ガンズ・アンド・ローゼズ「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」【Classic Songs】

1988年9月10日付の全米シングル・チャートにおいては、ガンズ・アンド・ローゼズ「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」がジョージ・マイケル「モンキー」を抜いて1位に輝き、そのためにロバート・パーマー「この愛にすべてを」は最高2位に終わった。6位にはトレイシー・チャップマン「ファスト・カー」がランクインしていた。

当時のロックジャーナリズム的なものにおいて、ハードロックやヘヴィーメタルは軽視されがちではあったのだが、ガンズ・アンド・ローゼズについてはかなり好意的に取り上げられていた記憶がある。80年代前半あたりにおいて、パンクやニュー・ウェイヴとハードロックやヘヴィーメタルのリスナーというのはかなり反発しあう存在だった印象があるのだが、実際のところはそうでもなかったのかもしれない、というような気もしてきたりしている。個人的にも身近にスターリンとアースシェイカーのコピーバンドを掛け持ちしている知人がいたりもしたのだが、1984年の旭川での話なのであまり一般的ではないのかもしれない。とはいえ、特にヘヴィーメタルは特殊なジャンルとしてとらえられる傾向にあったことは間違いがなく、ヘヴィーメタル以外なら何でも聴く、というような音楽リスナーが存在しがちだったり、シンコーミュージック社の音楽雑誌「BURRN!」や音楽評論家、伊藤政則などが一部で熱烈に支持されていた印象などがひじょうに強い。

日本のヘヴィメタルバンド、聖飢魔Ⅱが「蝋人形の館」によってオリコン週間シングルランキングで最高17位のヒットを記録するのは1986年だが、そこにはヘヴィメタルを戯画化しているようなおもしろさも感じられた。また、爆風スランプが1984年にリリースしたデビューアルバム「よい」にも「たいやきやいた」というナンセンスにヘヴィメタル的な楽曲が収録され、ライブではボーカリストのサンプラザ中野がヘヴィメタル的なかつらをかぶってパフォーマンスしたりもしていた。1985年から放送を開始したバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では一時期、ヘヴィメタルバンドが意味もなく田舎町で演奏したりするのをおもしろがる企画が好評だったこともあった。

とはいえ、1980年代の半ばあたりに日本のハードロックやヘヴィメタルは実際に盛り上がってもいて、アースシェイカーや44マグナムといったバンドや、浜田麻里や本城未佐子といったアイドル的なヘヴィメタルアーティストに人気があったり、アイドルバンド、レイジーの元メンバーらによって結成されたヘヴィメタルバンド、ラウドネスが海外でもアルバムをヒットさせるなどしていた。

全米シングル・チャートでは1983年にクワイエット・ライオット「カモン・フィール・ザ・ノイズ」が最高5位を記録するが、この曲はイギリスのグラムロックバンド、スレイドのカバーであった。ナイト・レンジャーのデビューシングル「炎の彼方」が全米シングル・チャートで最高40位を記録するが、後にシブがき隊「ZOKKON命」がこの曲にひじょうに似ているのではないかということで話題になったりもした。ボン・ジョヴィも「夜明けのランナウェイ」が全米シングル・チャートで最高39位と初のトップ40入りを果たし、日本では翌年に麻倉未稀が「RUNAWAY」として日本語カバーしていた。ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」が全米シングル・チャートで1位に輝くが、シンセサイザーを効果的に用い、メインストリームにより寄せている印象があった。

その後、1986年にボン・ジョヴィが「禁じられた愛」で初の全米シングル・チャート1位に輝き、大ブレイクを果たすのだが、ロックジャーナリズム的にはそれほどシリアスには取り上げられていなかったような気がする。80年代の前半にパンクやニュー・ウェイヴ的な音楽を好んで聴いていたロックジャーナリズム的なリスナーの興味はこの頃になると広義におけるロックミュージックからやや離れ、ヒップホップなどに向かっていったりもするのだが、1987年にザ・スミスが解散して以降、その流れは加速していったような印象もある。とはいえ、メインストリーム的にはハードロックやヘヴィーメタルを受け入れやすい状況にどんどんなっていたのではないかというような推測もできる。

それで、ガンズ・アンド・ローゼズのデビューアルバム「アペタイト・フォー・ディストラクション」は1987年7月21日に発売されていたのだが、最初のシングル「イッツ・ソー・イージー」とその次の「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」はヒットしていなく、3作目のシングルとしてカットされた「スウィート・チャイルド・マイン」が全米シングル・チャートで1位に輝いた。その勢いに乗って、それ以前にシングルカットされていた「ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル」が全米シングル・チャートをかけ上がり、1988年の末には最高7位を記録した。「アペタイト・フォー・ディストラクション」も全米アルバム・チャートにおいて、1988年から翌年にかけて通算5週にわたり1位に輝いた。1988年にはヴァン・ヘイレン「OU812」、デフ・レパード「ヒステリア」、ボン・ジョヴィ「ニュージャージー」も全米アルバム・チャートで1位に輝いていて、ハード・ロックやヘヴィーメタルがメインストリーム化していたことがよく分かったりもする。「アペタイト・フォー・ディストラクション」はボストン「幻想飛行」を抜いて、アメリカで最も売れたデビューアルバムとされているようである。

ガンズ・アンド・ローゼズは、ハードロックやヘヴィーメタルを軽視しがちなロックジャーナリズムでも好意的に取り上げられていた印象がある。1988年の青山学院厚木キャンパスといえば、全体的にバブル景気的にコンサヴァティヴなイメージがひじょうに強いのだが、あれだけ多くの学生がいると、仲にはヘヴィーメタルなファッションとアティテュードで通学し、学食で「少年ジャンプ」を読みながら爆笑しているようなタイプの女子もまたいることにはいた。講義がはじまる前の教室にいた彼女はやはりその日も黒っぽいヘヴィーメタル的なファッションと網タイツなども身につけていたと思われるのだが、やはりバブル景気的にコンサヴァティヴな女子たちに取り囲まれていて、ヘヴィーメタルのバンドのことなどについて説明をしていた。その際に、ガンズ・アンド・ローゼズのことをハードロックやヘヴィーメタルのバンドとしては普通のロック寄りというように言っていた記憶がある。ガンズ・アンド・ローゼズのことはガンズと略すのが一般的だとは思うのだが、その時に彼女はガンロと略していたような気がしないでもない。

それはそうとして、「スウィート・チャイルド・オブ・マイン」はガンズ・アンド・ローゼズの曲の中でも最も有名なのではないかとは思えるのだが、一般受けしやすいタイプだともいえる。バンドのギタリストでソングライターのスラッシュが、ジャムセッション中にジョークのつもりで演奏していたフレーズに、他のメンバーがいろいろな要素を付け足していき、それが最終的にはこの曲になったのだという。ガンズ・アンド・ローゼズの代表曲ではあるのだが、スラッシュはこの曲をあまり気に入っていないという。ボーカリストのアクセル・ローズによる歌詞は当時、交際していて後に結婚するが9ヶ月後には離婚するガールフレンド、エリン・エヴァリーについて書かれている。1950年代後半から1960年前半にかけて「バイ・バイ・ラヴ」「夢を見るだけ」などをヒットさせた兄弟デュオ、エヴァリー・ブラザーズの兄の方ことドン・エヴァリーの娘である。モノクロでバンドのリハーサル風景などを撮影したミュージックビデオには、各メンバーの当時の恋人が映ってもいる。

アクセル・ローズはけして幸せな幼少期を過ごしたわけではないのだが、この曲の歌詞に出てくる「where everything as the bright blue sky」というフレーズは当時の記憶に基づいていて、それはひじょうに美しいものだったという。イギリスでは全英シングル・チャートで最高24位を記録するのだが、翌年にはリミックスされたバージョンがリリースされ、最高6位に記録を更新している。「悪夢の惨劇」「ステート・オブ・グレース」といった映画のサウンドトラックに収録された後、1999年の映画「ビッグ・ダディ」のサウンドトラックにおいてはシェリル・クロウがこの曲をカバーしている(エンドロールではガンズ・アンド・ローゼズによるバージョンも使われている)。2008年にはミッキー・ロークが主演した映画「レスラー」でも使われるが、この映画が低予算であったこともあり、ミッキー・ロークの友人でもあったアクセル・ローズはこの曲の使用を無償で許可したともいわれる。そして、2022年にはマーベル・スタジオの映画「ソー:ラブ&サンダー」の予告編に使われたことによってリバイバルして、ビルボード誌のホット・ハード・ロック・ソングスチャートで1位に輝いたりもしている。

いまやポップ・ミュージック史に残る名曲の1つとして知られるこの曲は、イージーリスニング的な音楽にアレンジされたカバーバージョンもエレベーターやショッピングモールなどで流れていることがあり、それを聴いてスラッシュはこの曲の作者としての誇りと戸惑いとが入り混じったような気分になると語ったりもしている。