カルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」【Classic Songs】

1983年9月17日付の全英シングル・チャートで1位だったのはこれで3週連続となるUB40「レッド・レッド・ワイン」、2位にはピーボ・ブライソン&ロバータ・フラックのデュエットソング「愛のセレブレイション」が7位からランクアップしていた。そして、3位にはカルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」が初登場している。翌週から6週連続で1位を記録することになり、この年の全英シングル・チャートにおいて、ビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」、UB40「レッド・レッド・ワイン」、デヴィッド・ボウイ「レッツ・ダンス」、ボニー・タイラー「愛のかげり」などを抑えて、年間1位にも輝いたのみならず、翌年のブリット・アワードでは最優秀ブリティッシュ・シングル賞と最優秀ブリティッシュ・グループ賞を受賞してもいる。

全英シングル・チャートでカルチャー・クラブの曲が1位に輝くのは前年の「君は完璧さ」以来だが、その後にリリースされた「タイム」が最高3位、「ポイズン・マインド」が最高2位といずれも大ヒットを記録している。「カーマは気まぐれ」はカルチャー・クラブにとって2作目のアルバムとなる「カラー・バイ・ナンバーズ」からの先行シングルということになるのだが、このアルバムからは後に「ヴィクティムズ」「イッツ・ア・ミラクル」がシングルカットされ、全英シングル・チャートでそれぞれ最高3位と4位を記録している。そして、翌年のアルバム「ウェイキング・アップ・ウィズ・ハウス・オン・ファイアー」から先行シングルとしてリリースされた「戦争のうた」が最高2位と、7曲連続して4位以内にはランクインしていたということになる。「カラー・バイ・ナンバーズ」も全英アルバム・チャートで1位に輝いた。

「君は完璧さ」はイギリスのみならずアメリカでもヒットして、全米シングル・チャートで最高2位を記録している。1位はマイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」によって阻まれたものの、そのインパクトはひじょうに大きいものであった。同時期にヒットして、全米シングル・チャートで最高3位を記録したデュラン・デュラン「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」と共に、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンを象徴する楽曲として知られるようになった。第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンとは、1980年代前半に全米シングル・チャートにおいて、イギリスのバンドやアーティストが大活躍したことを指し、これには1981年の夏にアメリカで開局した音楽専門のケーブルテレビチャンネル、MTVの存在が大きく影響したといわれている。イギリスの特にシンセポップやニュー・ウェイヴのアーティストやバンドには早くから映像に力を入れている人たちが少なくはなく、そのためにMTVでもオンエアされやすかったのだという。

1982年の夏に全米シングル・チャートで1位に輝いたヒューマン・リーグ「愛の残り火」やトップ10入りしたソフト・セル「汚れなき愛」などに、その先駆けのような印象があった。1983年に入ると、マイケル・ジャクソン「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」などをはじめ、アメリカのアーティストによるヒット曲も映像に力を入れたものがわりと多くなっていき、ヒット曲は聴くだけではなく見るものでもあるような感じにどんどんなっていった。この現象は全米シングル・チャート全体の雰囲気を確実に変えてしまったような気がする。ちなみに第1次のブリティッシュ・インヴェイジョンというのは、ビートルズやローリング・ストーンズがアメリカでもヒット曲を連発した1960年代に起こっている。

カルチャー・クラブはアメリカにおいて「君は完璧さ」に続き、「タイム」「アイル・タンブル・4・ヤ!~君のためなら」をデビューアルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」からシングルカットして、全米シングル・チャートでそれぞれ最高2位と9位を記録した。デビューアルバムから3曲連続してトップ10入りするのはビートルズ以来だ、などと話題になっていたような気もする。「タイム」はヨーロッパや日本などでリリースされた「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」には収録されていなく、独立したシングルとして発売された(日本では「カラー・バイ・ナンバーズ」にもボーナストラック的に収録されることになった)。1983年の春にイギリスではすでに新曲の「ポイズン・マインド」がヒットしていたのだが、アメリカでは「君は完璧さ」に続いてこれからやっと「タイム」が売れていくところであった。よって、アメリカにおいて「ポイズン・マインド」はこの年の秋になってから、やっと発売されることになった。全米シングル・チャートでの最高位は10位であり、じゅうぶんに売れてはいたのだったが、次のアルバムからの先行シングルとしてはもっとヒットしても良いのではないか、というような気分もあった。

「カラー・バイ・ナンバーズ」のアルバムは1983年10月10日にリリースされたのだが、個人的にはその翌月に高校の修学旅行があり、興味や関心はメインの京都や奈良ではなく、最終日に数時間だけある自由行動の時間に「宝島」で記事と広告を見た六本木WAVEというオープンしたばかりの何やらすごそうなレコード店に行くことであった。とにかく感激したのだが、その時に買ったレコードというのが、カルチャー・クラブ「カラー・バイ・ナンバーズ」、ダリル・ホール&ジョン・オーツ「フロム・A・トゥ・ONE」、ポール・マッカートニー「パイプス・オブ・ピース」、ジョン・クーガー・メレンキャンプ「天使か悪魔か」、ポリス「シンクロニシティー」という、六本木WAVEまで行かなくても、別に旭川のミュージックショップ国原や玉光堂などでも買えたのではないかというようなものばかりだったことが思い出される。

それはそうとして、いまさらなのだが、カルチャー・クラブは日本でもひじょうに人気があった。このバンドがブレイクするまで、日本でカルチャー・クラブといえばもっと別のニュアンスがあったりもしたのだが、そんなことはとっくに忘れられてしまった。ソウルミュージックなどからの影響を取り入れた音楽性と、ボーカリストであるボーイ・ジョージのユニセックス的なビジュアル、そして、もちろんユニークなボーカルが最大の魅力であった。デビューアルバム「キッシング・トゥ・ビー・クレバー」では、どこか雑貨感覚というかおもちゃ箱的な音楽性がおもしろくもあったのだが、「カラー・バイ・ナンバーズ」ではそれをさらに深化させたというか、やや本格的になっているような感じもあった。「ミュージック・マガジン」の中村とうようは、それをおもしろくなくなったというように評価していたような気がするが、一般大衆はこの路線を歓迎したようである。

それにしても、「カーマは気まぐれ」はあまりにも軽すぎはしないだろうか、という印象があった。特に「カーマカマカマカマ、カマカメーレオーン」というようなあまりにもキャッチーなフレーズに特にそれを感じた。アルバム全体はもっと渋い感じになっていて、それにはヘレン・レディのソウルフルなバックボーカルも強く影響していたような気もするのだが、この次のシングルが「ヴィクティムズ」であり、それでバランスを取っていたような印象もある。とはいえ、この「カーマは気まぐれ」だが、曲調はひじょうに軽快ではあるものの、歌詞の内容は人間の心理をテーマにしたわりと深いものでもあるようである。つまり、孤立することを恐れるあまりに周囲にたいして媚びへつらうような態度について歌われている。よって、明るくて軽くてたまらなくキャッチーではあるのだが、どことなく哀感のようなものも感じられたりもする。そして、アメリカでもシングルとしてリリースされたこの曲は、1984年2月4日付の全米シングル・チャートにおいて、イエス「ロンリー・ハート」を抜いて初の1位に輝くのであった。