マニック・ストリート・プリーチャーズ「デザイン・フォー・ライフ(A Design for Life)」
マニック・ストリート・プリーチャーズのシングル「デザイン・フォー・ライフ」は1996年4月27日付の全英シングル・チャートで2位に初登場し、結局のところこれが最高位になった。マーク・モリソン「リターン・オブ・ザ・マック」に阻まれ、1位に輝くことは阻まれたのだが、それまでマニック・ストリート・プリーチャーズが全英シングル・チャートで記録した最高位が、1992年の「スーサイド・イズ・ペインレス」で記録した7位だったため、この時点では圧倒的な自身過去最大のヒット曲となった。
「スーサイド・イズ・ペインレス」はロバート・アルトマン監督による1970年の映画「M★A★S★H マッシュ」の主題歌になり、「もしも、あの世にゆけたなら」の邦題がついていた曲のカバーであり、コンピレーション・アルバム「ルビー・トラックス」からシングル・カットされたものであった。この「ルビー・トラックス」というアルバムはイギリスの伝統ある音楽新聞「NME」の創刊40周年を記念してリリースされたものであり、40組のアーティストによる全英NO.1ヒット曲のカバー・バージョンを収録していた。そこから先行シングルとしてリリースされたのがマニック・ストリート・プリーチャーズの「スーサイド・イズ・ペインレス」であり、カップリング曲はファティマ・マンションズによるブライアン・アダムス「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」のカバーであった。
CDと12インチ・シングルにはマニック・ストリート・プリーチャーズの「スリーピング・ウィズ・NME」というトラックが収録されていたのだが、これは曲ではなくインタヴューの一部である。「NME」の取材でジャーナリストのスティーヴ・ラマックが、マニック・ストリート・プリーチャーズのパンク・ロック的なアティテュードについて、フェイクなのではないかというようなことを言ったところ、メンバーのリッチー・エドワーズが刃物で自身の腕に「4REAL」、つまり本気であるという意味の文字を彫ったことにより現場がパニックになったという、いわゆる「4REAL事件」の録音である。タイトルの「NME」は敵を意味する「Enemy」とかかっているとも思われ、「スリーピング・ウィズ・NME」というタイトルもまた皮肉が効いたものである。
この「4REAL事件」の痛々しくも生々しい写真は日本の若者向け雑誌「宝島」などにも掲載されたのだが、六本木WAVEの休憩室で、フレンチポップなどを好んで聴いていた色白の男子がそれを見て本気で引いていたことなどが思い出される。「4REAL事件」の時点では私もマニック・ストリート・プリーチャーズのことをいささかうさんくさく感じていたのだが、デビュー・アルバム「ジェネレーション・テロリスト」からシングル・カットされた「享楽都市の孤独(原題:Motorcycle Emptiness)」「リトル・ベイビー・ナッシング」などの素晴らしさに気づかされてからは、それがとんだ誤解と偏見であったことに気づかされた。
通常、バンドというのはボーカリストやメインでギターを弾いているメンバーなどに最も注目があつまるものだが、このマニック・ストリート・プリーチャーズというバンドの特徴として、最も人気があるメンバーが、作詞とリズム・ギターを担当しているリッチー・エドワーズだという点があった。その知的かつ文学的で、繊細な歌詞と存在感がこのバンドを特徴づけてもいたわけだが、どうやら精神的には実際にひじょうに追いつめられていたようであり、1994年にリリースされたバンドにとって3作目のアルバム「ホーリー・バイブル」の頃になると、それはさらに明らかになっていた。そして、その翌年、バンドがアメリカでのツアーに出かけようかという直前に、リッチー・エドワーズは失踪し、そのまま2度と現れることはなかった。
この件を受け、バンドは解散をも考えたというのだが、リッチー・エドワーズの親からの希望もあり、残された3人のメンバーで活動を続けていくことに決めた。その頃、オアシス、ブラー、パルプといった、イギリスのインディー・ロック・バンドがメジャーに売れなくっていて、ブリットポップと呼ばれるムーヴメントを起こしてもいた。今日、ブリットポップを振り返る場合、その4大バンドといえば、オアシス、ブラー、パルプ、スウェードを指し、マニック・ストリート・プリーチャーズやレディオヘッドは除外して考えられるようなのだが、当時はざっくりと同じようなタイプの音楽として分類されがちだったような気がする。
それはそうとして、最も人気があるメンバーがひじょうに繊細であり、アメリカ・ツアーの直前にいなくなるという点で共通しているのが、ボーカリストのイアン・カーティスの自殺によって解散したジョイ・ディヴィジョンであり、残されたメンバーを中心にニュー・オーダーとして活動することになった。初期においては、ひじょうに匿名的なイメージが特徴的でもあったのだが、マニック・ストリート・プリーチャーズも3人で新たにスタートする上で、これは参考にしたともいわれる。
リッチー・エドワーズの失踪後、最初のシングルとなる「ア・デザイン・フォー・ライフ」のタイトルは、ジョイ・ディヴィジョンのEP「アン・アイディアル・フォー・リヴィング」にインスパイアされたともいわれる。この曲の歌詞はベーシストのニッキー・ワイヤーによってつくられ、当初は「デザイン・フォー・ライフ」と「ピュア・モーティヴ」という2つの詩だったのだという。それは、ワーキングクラスの生きざまのようなものをテーマにしていた。ブリットポップがムーヴメント化する中で、たとえばオアシスのギャラガー兄弟などが体現するような、ワーキングクラス的なアティテュードなりライフスタイルが、ファッション的に消費される傾向というのが確実にあったように思える。「ア・デザイン・ライフ」には、そういった風潮に対するリアクションという側面もあったのではないだろうか。
愛について語ることはしなく、ただ酒を飲んで酔っぱらうだけ、浪費することなどは許されず、これでおしまいだと教えられた、というようなリアリティー、これに人生の設計などというタイトルをつけてしまうような感覚、いずれも当時のヒット・チャートをにぎわすポップソングとしては、あまりにもユニークで意味が濃く感じられた。そして、これに曲をつけたのはボーカリストでギタリストのジェームス・ディーン・ブラッドフィールドだが、ひじょうに勇ましくも哀感があり、ワーキングクラスのアンセムと呼ぶに相応しい楽曲に仕上がっている。ストリングスを効果的に使ったアレンジがまたとても良いのだが、マイク・ヘッジズを共同プロデューサーに起用したのは、元スウェードのギタリスト、バーナード・バトラーとシンガーのデヴィッド・マッカルモントによるヒットシングル「イエス」が素晴らしかったことがきっかけだったようだ。
「ア・デザイン・フォー・ライフ」の全英シングル・チャートでの最高位は2位だったのだが、「BEAT UK」では1位に輝いた。「BEAT UK」というのは当時、フジテレビ系で金曜の深夜に放送されていたテレビ番組である。インターネットが一般大衆にまで普及するにはまだ少しだけ時間を要したこの頃、イギリスのポップ・ミュージックについての貴重な情報源であった。当時、広告代理店で仕事をしていて、ゴールデンウィークは暦通りに休むことができた。「ア・デザイン・フォー・ライフ」が1位だった回は、1996年5月3日の放送分である。録画したビデオを翌朝に見ていて、ついにマニック・ストリート・プリーチャーズが1位になるような時代が来たのか、と感慨深かった。その週にはオービタル「ザ・ボックス」が5位、アッシュ「ゴールドフィンガー」が3位に初登場していた。全英シングル・チャートでの最高位は、それぞれ11位と5位であった。オービタル「ザ・ボックス」はテクノではあるのだが、エンリオ・モリコーネ的でもあって、なかなか良かった。そういえば、この曲を収録したアルバム「イン・サイズ」がそろそろ発売される頃だったはずである。オービタルはイギリスのインディー・ロックファンにもわりと人気があり、個人的にも買い続けていた。アッシュの「ゴールドフィンガー」は、「カン・フー」などのパンキッシュな曲からどんどんメロディアスになってきていて、これからがひじょうに楽しみだと感じさせられた。
ゆっくり楽しんでいたかったのだが、その日は当時、付き合っていて、後に妻になる人が千葉に潮干狩りに行きたがっていたので、泣きながら出かける準備をした。電車を乗り継いで木更津とかいう街に行ったのだが、曇っていたこと以外はあまり覚えていない。潮干狩りという遊びをはじめて、そして現在までのところ最後にやったのだが、当時の自分にとってはあまり趣味ではなく、帰りに新宿のCDショップに行くことばかりを考えていた。帰りにそごうで少し休んだような気がする。当時、新宿のタワーレコードは、まだルミネにあった。もう1店舗、1階で水着を売っている建物の2階にもあったはずである。それはそうとして、この日に行ったのはルミネの方である。2022年4月現在は、無印良品があるフロアだったと思う。そこでオービタル「イン・サイズ」のCDが入荷していたので、もちろん買った。当時は幡ヶ谷に住んでいたので、たった2駅だけ電車に乗れば帰れるのだが、待ち切れずにタワーレコードの黄色い袋からCDを出した。一緒にいた人はいつもと同じように、2階のソニープラザで雑貨やお菓子などを見てから帰りたがった。CDのケースを開くと、ディスクが入っていなかった。こんなことが本当にあるのか。帰る前に開けてみて良かった。エスカレーターでタワーレコードまで戻り、ちゃんとディスクを入れてもらうことができた。
当時、ルミネの2階には少し休めるようなところがあって、そこから遠くにアパマンショップが見えたのだが、かつて同じ会社で仕事をしていて、私と一緒にいた人から金を借りて逃げていた人がカウンターにいて懐かしくなったのだが、こちらに気づいたらしくどこかに消えてしまった。新宿のルミネは当時からJRの方と京王新線の方に、小田急ミロードをはさんで2つあるのだが、一時期はその両方に青山ブックセンターがあった。その一方のすぐ近くに小さなブティックのような店があって、中に入ったことはないのだが、近くは何度も通りかかった。いつもフリッパーズ・ギターの音楽がかかっていて、少し気になっていたのだが、「クイック・ジャパン」の投稿欄でも取り上げられていた。それによると、たまにはコーネリアスやピチカート・ファイヴもかかっていたらしい。インターネットカフェでおしゃれな服装をしたOLのような人が、ノートパソコンで死体写真を見ていたのはもう少し後だったかもしれない。