ビリー・ジョエル「ハートにファイア」

「ハートにファイア」(原題:We Didn’t Start the Fire)はビリー・ジョエルの11作目のスタジオアルバム「ストーム・フロント」から最初のシングルとしてリリースされた楽曲で、全米シングルチャートで1位、全英シングルチャートで最高7位を記録した。

ヒット曲がとても多い印象があるビリー・ジョエルだが、全米シングルチャートで1位を記録したのは「ロックンロールが最高さ」「あの娘にアタック」「ハートにファイア」の3曲のみである。全英シングルチャートでは「アップタウン・ガール」が1位を記録しているが、全米シングルチャートではライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」、ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「SAY SAY SAY」などに阻まれて最高3位であった(もう1曲はケニー・ロジャース&ドリー・パートン「アイランド・イン・ザ・ストリーム」である)。

日本では1978年の夏に「ストレンジャー」がオリコン週間シングルランキングで最高2位を記録していて、その週の1位はピンク・レディー「モンスター」であった。4位がビー・ジーズ「恋のナイト・フィーバー」、8位がアラベスク「ハロー、ミスター・モンキー」で10位以内に洋楽が3曲も入っていた。

「ストレンジャー」のシングルは日本だけで爆発的に売れた、というか日本以外ではほとんどシングルカットすらされていなかったことで知られるのだが、親しみやすいメロディーやニューヨークのイメージなどで、の本でもビリー・ジョエルの人気はひじょうに高く、洋楽の入門編的な役割を果たすことも少なくはなかった。

などと他人事のように書いてはいるのだが、個人的にも最初に買った洋楽のアルバムがビリー・ジョエル「ニューヨーク52番街」だったりはする。オリジナルのタイトルに「ニューヨーク」という文言は一切入っていないのだが、邦題ではあえて「ニューヨーク」が強調されていた。

アルバム「グラス・ハウス」からの最初にシングルとしてリリースされた楽曲は、原題だと「You May Be Right」だが、邦題は「ガラスのニューヨーク」であった。

1982年に社会的な問題を扱ったり音楽的にもやや実験的だったりもしたアルバム「ナイロン・カーテン」をリリースするのだが、セールス的にもロック批評的にもトータル的には苦戦した印象が強く、その翌年にはモータウンやオールディーズから影響を受けた明快なアルバム「イノセント・マン」をリリースしたところ大ヒットなり、マーケットに求められているものが明確になったような気もした。

その次にリリースしたアルバム「ザ・ブリッジ」ではレイ・チャールズやシンディ・ローパーといったゲストを迎えるものの、インパクトにはやや欠けていたような気がするのと、セールス的にもわりと地味だった印象がある。その後、ポップミュージック界のトレンドもよりダンスミュージック寄りに変化していったりもした。

それで、1989年にリリースされたアルバム「ストーム・フロント」なのだが、プロデューサーがフォリナーのミック・ジョーンズである。

「ハートにファイア」はビリー・ジョエルの典型的なヒット曲とは少し異なっていて、自身が生まれた1949年から1980年代までに起こった様々な事件やそれぞれの時代を象徴する固有名詞などを列挙することによって、何らかのメッセージ性と怒りをにじませてもいるというような内容となっている。

最後に「ロックンロールのコーラ戦争。もう我慢できない」というようなことを歌って、ミュージックビデオではテーブルをひっくり返す。コカコーラとペプシコーラのCMにおそらく巨額の契約金でロックンロールのスターが起用されがちだった当時の状況のことがおそらくは歌われている。

つまりかつては反体制的でもあったはずのロックンロールがいまやすっかり高度資本主義に飲みこまれてしまった現状に対しての異議申し立てというようなものなのだが、これをパンクロック的なアーティストがやるのならばなるほどという感じなのだが、ビリー・ジョエルはどちらかというと大衆ポップス寄りのアーティストとして見なされるタイプであり、プロデューサーもザ・クラッシュではなくて、産業ロックなどと形容されることもあったフォリナーの方のミック・ジョーンズである。

このあたりの絶妙な感じが実に良く、しかもそれがしっかりと売れてしまったというところが味わい深くもある。