マイケル・ジャクソン「今夜はビート・イット」

マイケル・ジャクソン「今夜はビート・イット」はアルバム「スリラー」から「ガール・イズ・マイン」「ビリー・ジーン」に続く3枚目のシングルとしてカットされ、1983年4月30日付の全米シングル・チャートで1位に輝いた。「スリラー」から最初にシングル・カットされた「ガール・イズ・マイン」はポール・マッカートニーとのデュエットによるAOR的でもある楽曲で、全米シングル・チャートでの最高位は3週連続の2位であった。そのうちの1週目はダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」、2、3週目はメン・アット・ワーク「ダウン・アンダー」が1位であった。

「スリラー」から次にシングル・カットされた「ビリー・ジーン」は1983年3月5日付の全米シングル・チャートから、7週連続で1位を記録した。この間、ボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド「月に吠える」、カルチャー・クラブ「君は完璧さ」が2位止まりとなっている。デュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」も3位まで上がっていた。4月23日付のチャートで「ビリー・ジーン」と入れ替わって1位になったのは、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ「カモン・アイリーン」であった。

アメリカでは1981年の夏に音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVが開局し、若者を中心に大人気となっていた。イギリスの特にニュー・ウェイヴやシンセ・ポップのバンドやアーティストには、早くから映像での表現に積極的だった人たちが少なくはなく、MTVでもこれらがよくオンエアされるようになり、やがてこういった流れがヒットチャートにも影響を及ぼすようになっていった。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンという現象は、このようにして起こったのであった。ブリティッシュ・インヴェイジョンとはイギリスのバンドやアーティストがアメリカのヒットチャートに次々と侵入していったことを指し、これの第1次はビートルズやローリング・ストーンズなどがアメリカでも人気者になった1960年に起こったとされている。

全米ヒットチャートが最もおもしろかった年は1983年なのではないかと個人的には思っているのだが、これにはもちろん当時、16~17歳の高校生で、全米ヒットチャートに入っているような音楽が青春のサウンドトラックでもあったことによる思い出補正が入っているであろうことを否定はできない。とはいえ、それを差し引いたとしても、ヒット曲の主流が産業ロックやAOR的なものからシンセ・ポップやニュー・ウェイヴ的なものに変化していく過程の、最もバラエティーにとんでいた瞬間が記録されているようにも思えるのである。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン的なものが表面化したのは1982年の夏、ヒューマン・リーグ「愛の残り火」やソフト・セル「汚れなき愛」などがアメリカでも大ヒットしたぐらいだったと思うのだが、1983年になるとデュラン・デュランやカルチャー・クラブをはじめ、ユーリズミックス、スパンダー・バレエ、カジャグーグー、マッドネスからポリスやザ・クラッシュあたりまで、イギリスのバンドやアーティストのヒットがより一層、目立っていったような印象がある。

これらの特徴として、MTVでヘヴィーローテーションされていたであろう、個性的なビデオの存在というのがあった。当初、MTVでは白人アーティストによるビデオばかりがオンエアされていたという話があるのだが、この風潮を変えていったエポックメイキングな作品として、マイケル・ジャクソンの「スリラー」からシングル・カットされた曲のビデオの数々が挙げられる。とはいえ、「スリラー」から最初にシングル・カットされた「ガール・イズ・マイン」にはビデオがつくられていなく、「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」、そして「スリラー」の3曲だけだったのだが、その影響があまりにも大きすぎた。「スリラー」からはこれら以外にも何曲もシングル・カットされ、いずれもヒットしているのだが、ビデオがつくられたのはこの3曲だけである。

「今夜はビート・イット」が初めて1位になった、1983年4月30日付の全米シングル・チャートでは、プリンス「リトル・レッド・コルヴェット」が初のトップ10入りを果たしている。この年にはマーヴィン・ゲイ「セクシャル・ヒーリング」やライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」なども大ヒットしたが、こういったソウル/R&B的なヒット曲にも、ビデオが効果的に用いられたものが少なくはなくなっていた。一方、メインストリームではなくなりつつあった産業ロックにも、まだ勢いが残されてはいたのだが、ヒットした曲の中には、シンセサイザーの導入が印象的だったり、時代のトレンドに寄せたようなものもあったように思える。ジャーニー「セパレイト・ウェイズ」やスティクス「ミスター・ロボット」などにそれを感じることができたのだが、1983年の全米ヒットチャートにはこれらがすべて入っていて、混沌としているようでもありながら、ある時代の気分を切り取ってもいて、なかなか楽しくはあったのである。

マイケル・ジャクソンは兄弟グループ、ジャクソン5のリードボーカリストとして活躍し、センセーションを巻き起こすのだが、ソロ・アーティストとしても「ロッキン・ロビン」「ベンのテーマ」などを大ヒットさせていた。しかし、それらは変声期前の声がまだ子供らしかった頃のことであり、大人になってからはそれほどヒット曲が生まれていない時期もあった。ミュージカル映画「ウィズ」の現場で出会ったというクインシー・ジョーンズによってプロデュースされたアルバム「オフ・ザ・ウォール」は、ディスコ・ミュージック的な要素なども取り入れ、大人になったマイケル・ジャクソンの魅力を世にアピールすることに成功した。「今夜はドント・ストップ」「ロック・ウィズ・ユー」の2曲が全米シングル・チャートで1位に輝き、アルバムも全米チャートで最高3位の大ヒットを記録した。この時点で十分に大成功だったといえるのだが、マイケル・ジャクソンはこれにまったく満足していなく、さらにヒットする作品をつくろうとしていたという。それには、ソウル/R&Bやディスコ・ミュージックだけではなく、ロックやポップスのリスナーにもアピールする必要がある。「スリラー」でのポール・マッカートニーやエドワード・ヴァン・ヘイレン、TOTOのメンバーの起用などにはそのような目的があったのではないかとも考えられる。それで、最初のシングルにもポール・マッカートニーとのデュエットで、AOR的な「ガール・イズ・マイン」が選ばれたようにも思えるのだが、皮肉にもマイケル・ジャクソンがジャクソン5時代に所属していたモータウンのサウンドから影響を受けた、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「マンイーター」に1位を阻まれることになった。

そして、「ビリー・ジーン」がシングル・カットされた時にはまさにこれぞ真骨頂という感じで大ヒットしたわけだが、デジタル的なディスコ・ミュージックともいえるこの音楽性は、実は当時の「ミュージック・マガジン」などでは酷評されていて、クロス・レヴューで編集長の中村とうようが0点、高橋健太郎が1点をつけたりもしていた。それで、当時は一般的にはよく売れているのだが、評価はそれほど高くないのではないかと誤解していたのだが、海外のメディアでは正当に評価されていたことを後に知ることになる。それはそうとして、「ビリー・ジーン」の7週連続1位の後で、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢から、カルチャー・クラブでもデュラン・デュランでもなく、デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズがまずは1位になったというところがなかなかおもしろいのだが、この曲のビデオもひじょうに印象的であった。

ちなみに当時、日本ではMTVがまだ放送されていなかったのだが、テレビ朝日系の「ベストヒットUSA」がその少し前からはじまっていて、最新のミュージックビデオを次々とオンエアしていた。個人的に当時、生活をしていた北海道では当初、この「ベストヒットUSA」が放送されていなく、わりともやもやしていたのだが、1982年の秋からやっと放送されることになった。この年の秋には北海道で初の民放FM局であるエフエム北海道も開局し、北海道の音楽ファンとしてはなかなかうれしいことが続いていた。マイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」」「今夜はビート・イット」がヒットする頃には、日本の音楽ファンにとっても、洋楽ヒットは視覚でも楽しむものであるという認識が、すっかり広まっていたように思える。

「ビリー・ジーン」も確かにビデオが印象的なヒット曲ではあったのだが、それよりも強力だったのが「今夜はビート・イット」である。この曲はアルバム発売当初から、ハード・ロックやヘヴィー・メタルを愛好する人たちにとってのギター・ヒーローである、エドワード・ヴァン・ヘイレンが参加していることでひじょうに話題にはなっていた。クインシー・ジョーンズから最初にオファーを受けた時、エドワード・ヴァン・ヘイレンはいたずら電話だと思っていたらしい。この曲はマイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズからロック的な曲をつくるようにといわれてできたようなのだが、その時にザ・ナック「マイ・シャローナ」が例に出されたという話もある。タイトルからして打て、というような攻撃的なものではあるのだが、マッチョな奴にはなりたくない、というようなフレーズが入っているところにマイケル・ジャクソンらしさが感じられたりもする。

ビデオでは2組のギャング団のような人たちが争いそうになるのだが、マイケル・ジャクソンが仲裁に入り、最終的にはみんなで踊ってひじょうに盛り上がるというようなストーリーが展開する。このみんなで踊って盛り上がるパターンはこの後、「スリラー」「BAD」などでも定番化するのだが、最初はこの「今夜はビート・イット」であり、アル・ヤンコヴィック「今夜もEAT IT」などパロディー化もされることになった。見ていて単純に楽しくて、個人的にも「ベストヒットUSA」を録画したビデオで何度も繰り返し見た記憶がある。

全米シングル・チャートでデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ「カモン・アイリーン」が1位だったのは1週だけで、翌週からはマイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット」が3週連続1位を記録することになる。1位になった最初の週は日本ではゴールデンウィークであり、当時の高校生としてもひじょうに盛り上がっていたわけである。自宅に何人かの女子や男子があつまって、それほど広い部屋でもないのに、ギターを弾いたりレコードやカセットを聴くなどして楽しんでいた。家族はあまり機嫌が良さそうではなかったので、マルちゃんソース焼そばを勝手に調理してみんなで食べたような気がする。東神楽町から自転車で遊びに来ていた1人の女子はずっとオフコースのファンだったはずだったのだが、マイケル・ジャクソンの「スリラー」が聴きたいと言っていたので、録音したカセットをシステムコンポで流した。次の日は、女子たちと自転車で旭山動物園で遊びにいくことになっていて、なんだか凡庸でとても良いなと感じていた。

90年代半ばには東京の広告代理店で仕事をしていたのだが、真冬に北海道の留萌市に住む祖父が亡くなり、あわてて駈けつけることになった。札幌から留萌に向かうバスを待つ間、ココ山岡の女性店員に声をかけられ、ダイヤモンドを買わされそうになるのだが、なんとか回避できたので良かった。翌年に債務超過で自己破産していた。留萌の方を走っている沿岸バスでは、なぜか車内でずっとAMラジオを流している。その理由をインターネットの記事で読んだことがあるような気がするのだが、いまやすっかり忘れてしまったし、改めて探して読んでみようという気も特にはならない。羽幌町に本社があるローカルなバス会社という印象だったのだが、後に萌えキャラのようなものを推しだしたりして、一部のファンから熱い支持を得ているようである。2022の3月から5月にかけて、神保町の書泉でもグッズが販売されていたりもする。

とはいえ、これはそうなるずっと前の話である。タワーレコードで買ったジェフ・ヌーンというSF作家の小説を読みたかったのだが、車内ではAMラジオがずっと流れているので、集中することがひじょうに難しい。当時、洋楽のヒット曲を日本語に直訳して歌うスタイルの王様というアーティストが少しブレイクしていて、その日のAMラジオ番組にもゲスト出演していた。スタジオにて生で歌ってもいたのだが、マイケル・ジャクソンの「今夜もビート・イット」も選曲していて、「Just beat it」のところを「打て」などと歌っていた。翌日にはすぐに東京に戻ったのだが、自動販売機でRADIOという北海道限定のコーラが売られていたことを、なぜかよく覚えている。