岡村靖幸「靖幸」が発売されてから33年が経ったことなどについて

岡村靖幸の3作目のアルバム「靖幸」が発売されたのは1989年7月14日で、前日には山口県宇部市で道重さゆみが生まれている。そうとも知らず普通に大学で講義に出席した後、渋谷ロフトの1階にあったWAVEで、あのピンク色のジャケットのCDを買って、調布市柴崎のコーポオンタに帰ったはずである。

生まれてこの方さまざまなポップ・ミュージックをいろいろ聴いてきて、これはすごいなと思うものもたくさんあるのだが、個人的に好きなアルバムのオール・タイム・ベストを決めるとするならば、1位が岡村靖幸「靖幸」で2位がフリッパーズ・ギター「カメラ・トーク」というのは、ここしばらくほとんど変わっていないような気がする。3位以下はわりとよく変わっているのだが。世間一般的なそれぞれの最高傑作アルバムといえば、岡村靖幸ならば「家庭教師」、フリッパーズ・ギターの場合は「ヘッド博士の世界塔」ということになっているかと思われるのだが、個人的な好みでいうならば、いずれもその1つ前のアルバムということになる。完成度が高まりきる寸前の方が好きということかもしれないのだが、必ずしもそうとはいえないかもしれない。

岡村靖幸は影響を受けたアーティストとして、プリンス、ビートルズ、松田聖子を挙げていた。それぞれのジャンルや時代におけるトップアーティストである。NHK総合テレビの「ジャストポップアップ」で岡村靖幸が過剰に感情を込めて松田聖子「Sweet Memories」を歌っている横で、フリッパーズ・ギターがイライラしていた、というような文章をどこかで読んだことがあるような気がするのだが、その映像を実際に見たことがあったかどうかについては記憶が定かではない。小山田圭吾はフリッパーズ・ギタ-解散後、コーネリアスのリミックス・アルバム「96/69 <地球あやうし!!>」で岡村靖幸にリミックスを依頼していたと思う。

それはそうとして、岡村靖幸の2作目のアルバム「DATE」がオリコン週間アルバムランキングで最高42位だったのし対し、「靖幸」が最高4位なので、この間に人気や知名度がかなり上がったと推測される。特に大きなシングルヒットがあったわけではないので、ナチュラルかつ地道に上がっていったのではないかと思われる。とはいえ、個人的に岡村靖幸の音楽を聴くようになったのも「DATE」からであり、その後のシングル「聖書<バイブル>」「だいすき」「ラブ タンバリン」などがとても良かった。

1988年の春休みで旭川の実家に帰省していて、次の日には東京(正確には神奈川県の小田急相模原)に戻ることになっていた夜に、「ロッキング・オンJAPAN」の最新号を買った。岡村靖幸のインタヴューは後ろの方の白黒のページに載っていたと思うのだが、なぜか少し気になったのだった。ラジカセでFM北海道を聴いていると、最新アルバム「DATE」から「19(NINETEEN)」がかかって、ジョージ・マイケル「FAITH」に似ていなくもないとは思ったものの、その独特の言語感覚や単純に楽曲のカッコよさに度肝を抜かれた。それで、翌日に小田急相模原のドミール相模台に戻ってから、すみやというCDショップで「DATE」のCDを買った。その内容があまりにも素晴らしすぎて、この年はほとんどそればかり聴いていた。

バブル景気というのは1985年秋のプラザ合意をきっかけとしているといわれているのだが、「DATE」が発売された頃にはそういったムードも俄然強めになっていて、その影響はいわゆる恋愛市場に流れていった。そして、ユーミンこと松任谷由実のいわゆる「純愛三部作」や村上春樹の「ノルウェイの森」などに象徴される、いわゆる「純愛」ブームの勃発である。原田知世と三上博史が主演して、松任谷由実の音楽がフィーチャーされた映画「私をスキーに連れてって」や、公開お見合いをエンターテインメント化した、とんねるずがMCのバラエティ番組「ねるとん紅鯨団」が流行ったのもこの頃である(「靖幸」収録の「ラブ タンバリン」で歌われる「このバラ持ってTVの男達のように 告白タイムを見つけ出したい」とは、まさにこの番組のことを歌っている)。そして、1988年にはソウルオリンピックがあって、水泳の鈴木大地選手が大活躍したのだが、男性向けライフスタイル雑誌の「POPEYE」が「モテる度ナンバーワン 鈴木大地になるマニュアル」という特集を組み、後にスチャダラパー「N.I.C.E. GUY」で「いまモテモテは鈴木大地タイプ」と取り上げられることになる。

経済的にはベーシックにそこそこ豊かなので、それほどハングリー精神や深刻な悩みもなく、ただしモテだけは強迫観念に近いレベルで深刻な大問題である。ゆえに、岡村靖幸はリアルだったといえる。「DATE」に収録された「いじわる」という曲は素晴らしいエロファンクなのだが、性愛がコミュニケーションの希求として取り上げられているという点で、プリンスに通じるものがある。岡村靖幸の楽曲の中でもそれほど屈折していない純粋なラヴソングとして「だいすき」が挙げられるが、「ねえ 三週間 ハネムーンのふりをして旅に出よう」という多幸感あふれるフレーズの後、「もう劣等感ぶっとんじゃうぐらいに熱いくちづけ」と続く。ここに「劣等感」というワードが入ってくることによって、岡村靖幸は信用するに値すると思えるのである。だからこそ、「君が大好き」というシンプルでありふれた感情についての、「こんなに大事なことはそうはないよ」という説明にもリアリティーがある。

「靖幸」の4曲目に収録された「友人のふり」はアルバム収録曲の中でもひじょうに人気があり、後にシングル・カットもされるのだが、失恋した女友達の話し相手や理解者にはなるものの、けして恋人にはなれないという煮え切らなさがテーマになっている。そして、どうしてそうなのかという疑問に対する答えも「あんまりもてなかった方だし 臆病で正直じゃないから」と歌われている。この純情ハートの俺的な曲が、「イカす身体の video girl」との情事について歌ったエロファンク「どんなことをして欲しいの僕に」の次に収録されているというのも、またとても良い。これらはまったくタイプの違った曲のようでもあるのだが、どちらも深刻で切実であり、まったく矛盾してもいないといえる。

なぜなら、ここにおいても性愛はそれでもコミュニケーションの希求であるべき、という建前はあり、それが「夢があるのなら 遊んでなんかないで 教えて それってイカス?」という免罪符的なフレーズにあらわれている。「DATE」収録の「いじわる」は、「君の理解者になりたいんだ。それはそうとして、どのやり方が一番気持ちいい?」 という天才的なセリフで終わっていたことが思い出される。それにしても、この「どんなことをして欲しいの僕に」なのだが、原田真二的なポップ感覚も感じられて、なかなか味わい深い。そして、「あなたの生き方 ダイッ嫌いだよ でもさ拒めない」というフレーズである。

フジテレビで土曜の深夜に「オールナイトフジ」という番組が放送されていて、遊んでいる系の若い女性がオールナイターズとしてたくさん出演していた。岡村靖幸は当時のインタヴューで、この番組に出演しているような女性たちのことを快く思っていないところもありながら、それでも見続けることをやめられない、というようなことを言っていた。個人的にやはり土曜の深夜にはワンルームマンションで「オールナイトフジ」をつけているタイプだったので、これには大いに共感した。とはいえ、「靖幸」が発売された頃にはTBSテレビで「イカ天」こと「三宅裕司のいかすバンド天国」がはじまっていたので、すでにそっちの方を見るようになっていた。

バブル景気の時代に、特に会社員の男性などは現在よりもたくさんお金を持っている人たちが多かったように思える。それで、女子大生などを高級レストランやバーやホテルなどにも連れていけるため、そういったタイプの不倫については、日常的にも聞かされていた。大学で仲のよかった女子などが下北沢のいかにも学生向けのリーズナブルな飲食店で、赤ワインなどを飲みながらそういった話をしてくる。自慢をしたいわけではなく、怒られるために話しているようにも思われた。トータル的に経済的には豊かだったので、平成の援助交際や令和のパパ活などと基本的にやっていることは同じでも、お金のためというよりは好奇心を満たすようなところが強かったように思える。

そして、岡村靖幸の「聖書<バイブル>」がまさにそういったことをテーマにしていて、これがポップソングのテーマになるのかとか、モヤモヤしていたことをよくぞ表現してくれたとか、いろいろな感情が生まれたのであった。「Teenagerのあなたが なんで35の中年と恋してる」「だって奥さんもいる妻帯者」という状況に対し、「このままじゃ僕はちぎれそう」と切実な反応をしている。そして、なぜそうなってしまうかというと、「きっと本当の恋じゃない汚れてる 僕のほうがいいじゃない」ということである。その理由として同級生でバスケット部で身長が179cmであることなどが挙げられるのだが、それ以上に「実際青春してるし」というところが最も重要であるような気もする。

「青春」という言葉は80年代の初めあたりにはすでにパロディーの対象というか、ビートたけし辺りから「『あの夕陽に向かってダッシュよ!』ってどこ行くんだ!」などとバカにされてもいたわけで、すでに時代錯誤的であったともいえる。しかし、いろいろこじれていったり、物質主義的な恋愛観が「純愛」として蔓延るようなご時世、やはり最も大切なのは「青春」的なものなのではないか、という結論に達したようにも思える。

「靖幸」の1曲目に収録された「Vegetable」はロカビリーやリトル・リチャード「トゥッティ・フルッティ」などからの影響も感じられる、音楽的にまたしても新境地的な楽曲ではあるのだが、メッセージとして最も重要なのは、「青春しなくちゃまずいだろう」ということである。

「Boys」はボイスサンプルを用いたサウンド的にもユニークな楽曲だが、子供は部屋の中でゲームをやるよりも外で遊んだ方がいいということや、電車の中で漫画を読む大人はダサいのではないだろうかとか、レンタルビデオとかコンビニエンスストアとかファミコンとか、ひじょうに便利で豊かな世の中だが、自分自身は一体どうなのかとか、様々な問題が提起される。そして、「僕達は子供の育てられるような立派な大人になれるのかなあ?」と結ばれるのだが、リリースから33年後の価値観からすると、古めかしく感じられるところもあるのだが、ただ享楽的に踊っているか踊らされているかしていたような気もするあの時代に、このメッセージ性はわりと深かったのではないかと思える。そして、岡村靖幸はこの翌年、アルバム「家庭教師」収録の「祈りの季節」において、「性生活は満足そうだが 日本は子沢山の家族の減少による高齢化社会なの?」「Sexしたって誰もがそう簡単に親にならないのは 赤ん坊より愛しいのは自分だから?」などと歌うことになる。

続いて音楽性としてはかなり変わってジャジーなバラード「愛してくれない」なのだが、トレンディーでアーバンなムードがありながらも、「今週 来週 再来週 して欲しいくちづけ」と「たとえ君のパパに殴られても」の愛欲と暴力の対比にスローモーションの映像が浮かぶ。「Punch↑」では曲のはじめにいやらしいとか生意気だとか自信過剰とか人を見下してる目つきといった、岡村靖幸の悪口のようなものが噂話的に入り、それらを「シャラップ!」と一蹴した後でプリンス的な打ち込みファンクに突入、ホーンセクションや「聖書(バイブル)」のシングル・バージョンを思わせるフレーズなども入り、もしも戦争が起こったとしたら一体、何が自分にできるだろうという自問自答から、だったら結婚をして子供をつくって育てよう、というような提言に続いて「分かってんの?」と確認を求めた後で突然にタンゴという目まぐるしさである。

そして、アルバムの最後に収録された「バスケットボール」は最も普通のポップソングに近く、大人たちに理解してもらえないのだが、両親を悲しませたくはない、彼氏になりたいと思っている相手からは友達のままでいたいと言われる、そういったよくあるタイプの切なさが歌われ、ビートルズ「ノーホエア・マン」を思わせるフレーズなどもある。アルバム全体はひじょうに情報量が多いのだが、この曲が最後に収録されていることによって、どこか爽やかな聴後感も残る。

「ミュージック・マガジン」が創刊50周年を迎えた2019年に「50年の邦楽アルバム・ベスト100」という特集を組んでいて、岡村靖幸「家庭教師」は11位に選ばれていた。1990年以降にリリースされたアルバムとしては、ゆらゆら帝国「空洞です」、フィッシュマンズ「空中キャンプ」に次いで3番目に高い順位で、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」よりも1ランク上である。一方で、「靖幸」は200位にも入っていない。これは随分と差がついたものだが、世間一般的な認識というのもこういった感じなのだろうか。確かにクオリティーは「家庭教師」の方が高いとも思えるのだが、やはり個人的にはこのアルバムが一番好きだなと、今年も再認識したのであった。