ジョイ・ディヴィジョン「クローサー」について

ジョイ・ディヴィジョンの2枚目にして最後のスタジオアルバム「クローサー」は、ボーカリストのイアン・カーティスが自らの命を絶った約2ヶ月後にあたる、1980年7月18日に発売された。全英アルバム・チャートでは11位に初登場し、その翌週の6位が最高位となっている。その週の上位5作はディープ・パープル「ディーペスト・パープル」、オリジナルサウンドトラック「ザナドゥ」、ローリング・ストーンズ「エモーショナル・レスキュー」、ロキシー・ミュージック「フレッシュ・アンド・ブラッド」、クイーン「ザ・ゲーム」、7位以下はジョージ・ベンソン「ギヴ・ミー・ザ・ナイト」、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ「若き魂の反逆児を求めて」、マイケル・ジャクソン「オフ・ザ・ウォール」などとなっている。

ちなみにジョイ・ディヴィジョンのデビュー・アルバム「アンノウン・プレジャーズ」は1979年6月15日に発売されたのだが、この時には全英アルバム・チャートにランクインすらしていない。「クローザー」よりも後の1980年8月30日付のチャートで71位に1週だけ入ったのが最初で、それから約39年後の2019年に発売40周年を記念してリイシューされた時に初登場5位を記録して、最高位を更新している。この頃、このアルバムを聴いたことがあるどころか、知っているのかすら怪しいと思われる若者たちなどがジャケットアートワークがプリントされたTシャツを着ているのをよく見かけたような気もするのだが、個人的にはよく知らないアルバムのジャケットアートワークなどがプリントされたTシャツなどを、デザインが気に入っているというだけの理由で着ることには好感しかなく、それについてとやかく言う人たちには気持ち悪さしか感じない者である。

それはそうとして、当時の全英アルバム・チャートの順位だけを追っていくと、ジョイ・ディヴィジョンはイアン・カーティスが亡くなってから初めて一般大衆的にもちゃんと売れたということができる。代表曲として知られる「ラヴ・ウィル・テア・アス・アパート」はやはりイアン・カーティスが亡くなった後にリリースされ、全英シングル・チャートで最高13位を記録するのだが、この曲は「クローサー」に収録されていない。全英シングル・チャートにおいても、ジョイ・ディヴィジョンがランクインするのはこれが初めてであった。

1980年といえば日本ではYMOことイエロー・マジック・オーケストラを中心とするテクノポップが社会現象的なブームとなり、田原俊彦、松田聖子のブレイクによりフレッシュアイドルの楽曲がヒットチャートの上位に戻ってきたり、山下達郎「RIDE ON TIME」のヒットによって後にシティ・ポップと呼ばれるようなタイプの音楽がお茶の間にも広まったり、テレビでは中高年の娯楽というイメージが強かった漫才が若者の間でブームになるということなどがあったわけだが、ジョイ・ディヴィジョン「クローサー」が発売された時点で全米シングル・チャートの1位はポール・マッカートニー「カミング・アップ」で、これは日本のラジオでもよくかかっていた。ただしアメリカではヨーロッパや日本などではシングルのB面に収録されていたグラスゴーでのライブ・バージョンの方がA面として発売されていた。個人的にこの頃は中学2年でなんとなくモテそうだからという理由のみで洋楽のレコードを買いはじめていたのだが、最初の1枚がポール・マッカートニー「カミング・アップ」であった。

しかし、ジョイ・ディヴィジョンのことはまったく知らなかったし、初めて聴くまでにはかなりの時間を要することになった。ニュー・オーダー「ブルー・マンデー」の12インチ・シングルがイギリスでものすごく売れているという話題を「ロッキング・オン」で知り、実際にNHK-FMの何らかの番組でかかったそれをカセットテープに録音するのだが、機械的なドラムビートや暗いボーカルなど、それまで聴いていたヒット曲とはかなりイメージが異なるものであった。しかし、ニュー・ウェイヴを聴いているようなタイプの女子にはやはりモテたかったので、やはりそれだけの理由でニュー・オーダー、ザ・スミス、ザ・キュアー、エコー&ザ・バニーメンなどの暗い音楽を聴いていると、なんとなくこういうのも悪くはないのではないかと思えるようになっていった。「ブルー・マンデー」のドラムビートなどは高校の休み時間に友人とよく口真似などをしては、周囲から薄気味悪がられていたような気がする。

それで、ニュー・オーダーの前身バンドとしてジョイ・ディヴィジョンというのがあったなどと、ロック・ヒストリー的な雑誌の記事か書籍か何かで知ることになるのだが、アメリカ・ツアーに出発する直前にボーカリストのイアン・カーティスが自らの命を絶ったことによってバンドは消滅、残りのメンバーによってニュー・オーダーが結成された、などということを知ると、イギリスの暗いバンドたちの中でもレベルが違うような気がしていた。EPOや角松敏生のカセットをかけながら車で江ノ島にいくようなキャンパスライフを偽装して失敗し、パーティーでもなぜかケイト・ブッシュやエコー&ザ・バニーメンなどが好きな暗い女子としか仲よくなれないという状況ではあったのだが、それでもジョイ・ディヴィジョンはまだ聴いていない。そして、おそらく1991年の初夏のあたりだったと思うのだが、何かしらのCDを買おうという気合いはあるものの、特にこれをと決めていない状態で六本木WAVEを何時間もかけてうろつくという至福の時間を送っている最中に、ジョイ・ディヴィジョン「クローサー」のCDに「パンク以降最も重要なアルバム」というような店員の手書きポップが付いているのを発見する。名盤ガイド的なものでなんとなく認知はしていたので、これはいよいよ買う時期なのではないかと思い、まだ照明が明るかった頃(1992年秋のリニューアルで薄暗くなる)のレジカウンターに持っていったのであった。R.E.M.「アウト・オブ・タイム」やムーンライダース「最後の晩餐」よりも後で、フリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」などよりも少し前に買ったような気がする。新発売のカルピスウォーターがすでにバカ売れしていたかについては、よく覚えていない。

それで、調布市柴崎のコーポオンタに帰り着いてからステレオで再生してみたのだが、1曲目の「アトロシティ・エクシビジョン」からして、まずイントロのリズムが独特で、ノイジーなギターが入ってきたりもして、ボーカルがとにかくとても暗いのが印象的である。しかし、何だか行ききっているがゆえなのかどうかはよく分からないのだが、極北的なポップさのようなものを感じなくもない。そして、繰り返される「This is the way, step inside」というフレーズが印象的である。このレコーディングの少し後にイアン・カーティスが自らの命を絶ったという歴史を知っているため、それと無関係に聴くことはわりと難しいのだが、その兆候はかなりあらわれているのではないか。

その次の「アイソレーション」などはタイトからしてすでに孤立しているわけだが、乾いたリズムとミニマルなサウンド、そしてやはりとても暗いボーカルが特徴的である。どのような意識で歌われているのかすでによく分からないのだが、閉塞的な状況における躁状態のようなノリがひじょうにヤバめでもいありながら味わい深い。全9曲で約44分と、当時のアルバムとしては最もありがちな演奏時間なのだが、その密度はものすごく濃い。暗く閉塞的ではあるのだが、突き抜けたポップ感覚のようなものが根底に感じられ、それによって意外と聴きやすくなっているように思える。ポスト・パンクというジャンルのエッセンスが高いレベルで凝縮されたようなアルバムで、いまだに消費され尽くされていないところが残されているように感じられる。

アメリカ・ツアーの直前にメンバーがいなくなるといえば、1995年のマニック・ストリート・プリーチャーズが思い出される。失踪したギタリストのリッチー・エドワーズにはいくつかの目撃情報もあったのだが、結局は行方不明のまま、2008年に死亡宣告が出されている。リッチー・エドワーズの家族からの希望もあり、バンドは残りのメンバーで継続することになるが、その時のイメージづくりなどにはニュー・オーダーを参考にしたともいわれる。