洋楽ロック&ポップス名曲1001:1964, Part.2
The Kinks, “You Really Got Me”
ザ・キンクスの最初のヒット曲で全英シングルチャートで1位、全米シングルチャートでは最高7位を記録した。ザ・キンクスはイギリスのバンドなのでこれもまたブリティッシュインベイジョンものではあるのだが、音がものすごく歪んでいるところなどが当時としてはかなり革新的であった。
とはいえ当時はそのような音を出すための機材などが普及していなかったため、スピーカーをカミソリで切り裂くなどの工夫をこらしていたようである。
それで、このものすごい熱量の楽曲は一体何を訴えているのかというと、レイ・デイヴィスがクラブで踊っているところを見た女性の姿があまりにもイカしていたので、そのときに感じた想いを表現したということである。
また、この曲がはじまって最初に歌われる単語がはじめは「You」だったようなのだが、女性ファンに受けようとして「Girl」に変更したらしいというエピソードも正しすぎて最高である。
Roy Orbison, “Oh, Pretty Woman”
ロイ・オービソンがソングライターのビル・ディーズと自宅で曲をつくろうとしているときに、妻のクローデットが買物に行くといったので、ロイ・オービソンはお金は必要かと尋ねたのだが、そこでビル・ティーズが可愛い女性にはお金はいらないとジョークをとばしたことがきっかけでこの曲がつくりはじめられ、クローデットが帰ってくる頃にはほとんど完成していた。
この曲はアメリカ、イギリスいずれのシングルチャートでも1位に輝く大ヒットを記録したのだが、特にこの年の全英シングルチャートで1位になったアメリカのアーティストはロイ・オービソンだけであった。
このようなわりとハッピーにも感じられるエピソードがこの曲の由来にはあるのだが、その後、クローデットの浮気が発覚したりして離婚することになる。それから再婚もするのだが今度はクローデットが交通事故で亡くなる。ツアー中に自宅が火事になり2人の息子も失った。
アップリフティングな曲を歌っていたとしても、ロイ・オービソンのボーカルにはどこか哀感がある。ブルース・スプリングスティーンなどが影響を受けたことを公言していたり、トラヴェリング・ウィルベリーズのメンバーに抜擢されるなど、1980年代以降には再評価もされがちであった。
そして、1990年にはこの曲を主題歌とするロマンティックコメディ映画「プリティ・ウーマン」がヒットして、この曲も世代を超えて聴かれ続けていくようになった。
なお、ヴァン・ヘイレンはマーサ&ザ・ヴァンデラス「ダンシング・イン・ザ・ストリート」、ザ・キンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」だけではなく、この曲もカバーしている。
The Supremes, “Baby Love”
シュープリームスの2曲目のヒット曲で、全米だけではなく今度は全英シングルチャートでも1位に輝いた。最初のヒット曲「愛はどこへ行ったの」ではあまりにも何度も「ベイビー」と歌わせられていたのだが、今回はタイトルからして「ベイビー・ラヴ」になった。
ソングライターは前作に続いてホーランド=ドジャー=ホーランドで、歌詞はラモント・ドジャーのいまだに克服することのできない初恋の相手について書かれたものだという。
また、シュープリームスのメンバーはレコーディングで歌いながら足踏みもしていたのだが、その音も録音されていて、音楽性の特徴の1つになっていた。まさにピュアポップと呼ぶにふさわしいイノセントでファンタスティックなラブソングである。
Them, “Gloria”
全米シングルチャートで最高71位ということなので、特に大きくヒットしていたわけではないのだが、ヴァン・モリソンが在籍していたロックバンド、ゼムの代表曲であり、後にパティ・スミスなどによってカバーされたことでも知られる。
北アイルランド出身のバンドではあるのだが、本国やイギリスなどではそれほどオンエアされず、ガレージレック好きのアメリカのリスナーたちの間で評判になったようだ。
おそらく性的な出会いを求めてやってきた女性について歌われている、というような解釈があり、優れたポップソングの動機としてはひじょうに正しいと感じられる。
The Shangri-Las, “Leader of the Pack”
アメリカのガールグループ、シャングリラスの代表曲で、全米シングルチャートで1位、全英シングルチャートで最高3位を記録した。当時の邦題が「黒いブーツでぶっとばせ!」であるところもとても良い。
要は恋人が暴走族のリーダーであり、大人たちからは誤解されているのだが本当はとても素敵な人、というようなタイプの楽曲ではあるのだが、その彼が交通事故で亡くなってしまうという悲しい結末が特徴的である。
異論はもちろんあるとは思うのだが、ポップミュージックには結局のところ不良に受けてなんぼという側面も確実にあるのではないかと考えていたり、むしろそっちがもっと強くなればいいのにと思っている人たちにとっては、とても素晴らしいポップソングなのではないか、というような気はしている。無名時代のビリー・ジョエルがこの曲でピアノを弾いているのではないか、という説があったりもする。
The Righteous Brothers, “You’ve Lost That Lovin’ Feelin'”
「ふられた気持ち」という邦題そのままの内容が歌われていて、全米、全英いずれのシングルチャートにおいても1位を記録している。
プロデューサーはフィル・スペクターで、ウォール・オブ・サウンドと呼ばれるサウンドを何重にも重ね合わせることによって臨場感をかもしだす手法が効果的に用いられている。
それで、愛の終わりというような自然の摂理でありありふれた出来事がドラマティックなイベントとして描写されているところには、何らかの価値があるのではないかと思える。
1980年代を代表するブルーアイドソウルなポップデュオ、ホール&オーツことダリル・ホール&ジョン・オーツも1980年にカバーして全米シングルチャートで最高12位を記録していた。
Patula Clark, “Downtown”
イギリスのポップシンガー、ペトゥラ・クラークの最もヒットした楽曲で全英シングルチャートで最高2位、全米シングルチャートでは1位を記録した。邦題は「恋のダウンタウン」である。
どんなに心が沈んでいたとしても、ダウンタウンに行けば心が明るくなる、というような内容はJ-POPクラシックであるシュガー・ベイブ「DOWN TOWN」にも通じるところがあるのだが、当時、イギリスにおいてダウンタウンという言葉からイメージされるのは、きらびやかな大都会というだけではなく、けして超一流というわけでもなく、貧しさのイメージも少しは入っていたようである。
そして、ペトゥラ・クラークはこの曲を歌うにあたって、ダウンタウンでの非日常的な感覚と背中合わせの退屈でさえない現実にまで想像力をめぐらせていたようだ。それがそこはかとない悲しみをにじませてもいるように感じられる。
The Who, “I Can’t Explain”
ザ・フーがザ・ハイ・ナンバーズから改名して最初にリリースしたシングルで、全英シングルチャートでは最高8位のヒットを記録したが、全米シングルチャートでは最高93位にとどまった。
18歳さった頃のピート・タウンゼントによって書かれていて、アンフェタミンを服用したせいでガールフレンドに愛をうまく伝えられない、ということがテーマになっている。
もちろん当事者にとって実に深刻な問題であり、それが最高のロックンロールチューンにおけるエナジーの源になっている。プロデューサーはザ・キンクス「ユー・リアリー・ガット・ミー」と同じシェル・タルミーである。
そして、後にフラワー・ポット・メンの名義で「花咲くサンフランシスコ」をヒットさせる3人がアイヴィー・リーグとしてコーラスで参加しているのだが、それが楽曲に親しみやすさをあたえているようにも感じられる。
ピート・タウンゼントのギターがそれほど良くなかったときのために、セッション・ミュージシャン時代のジミー・ペイジが呼ばれていたのだが、バックでリフを弾いた程度だったという。
The Temptations, “My Girl”
ザ・ミラクルズのスモーキー・ロビンソンとロナルド・ホワイトによって書かれた曲だが、当時、一緒にツアーを回っていたザ・テンプテーションズが歌うことになった。
愛する女性のことを最大限に誉め称えたピュアなラブソングであり、彼女がいてくれることによって、たとえ曇っている日でも太陽がそこにあるし、気温が寒かったとしてもまるで5月のような気分になれるなど、そんなことがずっと歌われている。
全米シングルチャートでは1位に輝き、大ヒット曲として知られるようになるのだが、全英シングルチャートでは意外にも43位までしか上がっていない。しかし、1991年にマコーレー・カルキン主演の映画「マイ・ガール」の主題歌として使われるとリバイバルして、最高2位を記録した。
Sam Cooke, “A Change Is Gonna Come”
サム・クックのシングル「シェイク」のB面に収録され、当時の全米シングルチャートでは最高31位だったのだが、それ以上にとても有名で高く評価されるようになっていった楽曲である。
人種差別という社会問題を取り上げ、変化が訪れることへの希望を歌ったこの楽曲をサム・クックがつくるきっかけになった出来事の1つとして、ルイジアナ州シュリーブポートのモーテルでアフリカ系アメリカ人であることを理由に宿泊を断られた件がある。
また、ボブ・ディラン「風に吹かれて」を聴いて、本来はこういったタイプの楽曲は自分たちのような人種差別の被害を受けている立場のアーティストが歌わなければいけないのではないかと、強く感じたことも影響していたようだ。
それまでのサム・クックはラブソングやダンスナンバーなどを主に歌っていて、ヒット曲も連発していたのだが、いろいろと思ったり感じるところがあった末に、後にプロテストソングの名曲として知られるようになるこの曲を書いたのであった。
この曲を収録したシングル「シェイク」が発売されたのは、サム・クックがモーテルの管理人によって射殺された11日後だったのだが、その本質的な重要性は時を経るごとに深く認識されてきているように思える。