洋楽ロック&ポップス名曲1001:1984, Part.1
Echo & The Bunnymen, “The Killing Moon”
エコー&ザ・バニーメンはイギリスのリヴァプールで結成されたポストパンクバンドで、そのネオサイケ的な音楽性やイアン・マッカロクの耽美的なボーカルなどで人気があった。
イアン・マッカロックはそれ以前にジュリアン・コープらとア・シャロウ・マッドネスというバンドをやっていたのだが、脱退後にティアドロップ・エクスプローズに改名した。エコー&ザ・バニーメンのライブデビューはティアドロップ・エクスプローズのオープニングアクトとしてであった。
結成当時はドラマーがいなくリズムボックスを使っていたのだが、それの名前がエコーだったことからエコー&ザ・バニーメンになったという説があるが、メンバーからは否定されているようだ。
この曲はエコー&ザ・バニーメンの最高傑作とされることも多い4作目のアルバム「オーシャン・レイン」からのリードシングルで、全英シングルチャートで最高9位のヒットを記録した。
日本でもエコバ二の愛称で人気があり、このシングルがリリースされた1984年1月20日はジャパンツアーの真っ只中であった。さらにこの年は11月にも来日公演を行っている。
ビッグマウスでも有名だったイアン・マッカロクは、インタビューでこの曲のことをポップミュージック史に残る大傑作だというようにも語っていた。
「運命はあなたの意志に逆らう」という歌詞のフレーズはイアン・マッカロクがある朝、目覚めた時に思いついたとのことだが、歌詞は全体的に抽象的であり想像力をかき立て、解釈をリスナーに委ねるようなものになっている。
音楽的にはエコー&ザ・バニーメンらしいネオサイケ的なギターロックがさらに成熟を見せ、チェロとキーボードによって奏でられるストリングス的なサウンドが雰囲気を高めている。
コード進行はデヴィッド・ボウイ「スペース・オディティ」を逆再生したものをベースにしているらしく、アレンジにはギターリストのウィル・サージェントとベーシストのレス・パティソンがロシアで聴いたバラライカが取り入れられているという。
カルトクラシックとして知られる2001年の映画「ドニー・ダーコ」ではオープニングシーンでこの曲が使われていたが、ディレクターズカット版では権利の関係でイン・エクセス「ネヴァー・ティアー・アス・アパート」に差し替えられていた。
The Style Council, “My Ever Changing Moods”
ザ・ジャムを人気絶頂期に解散したポール・ウェラーがデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズのメンバーなどとして活動していたことのあるキーボーディスト、ミック・タルボットと新たに結成したユニットがザ・スタイル・カウンシルである。
ポール・ウェラーがザ・ジャムを解散した理由は音楽的にやれることの限界を感じたことなどであり、他のメンバーにとっては寝耳に水だったわけだが、初期のパンクロック的な音楽性からモータウンや中期ビートルズなどからの影響も感じられるよりポップな路線に変化してきてもいたことからはわりと合点がいく流れではあった。
それで、イギリス国内は賛否両論があり、チャートでの順位もザ・ジャムを下回ってはいたのだが、アメリカや日本ではザ・ジャムよりも受けていた。政治的主張なども俄然強めなポール・ウェラーがジャズやソウルミュージックなどから影響を受けたタイプの音楽をやっているというのが特徴だったのだが、アメリカや日本では純粋になんとなくお洒落でセンスが良い音楽として消費されたのではないかというような気がしないでもない。
ザ・スタイル・カウンシルにとって通算5作目となるこのシングルは全英シングルチャートで最高5位のヒットを記録するのだが、アメリカにおいてもザ・ジャムやポール・ウェラーのソロ曲が一切ランクインしていない全米シングルチャートで最高29位を記録した。
ブルーアイドソウル的な音楽性にネオアコースティック的な風味もやや加わっているのだが、後に「渋谷系」と呼ばれたりもする日本のフリッパーズ・ギターやCorneliusの音楽にも影響をあたえたと思われる。
ザ・スタイル・カウンシルにとって最初のフルアルバムで全英アルバム・チャートで最高2位を記録した「カフェ・ブリュ」からのリードシングル扱いではあるのだが、アルバムに収録されたのはピアノの演奏だけをバックにしたシングルとは別のバージョンである。
アメリカでは「カフェ・ブリュ」とは収録曲や曲順が一部異なった「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」というタイトルのアルバムとしてリリースされ、この曲もシングルバージョンが収録されている。
「嵐の後の静けさ」という歌詞のフレーズはアメリカとロシアとの間における冷たい戦争に対しての恐怖が世界を覆っていた時代の気分を反映したものでもあるが、これにはポール・ウェラーの最初は個人的なことを書いているのだが、そのうちテーマがより大きなものになっていく傾向があらわれているということもできる。
ポール・ウェラーとミック・タルボットが自然の中を自転車で走るミュージックビデオも、お洒落なもの好きの間ではかなり人気があった。
The Special AKA, “Free Nelson Mandela”
ジャマイカ発祥のスカやロックステディにパンクロックをミックスしたような音楽性でヒット曲を連発したザ・スペシャルズが「ゴースト・タウン」で全英シングル・チャート1位に輝いた後、テリー・ホール、ネヴィル・ステイプルズ、リンヴァル・ゴールディングが脱退してファン・ボーイ・スリーを結成し、残されたメンバーがザ・スペシャルAKAとして活動を続けた。
この曲はアルバム「イン・ザ・スタジオ」からのリードシングルで、全英シングル・チャートで最高9位のヒットを記録した。タイトルは南アフリカ共和国の活動家で、当時のアパルトヘイト政策に反対したために投獄されていたネルソン・マンデラに由来し、その釈放を訴えたプロテストソングである。
政治的で深刻なテーマを扱ってはいるのだが、曲調は陽気でダンサブルなのが特徴である。後にソウル・Ⅱ・ソウルのメンバーやソロアーティストとしても活動するキャロン・ウィーラーもコーラスで参加している。プロデューサーはエルヴィス・コステロである。
ネルソン・マンデラはこの曲のヒットから6年後の1990年に釈放された後、南アフリカ共和国の大統領にも就任するのだが、生誕イベント的なライブでは多彩なゲストをも招いてこの楽曲が演奏されがちであった。
Tina Turner, “What’s Love Got to Do with It”
ティナ・ターナーは1960年代に当時の夫であったアイクとのデュオでデビューし、フィル・スペクターがプロデュースした「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」やクリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「プラウド・メアリー」のカバーなどをヒットさせたのだが、アイクのドメスティックバイオレンスが酷かったりもして、1976年に離婚の訴えを起こし翌々年に確定した。
その後、ソロアーティストとしての活動をはじめるもののなかなかヒットには恵まれなかったのだが、オリヴィア・ニュートン・ジョンのマネージャーであったロジャー・デイヴィスに自らを売り込み、よりロックンロール的な路線に活路を求めた。
1983年にアル・グリーン「レッツ・ステイ・トゥゲザー」が全英シングル・チャートで最高6位を記録すると、翌年には全米シングルチャートでも26位まで上がった。その次にリリースされたのが「愛の魔力」の邦題でも知られるこの曲であり、全米シングルチャートで1位、全英シングル・チャートで最高3位の大ヒットを記録し、第27回グラミー賞では最優秀レコード賞、最優秀楽曲賞、最優秀女性ポップ・ボーカル賞の3部門を受賞することになった。
この曲が全米シングルチャートで1位に輝いた時点でティナ・ターナーは44歳であり、女性ソロアーティストとしては歴代で最も高い年齢での記録をつくったが、後に52歳で全米シングルチャート1位に輝いたシェール「ビリーヴ」によって更新された。
ティナ・ターナーのハスキーでパワフルなボーカルが80年代的なサウンドプロダクションに見事ハマったこの楽曲は、情事と本質的な愛とを切り離したアンチラブソングとでも呼べるようなものになっていて、当初はクリフ・リチャードに提供されたのだが、却下された後にティナ・ターナーが歌って大ヒットさせたという。
Bruce Springsteen, “Dancing in the Dark”
ブルース・スプリングスティーンのアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」からのリードシングルとしてリリースされ、全米シングルチャートで最高2位のヒットを記録した。ブルース・スプリングスティーンのシングルとしては最も高い順位を記録した曲ということになるのだが、シンセサイザーが効果的に用いられているなど、典型的なアーティストイメージからやや離れていることもあってか、代表曲に挙げられることは少ないような気がする(NMEが2023年に発表したリストではこの曲を1位に選んでいて、かなり攻めている印象をあたえていたが)。
アルバムのためにはすでに70曲以上がつくられていて、そこから厳選された楽曲が収録されることになっていたのだが、マネージャーのジョン・ランドーはシングルヒットになりそうな曲が不足していることを指摘し、ブルース・スプリングスティーンはその夜のうちにこの曲を書き上げたようである。
そのせいかキャッチーでアップビートな曲調であるにもかかわらず、歌詞は苦悩に満ち苦みばしったものになっている。ブライアン・デ・パルマが監督したミュージックビデオはブルース・スプリーンがライブでパフォーマンスをしている映像が使われているのだが、途中で女性ファンの1人がステージに上がり、ブルース・スプリングスティーンと一緒に踊る。このファン役を演じていたのは、後に人気テレビシリーズ「フレンズ」や映画「スクリーム」シリーズなどに出演するコートニー・コックスであった。
このビデオクリップはMTVでヘビーローテーションされ、これによってブルース・スプリングスティーンは若い世代の新しいファンを多数獲得することに成功したともいわれる。全米シングルチャートでは4週連続2位を記録するのだが、デュラン・デュラン「ザ・リフレックス」、プリンス「ビートに抱かれて」に阻まれて1位にはなれずじまいであった。
ブルース・スプリングスティーンのアルバムはよく売れていたのだが、シングルは1980年に全米シングルチャートで最高5位を記録した「ハングリー・ハート」がそれまでで唯一のトップ10ヒットであった。しかし、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」からはこの曲の他に「カヴァー・ミー」「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」「アイム・オン・ファイア」「グローリィ・デイズ」「アイム・ゴーイン・ダウン」「マイ・ホームタウン」がシングルカットされ、すべて10位以内にランクインした。
Prince and The Revolution, “When Doves Cry”
プリンスの主演映画「プリンス/パープル・レイン」のサウンドトラックアルバムからリードシングルとしてリリースされ、全米シングルチャートで5週連続1位、年間シングルチャートでも1位に輝いた。邦題は「ビートに抱かれて」である。
1978年にアルバム「フォー・ユー」でデビューしたプリンスは次のアルバムからディスコポップ的な「ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」が全米シングルチャートで最高11位を記録するものの、それ以降は評論家などからは高く評価されるのだが、なかなかヒットしない状態がしばらく続く。その音楽性やビジュアルイメージなどがあまりにも先鋭的すぎたからかもしれない。
1982年のアルバム「1999」からシングルカットされた「リトル・レッド・コルベット」で初めて全米シングルチャートで10位以内にランクインして、いよいよ時代がプリンスに追いついたかもしれない、というような気分の中でリリースされたのが「パープル・レイン」であった。
キャッチーになってきてはいるものの、やはりとてもユニークな音楽であることには違いない。この曲ではすべての楽器をプリンスが演奏しているのだが、元々は入っていたというベースの音をわざわざ抜いている。
映画からの引用も含まれたミュージックビデオでは父親が母親に暴力をふるい、それをプリンスが止めるようなシーンもある。この映画にはプリンスの自伝的な要素もいくらかは入っていると見なされがちだが、それがどの程度なのかについては定かではない。
Bruce Springsteen, “Born in the U.S.A.”
ブルース・スプリングスティーンのアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のタイトルトラックで、1曲目に収録された楽曲である。3曲目のシングルとしてカットされ、全米シングルチャートで最高9位を記録した。
アルバムジャケットの星条旗とブルージーンズのイメージやアンセミックなサウンドにのせてアメリカで生まれたと高らかに歌われることから、愛国的な楽曲なのではないかと誤解されがちで、共和党のロナルド・レーガン大統領が選挙のキャンペーンに利用したりもしていたのだが、ブルース・スプリングスティーンのファンならご存知の通り、そんなわけなどあるはずがなく、ベトナム戦争の帰還兵に対してのアメリカ国歌の扱いなどについて抗議したプロテストソングである。
元アメリカ海兵隊員で反戦活動家のロン・コーヴィックによる自伝的小説「7月4日に生まれて」は後に映画化もされるのだが、この書籍をブルース・スプリングスティーンはスキー旅行中の売店で購入して読み、その内容に深い感銘を受けることになる。その後、ロン・コーヴィックに会ったり帰還兵の集会に参加したりしたことがこの楽曲にインスピレーションをあたえたようである。
当初は「ベトナム」というタイトルの楽曲だったが、映画監督のポール・シュレイダーが「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」というタイトルの映画を制作しようとしていて、ブルース・スプリングスティーンの出演も希望していたことからこのタイトルになったようだ。
その映画は後に「愛と栄光への日々」として公開され、ブルース・スプリングスティーンは出演しなかったものの、サウンドトラックに「ライト・オブ・デイ」という曲を提供し、出演者のジョーン・ジェットとマイケル・J・フォックスが歌ったバージョンが全米シングルチャートで最高33位を記録している。
Prince and The Revolution, “Purple Rain”
プリンスの主演映画「プリンス/パープル・レイン」のサウンドトラックアルバムのタイトルトラックであり、映画でもこの曲の演奏シーンがクライマックスとなっている。
「ビートに抱かれて」「レッツ・ゴー・クレイジー」が連続して全米シングルチャートで1位に輝き、3曲のシングルとしてこの曲がカットされ、最高2位を記録した。
プリンスはアルバム「1999」のツアーで全米を回っている時に、ボブ・シーガーのアンセム的な楽曲が各地の会場でひじょうに受けていることを実感し、そのようなタイプの楽曲をつくってみようと思い立った。それが、この「パープル・レイン」として結実したようである。
映画ではバンドメンバーのウェンディとリサがつくった楽曲として紹介されるが、実際にはプリンスが作詞作曲している。
1983年はデュラン・デュランやカルチャー・クラブなどイギリスのニューウェイブ系アーティストたちがMTVの流行を背景に全米シングルチャートを席巻し、第2時ブリティッシュ・インベイジョンなどといわれたりもしたのだが、この年にはブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」とプリンス「パープル・レイン」、さらにはいまだに売れ続けていたマイケル・ジャクソン「スリラー」も合わせて、アメリカのビッグスターたちが大活躍した印象である。そして、後半にはさらにまた新たなビッグスターが大ブレイクを果たす。