マドンナ「バーニング・アップ」について

マドンナのデビュー・アルバム「バーニング・アップ」は、1983年7月27日にリリースされた。邦題はシングルでもリリースされていた収録曲から取られているが、原題はシンプルに「Madonna」である。当初、やはり収録曲でシングル・カットもされた「ラッキー・スター」をアルバムタイトルにすることも検討されていたようだが、結果的に「Madonnna」になったようである。全米シングル・チャートでは、ポリス「見つめていたい」が8週連続1位のうち3週目を迎えていた。マドンナはシングル「エヴリバディ」「バーニング・アップ」がいずれも全米ダンス・チャートで最高3位のヒットを記録していたものの、全米シングル・チャートにはまだ1曲もランクインしていなかった。

次のシングルには「ラッキー・スター」を予定していたのだが、ラジオで評判が良いことなどから、「ホリデイ」が選ばれることになった。アルバム「バーニング・アップ」に収録された全8曲のうち、5曲をマドンナ自身が作詞・作曲しているが、この「ホリデイ」はピュア・エナジーのカーティス・ハドソンとリサ・スティーヴンスによるものである。

1958年にミシガン州ベイ・シティで生まれたマドンナは、1978年に大学を中退し、ニューヨークに出ると、様々な仕事をしながらバンドのメンバーとして活動をした後、ソロ・アーティストとしての夢を追いはじめる。1982年にリリースしたデビュー・シングル「エヴリバディ」のヒットをきっかけにアルバムの制作が決まり、プロデューサーにレジー・ルーカスが起用される。この時点でアルバムをつくるには楽曲が不足しているという問題があり、レジー・ルーカスが「ボーダーライン」と「フィジカル・アヨラクション」を提供することになる。その後、目指す音楽の方向性について、マドンナとレジー・ルーカスの間に対立が起こり、マドンナは個人的に親しかったDJのジョン・”ジェリービーン”・ベニーテスにリミックスなどを依頼する。「ホリデイ」はこの段階において、ジョン・”ジェリービーン”・ベニーテスが持ってきた曲だという。

作者のカーティス・ハドソンとリサ・スティーヴンスは当初、この曲を自分たちのグループであるピュア・エナジーでリリースしたいと思っていたのだが、レーベルが乗り気ではなく、その後、フィリス・ハイマンや元シュープリームスのメアリー・ウィルソンに提供されるものの、却下されていた。そして、当時、世間一般的にはほとんど無名だったマドンナが歌うことになるのだが、この曲によって初めて全米シングル・チャートにランクインすることになった。初登場は1983年10月28日付のチャートで、順位は88位であった。その後、7週目にして39位まで上がり、初の全米トップ40入りを果たす。その週のトップ3はポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「SAY SAY SAY」、ライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」、ビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」であった。レコーディングに際し、ジョン・”ジェリービーン”・ベニーテスはマドンナにR&Bシンガーのように歌うことを促したという。

当時の全米シングル・チャートにおいて、「ホリデイ」は匿名的なダンス・ポップという印象であり、マドンナというアーティストの記名性はまだそれほど際立ってはいなかった。MTV全盛の時代であり、その影響による第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが盛り上がったりもしていたが、「ホリデイ」にはミュージック・ビデオすらつくられていなかった。アルバム「バーニング・アップ」の収録曲は全8曲とやや少ないような気もするのだが、収録時間は約40分とそこそこある。1曲ごとの時間がわりと長く、ポップ・シンガーのアルバムというよりはダンス・ミュージック的な要素が強いようにも感じられる。

「ホリデイ」は結果的に全米シングル・チャートで最高16位まで上がり、その次のシングルはレジー・ルーカスによる「ボーダーライン」で、これが初のトップ10ヒットとなる。そして、マドンナの自作曲であり、アルバムでは1曲目に収録された「ラッキー・スター」がシングル・カットされるのだが、楽曲そのものがポップでキャッチーであったことはもちろんなのだが、ミュージック・ビデオもシンプルなつくりながら、マドンナのポップ・アイコンとしてのポテンシャルをじゅうぶんに感じさせるものであり、全米シングル・チャートで最高4位と過去最高のヒットを記録する。それは1984年10月20日付のチャートでのことであり、上位3曲はスティーヴィー・ワンダー「心の愛」、ビリー・オーシャン「カリビアン・クイーン」、シカゴ「忘れ得ぬ君に」であった。この時点でアルバム「バーニング・アップ」のリリースからは、すでに約1年3ヶ月が経過している。

「ラッキー・スター」がまだ全米シングル・チャートをかけ上がっている最中の1984年9月14日、「MTVビデオ・ミュージック・アワード」の第1回授賞式がニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールで開催されるのだが、パフォーマンス・ゲストとして呼ばれたマドンナはこの舞台で、まだ発売前の新曲「ライク・ア・ヴァージン」をウェディングドレス姿で披露して、しかもそのパフォーマンスたるやひじょうに刺激的なものであった。それから約1ヶ月半後にリリースされた「ライク・ア・ヴァージン」は音楽もビデオも明らかに予算がしっかりかけられたであろう、ひじょうにメジャーな内容になっていた。ナイル・ロジャースがプロデュースしたこの曲はマドンナにとって初の全米NO.1となったばかりではなく、ポップ・アイコンとしての地位を一瞬にして揺るぎなくするものでもあった。

「バーニング・アップ」のアルバムは1983年の夏にリリースされたのだが、実質的には1984年のヒットアルバムだということができる。全米アルバム・チャートでの最高位は8位、年間アルバム・チャートでは17位であった。1984年といえばプリンス「パープル・レイン」とブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のイメージがあまりにも強く、1982年にリリースされたマイケル・ジャクソン「スリラー」はまだ売れ続けていて、前年に続いて年間1位に輝いている。マドンナも「ライク・ア・ヴァージン」からより本格的にブレイクしたということもあって、「バーニング・アップ」の印象はわりと薄いような気がする。

しかし、いま改めて聴いてみると、当時の最先端であったシンセサイザーやシンセドラムがふんだんに使われた、この頃ならではの80年代らしいサウンドにのせて、ボーカルはわりとソウルフルであり、楽曲そのものもキャッチーでとても良いという、なかなか味わい深いアルバムだったのだということに気づかされる。当然のことながら、マドンナがほとんど無名状態でレコーディングした唯一のアルバムであり、そういった意味でも貴重だといえる。