マイケル・ジャクソン「スリラー」について。

マイケル・ジャクソンのソロ・アーティストとして6作目のアルバム「スリラー」は、1982年11月30日にリリースされた。

幼い頃に兄弟のグループに加入し、それが後にジャクソン5という名前で活動するようになるのだが、ライブ活動を行ったりスティール・タウン・レコーズからシングルをリリースしたりを経てモータウンと契約し、1969年にダイアナ・ロスに見いだされたという設定でメジャーデビュー、シングル「帰ってほしいの」から「ABC」「小さな経験」「アイル・ビー・ゼア」と連続して全米シングル・チャートで1位に輝く。

マイケル・ジャクソンはジャクソン5のリードボーカリストで、まだ変声期を迎えていなかった。その後、ソロ・アーティストとしてもシングル「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でデビューして、1972年には「ベンのテーマ」で全米シングル・チャートの1位に輝いた。その後もソロ作品を発表し続けるのだが、次第にヒットが生まれにくくなっていった。

1975年にジャクソン5はエピック・レコーズに移籍して、グループ名はジャクソンズに変わった。変声期を迎えたマイケル・ジャクソンは大人のボーカリストとなり、ジャクソンズの音楽もセルフ・プロデュースに移行していくなど、様々な変化が見られた。1978年にはダイアナ・ロスと共演したミュージカル映画「ウィズ」のサウンドトラック制作で、クインシー・ジョーンズと接することになる。

1979年にリリースされた「オフ・ザ・ウォール」は、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え、マイケル・ジャクソンにとってはエピック・レコーズに移籍し、大人のアーティストとしては初のソロ・アルバムといえるようなものであった。当時、マイケル・ジャクソンは20歳である。

ディスコ・ポップ的な要素もあったこのアルバムからは、「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」が全米シングル・チャートで1位、「オフ・ザ・ウォール」「あの娘が消えた」がトップ10入りし、アルバムそのものも全米アルバム・チャートで最高3位のヒットを記録した。それまで、全米アルバム・チャートでマイケル・ジャクソンのソロ・アルバムが記録した最高位が「ベン」の5位、前作の「フォーエヴァー、マイケル」が最高101位だったことを考えると、大躍進だということができる。

1980年頃、フジテレビ系で日曜の確か午前中に「HOT TV」という番組が放送されていて、司会は鈴木ヒロミツと藤島ジュリー景子であった。その中で全米アルバム・チャートを紹介するコーナーがあって、ピンク・フロイド「ザ・ウォール」やクリストファー・クロス「南から来た男」などと共に、マイケル・ジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」も取り上げられていた記憶がある。

また、スズキは発売したラブというスクーターのテレビCMにマイケル・ジャクソンが出演し、「今夜はドント・ストップ」が流れてもいたため、当時の日本ではマイケル・ジャクソンの存在がお茶の間レベルにおいても、うっすらと知られてはいたような気がする。

「オフ・ザ・ウォール」はじゅうぶんにヒットしたといえるレベルのアルバムだったのだが、マイケル・ジャクソンはもっと売れるアルバムを出したいと考えていたようである。「オフ・ザ・ウォール」は確かに大ヒットしてはいたのだが、あくまでソウル/R&Bのジャンルを好む人たちから支持されていたようなところがあり、たとえばロックのファンにまでは届いていないという感じもあったのだろうか。その一つの例として、アメリカの「ローリング・ストーン」誌がマイケル・ジャクソンを表紙にすることを拒んでいたということがあったようである。

それで、「オフ・ザ・ウォール」の次のアルバムにおいては、より広いマーケットで支持されるような、しかもシングルとしてヒットしそうな優れた楽曲がいくつも収録されたアルバムをつくることが目標とされたようである。プロデューサーは「オフ・ザ・ウォール」に続いてクインシー・ジョーンズだったのだが、1981年の日本ではクインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」がディスコ・ソングとしてヒットして、オリコン週間シングルランキングで最高13位を記録していた。チャズ・ジャンケルによってリリースされた曲のカバーで、タイトルは大島渚が監督して性的な描写が話題にもなった1976年の映画からとられていた。

どれぐらい流行っていたかというと、当時は漫才ブームの余熱がまだ残っていたのだが、B&Bの島田洋七がディスコでのナンパを表現する際に、「♪愛のコリーダ、電話番号は?」などとゴールデンタイムのテレビでやっていたということがバロメーターにもなるだろうか。

「スリラー」と題されたアルバムの先行シングルとして、ポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」がリリースされた。ポール・マッカートニーといえばこの年にリリースしたアルバム「タッグ・オブ・ウォー」からの先行シングルがスティーヴィー・ワンダーとデュエットした「エボニー・アンド・アイボリー」が、人種間の調和をテーマにして全米シングル・チャートで1位の大ヒットを記録していた。

「スリラー」というタイトルは、児童向けの怪奇小説などを思わせるようなところもあり、当時は微妙に感じたりもしたのだが、いまやマイケル・ジャクソンのこのアルバムのイメージが強くなりすぎたため、その頃の感覚に戻ることはできない。

「ガール・イズ・マイン」はマイケル・ジャクソンとポール・マッカートニーが恋のさや当てをするという内容の楽曲だったが、ここでいう「ガール」とは世の音楽ファンのことでもあり、ポップ・ミュージック界のスターの世代交代を意味してもいるのだ、というような解釈もあったような気がする。大物アーティスト同士によるデュエットということで話題になり、ラジオでもよくかかっていたのだが、ひじょうにポップでキャッチーではあるものの、AORのようでもあり、あまりにも無難でおもしろみに欠けるのではないかというような意見もあったように感じる。それもそのはずで、演奏にはTOTOのメンバーやデヴィッド・フォスターといった、AOR人脈とでもいうべきミュージシャンが何人も参加していた。これもマーケットを拡大する目的があってのことだったのだろうか。

とはいえ、全米シングル・チャートの2位までは上がり、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」とメン・アット・ワーク「ダウン・アンダー」に阻まれ1位は逃したものの、じゅうぶんなヒットは記録したように思えた。とはいえ、「オフ・ザ・ウォール」からの最初のシングル「今夜はドント・ストップ」が1位だったことを考えると、陣営としては物足りなかったのではないかとも想像できる。

ところで、日本の音楽雑誌「ミュージック・マガジン」では1983年3月号の「クロス・レヴュー」でこのアルバムを取り上げ、当時の編集長であった中村とうようは「テレビでコイツのCMが出るとあわててスイッチを切って、顔を洗いに洗面所へ走るってほどこの男が嫌いだ」「1980年という時代にこんなにも安っぽい音楽が作られたことを後世の歴史家のための資料として永久保存しておくべきレコード」などと、批評というよりは単なる悪口を書くと共に0点をつけている。他には高橋健太郎が1点、小貫信昭、小嶋さちほが共に6点と全体的に手厳しい。

「スリラー」が発売されると小学校時代からの友人が買ったということだったので、牛朱別川を渡って聴かせてもらいにいった。ビートが効いていてなかなかカッコいいじゃないかと思った曲がいくつかと、ブラック・コンテンポラリーにメロウな曲があったりもして、とても良かった。それで借りて帰ったのだった。ちなみにお互いが最近に買ったレコードを聴かせ合ったりした後に、プリメインアンプのソースをレコードプレイヤーからチューナーに切り替えると、その年の秋に開局したばかりのFM北海道の番組でプリンスの「1999」がかかった。ロックやポップスを好んで聴いていた私と、ソウルやジャズを好んで聴いていた友人とでプリンスについてどう思うかという話になったのだが、ソウルなのかロックなのかどっちつかずでいま一つよく分からないという意見で一致していた。数ヶ月後には大好きになるのだが。

この頃はドナルド・フェイゲン「ザ・ナイトフライ」やジョー・ジャクソン「ナイト・アンド・デイ」などを好んで聴くようなタイプの高校生だったのだが、全米ヒット・チャートなどはひと通りチェックしていて、基本的には売れているものならほとんど好きなミーハーであった。1981年に開局したMTVの影響で、映像に力を入れがちだったイギリスの特にシンセ・ポップやニュー・ウェイヴのバンドがアメリカでもブレイクし、その現象は第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンと呼ばれるようになっていく。アメリカでは1983年の初めにヒットしたデュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、カルチャー・クラブ「君は完璧さ」などが有名である。このようにニュージックビデオがヒット・チャートに影響を及ぼすようになってはいたのだが、「スリラー」からの最初のシングル「ガール・イズ・マイン」にはビデオがなかった。それでも、全米シングル・チャートで2位まで上がった。

次のシングルとして「スリラー」のB面2曲目に収録された、「ビリー・ジーン」がシングル・カットされた。デジタル気分なビートがとてもカッコいいと初めて聴いた時から感じていた曲であり、歌詞は自分が身ごもった子供の父親はお前だと言ってくるストーカー的なファンとのことを歌っている。この曲にはミュージックビデオが制作された。というか、当時はレコードをプロモーションするためのビデオなので、プロモーションビデオと呼ばれることが多かった。

ところが当時のMTVにはロックのビデオを流すという意図がうっすらとあったようで、マイケル・ジャクソンのビデオはじゅうぶんにロックではない、というような理由で流されなかったという。そこで、エピック・レコーズのボスであったウォルター・イエットコニフがブチ切れ、MTVに内在する人種差別主義を告発することなどを伝える事態となる。それで、やっとこさ「ビリー・ジーン」のビデオはMTVで流れるようになるのだが、そうすると大好評で、ヘヴィー・ローテーションされると共に、全米シングル・チャートでも1位に輝くことになる。

当時、日本でMTVはまだ放送されていなかったが、テレビ朝日系「ベストヒットUSA」などによって、洋楽のミュージックビデオが日常的に見られるようにはなっていた。それで、この「ビリー・ジーン」のビデオも同時期にヒットしていたカルチャー・クラブ「君は完璧さ」、デュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」、スティクス「ミスター・ロボット」ジャーニー「セパレイト・ウェイズ」などのそれと同様によく見られていた。ちなみに、ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド「月に吠える」にはおそらくビデオがつくられていなかったのか、カウントダウンのコーナーでアルバムのジャケットが映しだされていたような気がする。

それで、あのマイケル・ジャクソンのダンスなども視覚として当時の洋楽ファンには印象に残るようになったのだが、それをさらに強めたのが、その次にシングル・カットされた「今夜はビート・イット」であった。「スリラー」ではB面の1曲目に収録され、全米シングル・チャートでは「ビリー・ジーン」に続いて1位に輝いた。そして、ビデオの印象が「ビリー・ジーン」以上に強力であった。

ギャングの集団同士の抗争をマイケル・ジャクソンがダンスによって解決するというような内容なのだが、とにかく人がたくさん出てきて、みんなで踊るのでその視覚的な楽しみがミュージカル映画のように強い。このたくさんの人たちが踊るパターンというのは、「スリラー」や1987年の「BAD」でも繰り返されていく。「BAD」については、バラエティー番組「とんねるずのみなさんのおかげです」において、とんねるずの木梨憲武がマイケル・ジャクソンを演じ、かなりの精度でミュージックビデオのパロディー化が行われていた。石橋貴明はライオネル・リッチーを模したライオネルリチ男として出演していた。

それはそうとして、パロディーといえばアル・ヤンコヴィックが「今夜はビート・イット」のパロディーで「今夜もイート・イット」をリリースし、全米シングル・チャートで最高12位のヒットを記録していた。この曲を収録したアルバムはジャケットが「スリラー」のパロディーになっていたが、「スリだー」という苦しげな邦題がつけられていたことも思い出される。「事情通にバカ受けのイミテーション・ワールド」というキャッチコピーも、よく分からなくて最高であった。

「今夜はビート・イット」については、やはり視覚的なイメージが先に立ってしまうのだが、この曲の場合、ゲストにハード・ロック・ヴバンドのヴァン・ヘイレンから、ギターヒーローのエドワード・ヴァン・ヘイレンが参加したことがシングル・カット前からひじょうに話題にはなっていて、ロックファンも取り込んで、クロスオーバーヒットを狙った楽曲だったのではないかと思われる。そして、その目論見は成功したように思える。

全米シングル・チャートで「今夜はビート・イット」が1位になったのは、1983年4月30日付のチャートにおいてだったのだが、その年のゴールデンウィークには、東神楽町などから旭川の高校に通学していた女子などが家に遊びにきたりもしていた。オフコースなど好んで聴いていた女子が「スリラー」を聴きたいと言い出して、部屋にあったパイオニアのシステムコンポ、プライベートで最初から最後まで流していたような記憶がある。私は台所で人数分のマルちゃん焼そばを調理していた。その週のチャートではプリンスの「リトル・レッド・コルヴェット」が12位から10位にランクアップし、初の全米トップ10入りを果たしていた。

この年の5月には「モータウン25周年記念コンサート」に兄弟と共に出演し、「ビリー・ジーン」を歌い踊るのだが、この時にあの有名なムーンウォークが初披露され、ひじょうに話題になったのだという。「スリラー」が1枚の音楽アルバムの域を超えて、ポップ・カルチャーにおける一つの現象と化すにあたって、この時のパフォーマンスはひじょうに重要だったと後に振り返られがちである。

その後、「スリラー」からは「スタート・サムシング」「ヒューマン・ネイチャー」「P.Y.T.」がシングル・カットされ、全米シングル・チャートでそれぞれ最高5位、7位、10位と、いずれもトップ10以内にランクインしていた。当時、1枚のアルバムからシングル・カットされる曲は2~3曲、多くても4曲ぐらいという感じだったのだが、「スリラー」はリリースから1年以内になんと6曲がシングル・カットされ、いずれもトップ10ヒットという恐ろしいことになっていた。この後、ビリー・ジョエル「イノセント・マン」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」などアルバムからたくさんの曲をシングル・カットすることがわりと普通にもなっていくのだが、「スリラー」はそれの走りだったような気がする。

ポール・マッカートニーがアルバム「パイプス・オブ・ピース」をリリースするのだが、「ガール・イズ・マイン」のお返しとばかりに、これには2曲にマイケル・ジャクソンがゲスト参加し、そのうち先行シングルとしてリリースされた「SAY SAY SAY」は、全米シングル・チャートで6週連続の1位を記録した。この大ヒットに阻まれて、80年代に入ってから「キッス・オン・マイリスト」「プライベート・アイズ」「アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット」「マンイーター」と4曲で全米シングル・チャートの1位に輝いていたダリル・ホール&ジョン・オーツは、ベスト・アルバム「フロム・A・トゥ・ONE」からの先行シングル「セイ・イット・イズント・ソー」が最高2位に終わった。4週間のあいだ、全米シングル・チャートの1位と2位がいずれも「セイ」という単語ではじまる曲であった。

「スリラー」が全米アルバム・チャートで初めて1位になったのは1983年2月26日付においてであり、その後、映画「フラッシュダンス」のサウンドトラック、ポリス「シンクロニシティー」、クワイエット・ライオット「メタル・ヘルス~ランディ・ローズに捧ぐ」、ライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」にその座を奪われることがあったが、その度にふたたび浮上して、1984年4月21日付で映画「フットルース」のサウンドトラックに抜かれるまで、通算37週の1位を記録したのであった。

「スリラー」は全米アルバム・チャートにおいて、1983年と1984年の2年連続で年間1位を記録した初のアルバムとなった。日本のオリコン年間アルバムランキングにおいては、映画「フラッシュダンス」のサウンドトラック、フリオ・イグレシアス「愛の瞬間」、松田聖子「ユートピア」、中森明菜「ファンタジー<幻想曲>」、サザンオールスターズ「綺麗」に続く6位にランクインして、山下達郎の「クリスマス・イブ」を収録した「MELODIES」よりも1ランク上であった。そして、翌年の1984年なのだが、映画「フットルース」のサウンドトラック、サザンオールスターズ「人気者で行こう」、チェッカーズ「絶対チェッカーズ!!」、松任谷由実「VOYAGER」などを抑えて、年間1位に輝いている。

1983年にあれだけ売れていながら、その翌年になってもさらに売れ続けていたのはどういうことなのかというと、1983年11月に「スリラー」から7枚目にして最後のシングルとして、タイトルトラックの「スリラー」がカットされ、これが全米シングル・チャートで最高4位を記録したのと、1984年2月28日に開催された第26回グラミー賞授賞式において、実に8部門を受賞したことが大きな話題になったことなどが影響したのではないかと思われる。

「スリラー」から「今夜はビート・イット」の後にカットされたシングルには、ミュージックビデオが制作されていなかった。楽曲の「スリラー」は当初、シングル・カットする予定がなかったのだが、アルバムのセールスをさらに伸ばそうという意図などによってカットされることになり、それならばということでかなりの予算をかけたビデオが制作されることになった。ジョン・ランディス監督によるミュージックビデオというよりは、短編映画のようでもある約13分及ぶ映像作品である。メイキング映像をも収録したビデオカセットとしても販売され、これもひじょうに売れたのだという。

当時は海外のメディアなどをそれほどチェックしていなく、「ミュージック・マガジン」の評価はなんとなく見ていたので、「スリラー」は大衆的にはひじょうに支持されているのだが、音楽批評的にはそれほど高く評価されていないのではないかとなんとなく思っていた。しかし、実際には1983年の「ローリング・ストーン」ではR.E.M.「マーマー」に次いで、年間ベスト・アルバム次点、「NME」ではエルヴィス・コステロ、トム・ウェイツ、ビリー・ブラッグ、ソフト・セルに次ぐ年間5位と、正当に評価はされていたのだった。