぞうのボーカルはとても優しく、今年もこの季節が訪れると聴くことになる。